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2011年10月20日 (木)

旧児島市(現岡山県倉敷市)と福山市(広島県)を訪ねる(7) - 朝の福山城を駆け足で

 

  この日の旅行の当初の予定は、朝の内に福山城、午前中に国宝五重塔がある明王院を訪れたあと福山を離れ、再び倉敷に向かい倉敷の伝統的町並みを廻る、というものでした。

しかし、前日に全力を尽くし過ぎたのか、明王院から福山駅に戻り、一度は倉敷駅に降り立ってみたものの、もう一つ気乗りがしなかったので、岡山に向かいました。

ここでもかなり思案しましたが、もう余りどこかに立ち寄ろうという情熱が湧かず、取り敢えず東に向かう電車ですぐに乗ることができた赤穂線に乗ることになりました。

その車中でふと思い出したのが、邑久駅からバスで牛窓に行き、牛窓の本蓮寺の三重塔と牛窓港を散策するという案でした。

牛窓については以前から調べ上げてはいましたが、バスの時刻だけは覚えていなくて、もし邑久駅でバス待ちがうまくいかなければ再び東へ電車で、という心積もりで邑久駅で下車しました。

駅前のバス停の時刻表を見てみると、そんなに待つこと無く牛窓行きのバスがあり、こうして今回の旅行の最後の訪問地は牛窓となった次第です。

 

  福山駅の西の方。

  ガード下を北側に抜け、隣接する福山城へ行きます。

  もう福山城へは何回も来ていますが、問題は本当にじっくりと見ていないこと。

  しかし、今回も駆け足となってしまい、しかも、この日は連休明けなので天守閣はお休み。実は天守閣へは一度も登ったことがありません。

  いつもこのお城に来るときは、別の目的地への途中に寄ってみるという位置づけになってしまっていて、福山城には申し訳ない思いです。

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  駅南の駅正面。こちらから各地へバスが出ています。

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  西の方からお城に接近。伏見櫓が見えます。

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  駅北の登り口にある説明板。

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  道路の南は福山駅です。

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  階段を登ります。

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  登り切るとすぐに伏見櫓。

  隣りにある筋鉄門(すじがねもん)と共に江戸時代からの遺溝です。

  共に重要文化財。

  福山城は、空襲による焼失が無ければ、というほど天守をはじめとして多くの櫓が残っていたお城でした。

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  伏見櫓。西側に回って。

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  伏見櫓前から筋鉄門(すじがねもん)へ。

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  筋鉄門。

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  本丸の広場から天守閣。

  多くの資料が残っているにも拘らず外観が大幅に改変されて再建されたため、「復元天守」ではなく「復興天守」の位置づけです。

  残念ですね。

  観光的には(見栄え的には)実際の天守より良いということです。

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  鐘櫓(かねやぐら)。一部現存の櫓。

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  同じく鐘櫓。

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  天守閣の裏側。

 

  備後国の福山藩初代藩主は徳川家康の従兄弟の水野勝成(みずのかつなり)。

徳川家康の生母の於大の方(おだいのかた 伝通院)の兄弟の水野忠重(みずのただしげ)の息子が水野勝成で、家康とは従兄弟という関係になります。

水野勝成は変わった経歴を持っていて、父の忠重とあることから不和となり、家康に匿(かくま)われていたのを、父の追及が厳しくなり京に逃れます。

その後1585年の秀吉の四国征伐では仙石秀久家中となり参戦、戦後は秀吉に700石の知行を得るも、すぐに出奔して放浪。

1587年肥後領主佐々成政に千石で召抱えられるも、佐々が改易になると小西行長に千石で仕官。

1589年宇土城普請で天草五人衆の反乱が起き、この戦闘に参加、しかし鎮圧すると小西の下を離れ加藤清正に仕官、すぐに立花宗茂、さらに黒田孝高と主君を変え、黒田孝高の長男の黒田長政が秀吉に拝謁するために船で大坂に向かう途中にまたまた出奔。

再び流浪。

そして1599年、前年に秀吉が死去すると勝成は再び幕下に加わり、家康の仲介で父忠重と和解。

このとき勝成36歳。

そして1600年、勝成は家康に従って会津征伐の途次、小山の陣に宿陣している最中に、父忠重が三河池鯉鮒(現在の知立)で西軍への誘いを断り殺害されてしまいます。

これを受け勝成は刈谷へ戻り、ここに三河国刈谷3万石の家督相続を命じられます。

(以上Wiki改変より)

以後の水野勝成(みずのかつなり)の活躍は省略。 波乱万丈の半生ですね。

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  城内にある水野勝成(みずのかつなり)の銅像。

  もう一つ城内には銅像があり、それは幕末に若くして老中首座として腕を振るった阿部正弘の像です。

  福山藩は水野氏5代、天領、松平氏一代、阿部氏10代で明治維新。

  石高は水野氏10万一千石、松平、阿部氏10万石でした。

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  鏡櫓。

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  月見櫓。

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  同じく月見櫓。

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  外に出て東の駅前から公園越しの天守。

  天守を写すのなら新幹線の上り線ホームが絶好ポイントです。

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  撮影 2011/10/11

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コメント

水野勝成といえば、早乙女貢の血槍三代。少し前のブログで紹介していた可児才蔵もそうやけど、家も主君もかなぐり捨ておのれの才覚で世渡りする武者が江戸時代以前はいっぱいいたんやろうね。徳川ゆかりでいえば、本多正信・正重兄弟がそうやし、前田家の家老におさまる正信の子、本多政重もびっくりするほどのキャリアや^^
前田慶次郎、島左近等、隆慶一郎さんの世界やね

投稿: tera | 2011年10月22日 (土) 05時37分

そういう、才覚だけで食べていける社会って、基本的に自由に移動でき、何処にでも滞在でき、自由に就職できて(仕官できる)、かなりの程度の成熟社会ですよね。
剣豪なんかも、そういう社会で存在できた人たちですよね。

tera2氏>もし見ていたら。メールを送っているのですがどうも拒否されて届いていない様なのですが。実はtera氏のメールアドレスがわからなくなってしまっているので。どうするかはこれから考えます^^。

投稿: mino | 2011年10月22日 (土) 22時25分

メール、送りました^^

投稿: tera | 2011年10月23日 (日) 02時53分

福山城、7年前に一度行ったことがあります。
駅にあまりにも近いのでびっくり…。というか、地名から見るに駅敷地って、もともと城地だったんではないでしょうか。駅前=城って感じですよね。
山陽本線開通時、なんてことになると、発掘調査もあんまりできてないだろうから、なにか埋まっているかもしれませんね。

メールアドレスについては…、毎回入れているのですが、仕様で見えないのかな。@前は半角英数でまんまですし、@後ろはググればでてくると思います(はっきり書けない)。平日は毎日確認しているので、試してみていただければと思います。

投稿: tera2 | 2011年10月24日 (月) 18時49分

tera2氏>今日は。メールアドレスは2つありますね。どちらに送っても、変なメール、拒否された(全文英文)という様なメールが来ます。
もう一度試してみます。

福山城については、前日は駅から南西の方のビジネスホテルに泊まったんですが、朝、駅方向に歩いていると「西外堀跡の石垣」という遺構が保存されていました。この件は記事にはしませんでしたが、現在の駅辺りは内堀だったみたいですね。

投稿: mino | 2011年10月24日 (月) 19時36分

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