« 柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(2) - 清瀧神社と徳源院庭園 | トップページ | 柏原(かしわばら 米原市)からの帰り - 清滝の里の徳源院を訪れて »

2011年11月24日 (木)

柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(3) - 京極家墓所と徳源院三重塔

 

  清滝の里にある徳源院の庭園を観賞したあとは外に出て、京極家の墓所と三重塔を拝見。

 

  近江源氏である佐々木氏は、承久の乱(1221年)で活躍した佐々木信綱の死後、近江の領地を4人の息子で分割相続、長男が大原氏、次男が高島氏、三男が宗家となり六角氏、四男が京極氏の祖となります。

近江の領地のうちほぼ南部を六角氏、ほぼ北部を京極家が領しましたが、応仁の乱以後は京極氏は浅井氏などの台頭で没落、六角家は織田信長の上洛戦で滅びます。

しかし、京極氏は高次、高知兄弟が信長、秀吉、家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に与して大津城に篭城して戦い、その功として高次が若狭後瀬山城で若狭一国(後に小浜城に移る)、弟の高知は丹後宮津城で丹後一国を領しました。

両家ともその後の変遷で高次流は丸亀藩6万石、後に多度津藩に1万石を分地、高知流は宗家は宮津藩で一度は改易、のちに高家となり、分家が丹後田辺藩から豊岡藩、もう一つの分家が峰山藩で維新まで存続しました。

 

  このうち高次流の丸亀藩藩主京極高豊の時に、この地と播磨に所有していた領地との交換を幕府に申請して認められ(1672年)、清滝寺を復興してここに一族の墓碑を集め、整理して、高豊の父の高和の法名に基づいて、これを徳源院としたそうです。(Wiki改変より)

 

  三代目「道誉ざくら」と高豊が寄進した三重塔。

Dsc01897

 

  清滝寺京極家墓所についての案内板。

Dsc01874

 

  墓碑の配置図。

Dsc01901

 

  京極家墓所。

  一番手前の石廟は京極高次のもの。   右の門から入ります。

Dsc01903

Dsc01904

 

  門の脇にある支藩の多度津藩藩主の墓碑。

Dsc01905

 

  境内からは木が生い茂っていて三重塔を写すポイントが無いので外に出ました。

  トイレが門前にあります。

Dsc01921

 

  南に回りこんで三重塔。

Dsc01908

Dsc01914

Dsc01915

Dsc01917

 

  もと来た参道を柏原駅に戻ります。

Dsc01922

 

  柏原駅。

  駅員さんがいなくなっていて、自動券売機も無いので、車中で車掌さんから切符を買いました。

Dsc01828

 

  米原発大垣行きの普通 313系電車がやって来ました。

Dsc01935

  撮影 2011/11/14

|

« 柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(2) - 清瀧神社と徳源院庭園 | トップページ | 柏原(かしわばら 米原市)からの帰り - 清滝の里の徳源院を訪れて »

鉄道」カテゴリの記事

」カテゴリの記事

神社仏閣」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(3) - 京極家墓所と徳源院三重塔:

« 柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(2) - 清瀧神社と徳源院庭園 | トップページ | 柏原(かしわばら 米原市)からの帰り - 清滝の里の徳源院を訪れて »