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2011年9月 5日 (月)

旧兼山町(きゅう かねやまちょう 岐阜県可児市兼山)を散策(3) - 常照寺から古城山登り口、兼山歴史民俗資料館

 

  織田信長の家臣の森可成(もりよしなり)の居城であった美濃金山城の城下町の「旧兼山町(現在は岐阜県可児市)を散策」の最後。

 

  信長家臣で森氏と言ってもすぐにはピンときませんが、信長の小姓の森蘭丸と言えば思い出す方もいるかもしれません。

森可成は初期の信長軍団の有力な武将でしたが、浅井、朝倉との戦いの内に討死をして、また殆んど同時に長男の可隆も討死、家督は二男の長可(ながよし)が継ぎ、そして三男が比較的に良く知られた森蘭丸ということです。

四男坊丸、五男力丸、いずれも蘭丸共々信長の小姓で、森氏は本能寺の変で一挙にこの三人を失います。

 

  当時、長可は信濃の海津城を本拠地として上杉攻めで南から越後を脅かしていましたが、本能寺の変で旧武田領に配置された武将はことごとく苦境に陥り、上野(現在の群馬県)まで進出していた滝川一益、甲斐を担当していた河尻秀隆、いずれも領国を撤退、森長可も人質をとったりしながら、木曽谷を抜けてなんとか美濃金山城に帰り着くという有様でした。

いかに苦境に立たされたのかは、川尻秀隆が諸般の事情で撤退が遅れ、その後一揆によって甲斐から撤退できずに討死していることからもよくわかります。

その後、森長可(ながよし)は美濃金山城を根拠地として、秀吉を後ろ盾にしながら、東美濃の覇権をめぐって家康を後ろ盾にした苗木(現中津川市)城主の遠山友忠と争い、長可は東美濃の諸武将をことごとく平らげ、最終的に苗木城も落として遠山氏は家康を頼って落ちていき、ここに東美濃における長可の勝利が決定します。

 

  苗木の城を落城させたのが1583年(本能寺の変は1582年)で、あくる1584年には秀吉と織田信雄の対立が決定的となり、ここに秀吉と信雄に組した徳川家康との間に先端が開かれ、当時大垣城主であった池田恒興の娘婿であった森長可(ながよし)は岳父と共に秀吉方につくことに。

これが小牧・長久手の戦いで、以前の「リニモで行く長久手古戦場」の記事のなかで述べたように、三河攻撃部隊の第2陣をつとめた森長可は、この奇襲を察知した家康軍と長久手で池田父子と共に戦い討死。

まだ27歳でした。

長可(ながよし)の死後、家督と美濃金山の所領は、ただ一人残った六男の仙千代(後の森忠政)が継ぐことになります。(以上Wikiなどを参照)

しかし、凄絶ですよね。

父、息子6人の合わせて7人の内6人までが討死。

 

  森可成(もり よしなり)の菩提寺の可成寺(かじょうじ)からさらに東に歩いて行くと旧名鉄八百津線廃止に伴う代替バスのYAOバス(やおばす)の城戸坂のバス停。

Dsc00101

 

  やはり山側に常照寺があります。

  常照寺は森可成の妻で長可や蘭丸の母である妙向尼とその父の林常照の廟所。

Dsc00102

 

  常照寺の本堂。

  境内に妙向尼とその父のお墓があるそうですが気が付きませんでした。

Dsc00105

 

  この常照寺の角の信号のある道を登っていくと古城山の大手道の登り口があります。

Dsc00107

 

  この上りが暑い中けっこうきつく、兼山小学校のある大手道登り口までは7分ぐらいかかりました。

Dsc00109

 

  下の交差点の方を見下ろしたところ。

  コンクリートの橋が架かっていますが、旧名鉄八百津線の廃線跡です。

Dsc00110

 

  やっと登山口。この頃から体が熱くなってきていました。

Dsc00112

 

  第一駐車場。向こうの高台が兼山小学校。

Dsc00114

 

  車だと上まで行けるみたいですね。第一駐車場の案内板。

Dsc00115

 

  大手道の登山口。

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  左に登ると出丸跡に行けるようです。

  この後、少し登りましたが、顔や体が火照るように熱くなってきて、これは熱中症の前兆と、すぐに歴史民俗資料館に飛び込もうと急いで下りにかかりました。

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  兼山歴史民俗資料館。

Dsc00122

 

  横の「生き生きプラザ」から入ります。

  取り敢えずロビーのソファーで休憩して、トイレの水で濡らしたハンカチで体や顔、頭を冷やし、自販機の冷たい水を飲み、30分以上グッタリ。

 

  資料館の拝観は200円。結構、見応えがありました。

  最後、資料館内の休憩所で80歳になる館長さん?とお話しすることができ、森家と金山城の様々な話を聞かせていただきました。

  ここでは逐一書けませんが、面白い興味のあるお話をたくさん聞けました。

  この場をお借りしてお礼申し上げます。

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  先ほどの常照寺の角の交差点から古城山。

  館長さんのお話だと比高100mぐらいとか。

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  下渡橋からの木曽川と東海環状自動車道。

  このあたりに唯一あった食堂兼喫茶店で遅い昼食をとりました。もう夕方なんですがね。

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  17時過ぎのバスで明智駅に帰りました。兼山~明智駅のバス運賃は200円。

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  明智駅前バス停。兼山までは10分。

Dsc00033

 

  名鉄広見線(新可児~御嵩間)。このあと、終点の御嵩まで行ってみました。

  電車は新可児行きの後ろ。

Dsc00057

  撮影 2011/08/31

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コメント

知らないことばかりで勉強になりました。森氏は、ほんまに面白そうやなあ。資料もかなり残ってそうやし、森蘭丸もおることやし。ぜひ、小説にしてくださいね^^

投稿: tera | 2011年9月 8日 (木) 05時51分

小説>できません^^;

投稿: mino | 2011年9月 8日 (木) 07時59分

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