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2009年10月26日 (月)

備中高梁(たかはし)城(備中松山城)(2) - (「鉄道の日記念JR全線乗り放題きっぷ」旅行(10))

 

  備中松山藩は藩主の入れ替わりが激しく、最後の板倉氏が藩主として入った1744年までは一定しませんでした。

板倉氏は江戸時代の初期、家康から信任が厚い勝重が京都所司代として、朝廷、大坂豊臣氏との折衝にあたり重要な役割を務めた家柄です。

また、維新前後には第7代藩主の勝静(かつきよ)は、最後の将軍慶喜の新任が厚く老中を務め、幕府が倒れた後も新政府軍と五稜郭まで戦いました。

勝静(かつきよ)は、もともとは久松松平家の出身で伊勢桑名藩の久松松平家としては初代になる松平定永の八男で、板倉家には婿養子として入った人物でした。

ただ、最後まで抗戦したことで、備中松山藩を高梁藩に(愛媛の松山と紛らわしいという理由づけで)藩名を変えられたそうです(新政府になっても廃藩置県までは藩は存在した)。(Wikiその他より)。

高梁市内を流れる高梁川は、現在の倉敷市で瀬戸内海に流れ込みますが、その西に現在は水島という港があります。

このあたりは昔は玉島といい(現在でも町は玉島の名が)、江戸時代には備中松山藩の飛び地の領地だったそうです。

藩は高梁川から玉島港まで運河を開削したりして、玉島港は大変繁栄したそうです。

その関係で幕末に大船(おおぶね)を持っていた備中松山藩の板倉勝静(かつきよ)は五稜郭まで行ったそうです。(最後の話は、武家屋敷の係員さんが説明をしてくださいました。調べましたがよくわかりませんので、確信はもてません)

 

  大手門跡付近の石垣群。

  石は山中から切り出し使用したので、下から運ぶということは無かったそうです(観光案内所の人談)。

Pict0059

 

  石垣群の上が三の丸です。

  さらに三の丸の石垣群。

Pict0065_2

Pict0067

 

  この三の丸から階段を登っていくと天守の見える二の丸へ。

  土塀は江戸時代からの遺構で重要文化財に指定されています。

Pict0062_2

 

  登りの途中から土塀のある三の丸を見おろします。

Pict0072

 

  最後の登りになります。

  石垣の上が二の丸で天守が見えます。

Pict0074

 

  そして、皆さんがお撮りになる有名な天守が。

  天守と後ろの二重櫓が現存遺構で重要文化財です。

  ここが二の丸で、天守閣のあるところが本丸になります。

  本丸は有料で拝観料300円です。

Pict0004

  撮影 2009/10/15

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