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2009年6月26日 (金)

松阪城 - 江戸時代は紀伊藩領南伊勢を統括

 

  松阪城は安土桃山時代の1588年に蒲生氏郷(がもううじさと)により築城されました。

蒲生氏は近江で六角氏に仕えていましたが、1568年の織田信長の上洛の際に六角氏を離れ織田家の配下に入ります。

このとき六角氏は抵抗して滅びました。

氏郷はこのとき13歳で人質として預けられますが、信長は武将としての氏郷を評価し娘婿として遇しました。

氏郷は翌年の伊勢の北畠攻めの大河内城攻略戦を初陣として各地を転戦し、信長が倒れた後は秀吉に組みします。

のち柴田勝家との信長後継争いを制した秀吉は家康と対峙し小牧長久手の戦いとなりますが、氏郷も小牧に従軍します。

もともとこの戦いの直接の原因は秀吉と伊勢の松ヶ島城城主の信長の遺児の織田信雄とが不和となり、信雄が家康を見方に引き入れたものです。

したがって伊勢も戦場となり、氏郷は自分の兵を二分して松ヶ島城攻めにも坂源左衛門を遣わし参戦しています。

こちらの総大将は秀吉の弟の秀長でした。

そして戦後に氏郷は近江の日野(もともとの持ち城)から松ヶ島城に入ります。

先日の田丸城の記事で信長の北畠攻めの後、信雄が田丸城に入り、のち田丸城が火災にあい松ヶ島城に移ったことを書きました。

同じように氏郷は松ヶ島城に入りましたが、彼もここを打ち捨て結局松阪城を築きます。

彼は元の領地の日野から商人等を呼び寄せ松阪の基礎を築きました。

こののち、蒲生氏郷は小田原の役が終わるとその軍功により大きく加増されて会津に転封となり松阪を去ります。

これが1590年のことです。

そして城主は服部氏、古田氏を経て、1619年古田氏の移封にともない最終的に紀州藩領になります。

 

   御城番屋敷を石垣の上から。

   レンガ色の建物は松阪工業高校です。

   この高校の創立は古く、明治までさかのぼります。

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   松阪城の裏門です。

   普通の順路とは真逆に歩いています。

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    裏門の坂を上から。

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   あがるとすぐ左手に階段があり「鈴屋 (すずのや)」への門があります。

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   移築された本居宣長旧宅の「鈴屋(すずのや)」。

   さらに奥に本居宣長記念館があります。

   拝観料は「鈴屋」と共通で300円です。

   写真はありますが、うまく撮れていないのでカットしました。

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   天守台跡のある本丸に向かいます。

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   天守台。

   意外に質素です。

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   天守台から本丸跡を。

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    松阪歴史資料館の前を下りて入り口に。

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   こちらが表です。

   大手通りの突き当たりと思っていただければわかりやすいと思います。

   右手の坂を上がるとすぐに松阪歴史資料館。

   明治時代の図書館だったそうです。

   拝観料は100円。

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  撮影 2009/06/18

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