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2011年12月 9日 (金)

鹿児島市と人吉市(熊本県)を観光(10) - 人吉市内を歩く(2)(人吉城跡(1))

 

  西南戦争での西郷さんのゆかりのお寺(西郷軍の本営となった)である永国寺から、門前の道路を東に歩いて行くと人吉城跡の大手門跡です。

下の図はいつもの「余湖くんのお城のページ」からの引用です。

上が南で下が北の図です。したがって、人吉駅は図では球磨川の下方向にあります。

そして、大手門から右の西方向に永国寺があります。

Hitoyosityo

 

  永国寺の山門から東の人吉城跡を望んでいます。

  前の道路を左に行くと球磨川を渡って人吉駅前に行けます。

Dsc02500

 

  反対に東から永国寺を。

Dsc02508

 

  棟川に架かる大手の橋からの復元多聞櫓ほか。

  多聞櫓は写真が残っていて、外観を忠実に復元しています。

Dsc02510

 

  棟川が球磨川に合流しています。

Dsc02512

 

  棟川の南の方。

Dsc02515

 

  大手門内に入ったところ。

  内側には道路があります。背中の方には人吉市役所。

Dsc02516

 

  このあたりは武家屋敷跡で、向こうの高台が三の丸、二の丸、本丸のある城郭の中心部。

Dsc02520

Dsc02521

 

  武家屋敷跡の北側にある人吉城歴史館。

Dsc02524

 

  上の引用図の御館とある部分に上がります。

Dsc02527

 

  ここから上に上がります。

Dsc02528

Dsc02529

 

  上がり口を横から。道路になっています。

Dsc02530

 

  上に上がると左手に相良護国神社。

  ここから奥に進み少し登る事になります。

Dsc02531

  撮影 2011/11/27

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コメント

九州は、鎌倉・室町期において中央政権に従わない地域(平家や南朝支持派)のイメージが強いんやけど、相良氏は、幕末までよく生きのびたね。
菊池、蒲池、阿蘇、宗像氏等の古くからの土着勢力や、少弐、大友、宇都宮氏等の「新興」勢力も残れんかのにね

投稿: tera | 2011年12月11日 (日) 06時41分

相良氏は、幕末までよく生きのびたね。>そうなんですよね。
Wiki情報ですけど、中世以来領地が動いていない近世大名は、島津、相良、相馬の三家のみとか。
相良が生き残ったのは、島津への牽制だったとかの説はあります。相良、伊東は島津とは犬猿の仲ですからね。

中央政権に従わない>特に菊池氏のいた肥後はその傾向が強いですね。加藤清正が国主になるまでは、なかなか治まらなかったようです。


投稿: mino | 2011年12月11日 (日) 17時02分

>相良が生き残ったのは、島津への牽制だったとかの説はあります。
なるほどなあ。西南戦争でも、西郷軍主力は今の九州自動車道沿いに、加治木から人吉経由で熊本を攻めたというのやから、島津が外征する際の主要ルートだったんやろね。あんな山の中をよう行くなあ、と思ってしまうけど^^

中世以来領地が動いていない近世大名の話は、おいらが知ってるのでは対馬・宗氏と微妙な^^蠣崎・武田氏。
島津、宗、蠣崎は、中世・近世の東アジア史の人気者や

投稿: tera | 2011年12月12日 (月) 04時53分

あんな山の中をよう行くなあ>これって今の感覚では捉えられないですね。

人吉経由で熊本を>私も、人吉で西郷軍?という思いでした。

1542年に朝倉孝景は越前から美濃に攻め込んでいるんですが、そのルートは越前大野から郡上ではなくて、根尾、徳山への山越えでした。根尾は大垣の北の方と思っていいです。江戸時代には大垣藩はこのルートの街道の整備をしています。
後には水戸天狗党もこの街道を利用しているらしいですね。

しかし、現在では全く使われていないルートで、岐阜県人からの感覚では徳山ダムあたりで行き止まり、という意識です。

これを見ても現在と昔とでは地理的感覚が全く違うようですね。


島津、宗、蠣崎は、中世・近世の東アジア史の人気者や>これは、小説家にとってもネタの宝庫ですね。密接に外と繋がっているという意味で三者は共通していますが、蠣崎はあまり世には知られていませんし、私もあまり知らない所です。

投稿: mino | 2011年12月12日 (月) 17時52分

>人吉経由で熊本を>私も、人吉で西郷軍?という思いでした。
何年か前に、司馬さんの「翔ぶが如く」を読み直したんやけど、1年以上かけて読んだので、毎日、西郷さんと一緒に九州の山の中を駆けまわった感じがしたわ^^

>現在と昔とでは地理的感覚が全く違うようですね。
うんうん、鉄道がひかれるまでは水上交通が主だったからやろね。
薩摩から人吉は、「翔ぶが如く」にも書いてたような記憶があるんやけど、人吉から球磨川を使って八代に出るルートがあったんやろね。

>1542年に朝倉孝景は越前から美濃に攻め込んでいるんですが、そのルートは越前大野から郡上ではなくて、根尾、徳山への山越えでした。

越前の主要な港は三国やね。水揚げされた物資や人は、九頭竜川で一乗谷(足羽川)や越前大野に運ばれるか、陸路、北国脇往還で武生~木之本経由で美濃に向かったんやと思います。
ただし、北国往還は、柴田勝家が整備するまでは難所だったらしいです。
朝倉軍が、徳山越えで美濃に侵入するルートは、揖斐川を使って大垣に入ったんやないかなあ。

投稿: tera | 2011年12月14日 (水) 06時56分

水上交通が主だったから>そうみたいですね。
実は江戸時代には、美濃における木曽川水系の大部分を尾張藩が握っていて、財政的に他の追随を許さないような仕組みになっていたようです。当然、軍事的にも有利ですね。
木曽の木材や長良川の上有知(こうずち 現在の美濃市)の美濃和紙とそれを和傘や提灯に加工する岐阜町、これらはいずれも尾張藩領で、それぞれの川湊から物産を出荷していたようです。

北国往還は、柴田勝家が整備するまでは難所だったらしいです>なるほど、今でも結構な山深さですよね。蒸気機関車の時代には柳ヶ瀬越えは難所だったみたいですからね。

投稿: mino | 2011年12月15日 (木) 00時57分

教えてほしいんやけど、「関の孫六」の原料(特に鋳鉄と鋼)は、どこからどのルートで関に運ばれてきたの?
諸条件にかなって、美濃刀鍛冶が栄えたんやろうけど、鉄の出所がわかりません。

人吉の話と離れてしまって、申しわけないです^^;

投稿: tera | 2011年12月15日 (木) 06時24分

横レス

刀剣の材料は、基本ズク(銑鉄)と玉鋼ですね。
鋳鉄は銑鉄と同じとする場合と、鋳物鉄とする場合があるので、用語は銑鉄にしときます。
古刀期は、古鉄を混ぜてる例も多いけど、だんだん純和鋼主体になったと読んだ覚えがあります。
まぁ、堺の数打ちなんかならどうかわかんないけど、一応孫六ということで。

たたら製鉄で作る和鋼のうち、最上質なのが玉鋼。刃の部分などに使われます。成分的にも錬鉄に近い。砂鉄からつくるからこそ得られる金属材料です。
質の悪いとされたのがズク。炭素含有量が高く、硬くもろくなります。心金や皮金に使います。
日本は江戸期末に反射炉ができるまでたたらよる製鉄(砂鉄→錬鉄)を行ってて、さらに木炭が燃料なんで、純度は高いけど生産量が低く、不足分は大陸から古鉄の輸入をしてたと思います。
ちなみに、近代以前の中国やヨーロッパでは高炉が開発されてて、これが主体。鉄鉱石から製鉄します。普通に銑鉄のみ。当然生産量は高い。

このせいで日本では鉄の回収率が異様に高く、戦国時代の古戦場からも鉄製品はめったにでてこないそうです。みんな拾うから…。
ということで、美濃の刀の鉄の出所は砂鉄の出所になると思うんだけど、岐阜県の近場だと、渥美半島~豊川が、近い産地になると思います。

砂鉄の産地については
ttp://www.geocities.jp/tyuou59/satetu.html
日本の製鉄については
ttp://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp01.htm

投稿: tera2 | 2011年12月16日 (金) 17時59分

>このせいで日本では鉄の回収率が異様に高く、戦国時代の古戦場からも鉄製品はめったにでてこないそうです。

なるほどなあ。鉄鋼の生産には屑鉄は必須やもんね

>美濃.の刀の鉄の出所は砂鉄の出所になると思うんだけど

砂鉄から打ち出した刀鍛冶もおったとおもうけど、多くは分業になってたという話を中岡哲郎先生から教わった記憶があるんや。鋼で有名なのは播磨の千草鉄。銑鉄は明からかなり輸入してたみたいやし。関の孫六も、玉鋼や銑鉄をどっかから仕入れていたんとちがうかと。
それで、越前三国と美濃のルートがあるんかなとね

投稿: tera | 2011年12月17日 (土) 07時00分

あ、説明不足でした。

刀鍛冶は普通製鉄からはしませんね。
砂跌産地に近い、尾張三河、特に尾張で製鉄してたと考えてます。

前出上のURLのリンクにもあるように、尾張氏は古代~中世にかけて熱田神宮の宮司ですが、その出自は製鉄氏族で、熱田神宮付属の鍛冶集団を持っています。、また鉄の交易でも財をなしているみたいです。
ミヤズヒメの伝承や、クサナギノツルギ、など、もともと鉄に関わりのある氏族。

三河、尾張にある産鉄地名に、須賀、猿投、金山なんかがあって、古代製鉄遺跡も複数出ています。
ttp://www2.ocn.ne.jp/~k-tatara/PDF-Files/1-6-Owarinotetsunonioi.pdf

戦国期は、水野太郎左衛門家が鋳物師のとりまとめをしていたらしい。
ttp://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris12.htm
他にも水野太郎左衛門でググればいっぱい出てきます。

日本海ルートの提唱もあるみたいですが、距離的にあっても不足分の購入じゃないかなと。

投稿: tera2 | 2011年12月17日 (土) 08時59分

>戦国期は、水野太郎左衛門家が鋳物師のとりまとめをしていたらしい

そうか。クサナギノツルギなあ。尾張・熱田は、水運と商業のイメージが強くてね。鉄ちゃんだったとわ^^
尾張の鋳物師がいたというのもびっくりです。水野太郎左衛門家、知りませんでした^^;

でもね。鋳物師といえば河内鋳物師や。鋳物師は、溶かして流す生業やけど、原料の鉄の出自や流通経路は、美原の歴史博物館でもわからんみたいやで。
中世後期の鋼の主要生産地は、先に書いた千草と出羽が定説やと思うねん。銑鉄の生産・流通は、明や南蛮鉄も含めて、よくわかってないのとちがうかなあ
鋳物師も刀工も大きな生産地は、製品の国外への輸出もあったわけやし、原材料の調達も広域的な(海外を含む)ネットワークがあったんやないのかな。

教えてもらった、日立金属のHPは流石やね。これはいいなあ

鉄道ファンの方には申し訳ない話題やけど、これも鉄ちゃんということで^^

投稿: tera | 2011年12月18日 (日) 05時14分

随分勉強になりました^^。
尾張で製鉄が行われていた事は判りましたが、一つだけ素朴な疑問が残るのですが。
それは、近いからと言って易々と軍事物資を隣国に手渡すことがあったのでしょうか。
関の刀工は室町初期からと言われているようですが、室町初期には美濃の土岐氏が尾張、伊勢の守護も兼ねていましたが、義満によって力を削がれて、尾張を追われ、後には斯波氏が守護となります。土岐氏と斯波氏等の関係も考慮に入れなければと思うのですが、どうでしょうか?

投稿: mino | 2011年12月18日 (日) 05時38分

>銑鉄の生産・流通は、明や南蛮鉄も含めて、よくわかってないのとちがうかなあ
鋳物師も刀工も大きな生産地は、製品の国外への輸出もあったわけやし、原材料の調達も広域的な(海外を含む)ネットワークがあったんやないのかな。
>それは、近いからと言って易々と軍事物資を隣国に手渡すことがあったのでしょうか。

うーん、どちらもありそうですね。美濃刀の鉄を尾張三河と言ったのは早計だったようです。
ご指摘のうち、ネットワークの存在は、流通促進の要素、関税含め軍事物資の制限は、流通抑制の要素。これらの要素の動的平衡で、時期時期で流通に変動があったと考えるのが妥当かも。

で、地産地消を考えた理由ですが、関の孫六ということで、やはり1500年頃を考えたわけです。
志津(孫六)兼元は幕末まで続きますが、有名な二代と初代以外はあまり評価されません。
さらに二代の頃はこれまた著名な和泉守兼定もいます。これが1500年頃。流通も、戦国期、安土桃山期、江戸期でずいぶん違いそうですが、この頃はまだ、地域ごとの小領主(国人)の力が強く、関税がこまめに設定されて海路以外の長距離交易がかなりきつい。座の統制が厳しく新規参入に制限がかかる。勝手に商売とかすると武力で攻撃されるといった頃ですね。

日本刀名鑑(雄山閣)による古刀期(~1599)の在銘刀工数は、備前が圧倒的で、美濃、大和、備中、山城、薩摩、備後、相模と続きますが、大消費地の大和山城を除いて、近隣に砂鉄産地をもちます。これに末物(数打ち)の刀を入れると、堺辺りが飛びぬけそうですが。

こんな辺りから、原料調達地を近場の尾張と考えました。

長いので改稿

投稿: tera2 | 2011年12月19日 (月) 00時48分

で、用事があったのでついでに図書館で製鉄史について調べてみました。中世の鉄生産はいろいろ説がでているようで、極端なところでは国内の鉄生産をきわめて低く見る説もあるようです。結論は文書が揃うまででないと思うのですが、今日調べてわかったことを挙げておきます。

1.網野氏の新見庄の研究でもあったが、千草鉄の盛んなの中世期に、近隣諸国の伯耆(IMEででない…)、出雲、備中、備後で、年貢に鉄を納めている地域が複数ある。他に大分にも文書あり。納入単位はテイ(金偏に廷)で、角棒状の製品。あるいは両、分(重量単位)、荷。
これに近いと思われる棒状鉄テイの出土地は、青森、岩手、福島、茨城、神奈川、富山、滋賀、広島。
ただし、これらは砂鉄からの製鉄ではなく、銑鉄から鋼への精錬と考えられる。

2.中世~近世にかけて継続的なたたら技術の発展があるようで、技術の途絶は考えられず、舶来鉄の流入で国内の鉄生産が圧迫されたとは考えにくい。

3.鉄の用途は、武具防具以外にも、農具、工具、釘、鍋、鎌など多様。刀に限っていうと、室町期の対中国貿易で輸出された刀の数をが約二十万本。1本5kgの鉄を用いたとすると、100万kgの鉄が使われたことになる。

4.砂鉄10に対して、鉄1程度の収量。

5.製鉄は鍛冶師も行うが鋳物師が主体。鋳物師の統括は地下人(公家)の紀氏、後に姓を真継家。で、許状または御綸旨を発行。ただし、全国(江戸、京、大坂以外)統制は江戸中期以降。名大の真継文書が有名。

6.他に鋳物師の統括を言う家は、河内鋳物師(河内国丹南郡狭山郷日置庄)の光田家。

7.鋳物師は左方総官、鍛冶師は右方総官に属し別職。

8.製鉄原料は、古代は鉄鉱石と砂鉄の両方あり。近世は砂鉄のみ。中世期は遺構が少ないが傍証から砂鉄によると考えられる。

9.科学分析で、原料が砂鉄か鉄鉱石かは分析可能。

黒滝哲哉、美鋼変幻 たたら製鉄と日本人 日刊工業新聞社
鋳物師 養田州徹 日本鋳物協会北陸支部
光永真一 たたら製鉄 吉備人出版
佐々木稔 鉄の時代史 雄山閣

…すいません。人吉に全く関係ない話を延々と…

投稿: tera2 | 2011年12月19日 (月) 00時51分

>それは、近いからと言って易々と軍事物資を隣国に手渡すことがあったのでしょうか。
tera2さんのコメントも含め、ほんとうに微妙な問題やねえ

真鍋氏は有名やけどちょっと後の話で、中世全般は河内鋳物師の支配(近畿中央部はね)と思います。
勘合貿易の主要産品、刀剣輸出は、細川・堺・河内鋳物師と大内・中国刀工やし、加えて戦国期の刀剣・槍・鉄砲・具足等の需要増大を担った原料鉄の生産と流通の解明は、歴史家冥利やないかと^^

投稿: tera | 2011年12月19日 (月) 06時04分

追記です
tera2さんの製鉄史のまとめは、知らないことも多く、とても勉強になりました^^

あえてコメントをつけるならば、中世の製鉄原料に関しては、
佐々木稔編、火縄銃の伝来と技術、吉川弘文館、2003年

砂鉄説をとらない文献で、国内で磁鉄鉱の鉱床開発が確認できないことから、中世では海外からの銑鉄輸入を重視。

それと、定説である河内鋳物師をもっと調べてほしいな^^

投稿: tera | 2011年12月20日 (火) 06時12分

お言葉に甘えて、河内鋳物師と真継家について少し

真継家が鋳物師支配を進める上で、河内鋳物師の上位者であることを主張してるので、逆に河内鋳物師より時代的には下ると考えるのが妥当でしょうね。

伝承に曰く
近衛天皇の仁平三年、毎夜悪風が吹いて禁裏の灯火が消え、怪鳥が出て天皇が悩み、高僧を召して祈願したが効果がない。河内国丹南郡を領していた真継家の祖、御蔵民部大丞朝臣元弘が、その地に住む石凝姥命の八十一代の裔の鋳物師天命に命じ、鉄燈篭一基を鋳造させて献上した。この燈篭は悪風に消えず、よって更に百八基を鋳造して禁裏を照らし、怪鳥は源三位撚り雅0が射止めた。これを嘉して天命を天明と改号させ、藤原姓を与えて国家と名乗らせ、天明藤原国家として御番を命じ、この系統以外のものには新規に鋳物業を起こすことを禁じた。

…だそうです。うーん。宣伝うまい…。
ちなみに、石凝姥命は天照大神の甥で八咫の鏡を鋳た鋳物師の祖です。(^^;

後に、後花園天皇の宝徳年間(1449-1451)に河内にいた鋳物師は、諸国に赴いて万民の需要に応じるように散在居住の許可がでた。初めは順に河内に立ち帰って勅役を務めていた。
正親町天皇(信長頃)に鋳物師座法の掟ができ、後水尾天皇の頃(江戸初期)に諸国に居住したまま公用をつとめて河内に帰らなくてもよいとされた。これ以後、鋳物師は京都の真継家の統括を受けつつ勅許鋳物師として免税、帯刀を許されて大名に仕えることになった。

この辺りからみるに、真継家の浸透は信長頃からでしょうか。
江戸期を通じて三都以外で真継家の支配は続くのですが、神道の吉田家とか、陰陽道の土御門家とか、この辺の下級貴族はバイタリティあるなぁ…。

追記ですが、今の日刀保たたらの一操業あたりの収量は、砂鉄10t、炭12t用いて鉧(ケラ)2.5tだそうです。完成度の高い蹈鞴だとここまでいくらしい。
また、前に刀一本に5キロの鉄と書きましたが、これは小割していいとこ使うからで、数打ちなら4~5本位は打てそうなので、使われた鉄の量は20~25万キロになります。訂正。

投稿: tera2 | 2011年12月20日 (火) 21時23分

頼政…でした(^^; 鵺退治。平安末。
IME、候補を数字で選ぶとしばしばボケる…。
MS日本支社は仕事雑です~。

投稿: tera2 | 2011年12月20日 (火) 21時31分

古代末期から中世初期の武家は、化け物退治をやらないとあかんのでたいへんや^^
東北蝦夷なども、化け物の一党とみなされていたんやろうか

刀剣需要(輸出も含めて)、国内材料で十分足りていた、ということなんや

投稿: tera | 2011年12月22日 (木) 05時42分

暫らくです。家庭の事情で書き込めませんでした。

ところで、中世の流通って、特に室町時代頃の流通は誰が担っていたんでしょうか。tera2氏の意見では国人の力の影響で、関の鉄の供給源は尾張という近場である、と言うことですよね。
で、一方には守護大名がいる訳で、勿論戦国大名のように国人を家臣化して一元支配ができている訳ではないので、守護大名の国人への影響力は限定的ですが、それでも複数の国を持った守護大名がいる訳で、この守護大名は国人、もしくは流通を担ったと思われる商人、物資を独占していた座の神社や寺、こういう勢力にどれぐらいの影響力を行使できたのかが、イマイチ判らなくて、このあたりはどうなんでしょうか?

投稿: mino | 2011年12月23日 (金) 00時11分

う~ん。面白いテーマやなあ。守護大名と国人・有力商人は、互いに独立した勢力を持ち、時々の利害で付いたり離れたりというイメージがあるんやけど、よくわかりません^^;

たとえば、尾張の大橋家。
津島湊の商業と伊勢湾の水運を担い、後に織田弾正忠家と深くつながるわけやけど、一方で、河川でつながる美濃高須とも関係が深い。律令でいう国を超えてるね。
また江戸期でも、美濃高須藩は尾張徳川家と濃密な関係があったみたいやし、津島社、熱田社のつながりも含め、ぜひ教えてほしいです^^

投稿: tera | 2011年12月23日 (金) 06時33分

中世の流通、部分部分では出てくるのですが、まとまってわかりにくいところですよね。
オリンパスの例を挙げるまでもなく、商人は例え損失であれ、知られるのを嫌うw

中世戦国辺りだと、収入を把握されると、課税のみならず治安の面でもリスクが上がる、損失を知られると信用面の不利、なので、収支は知られたくない、残りにくい情報だろうなぁと。
近代の農本制、士農工商の身分制+非定住の流通業なんかが被差別化されていく要因も、儒教や仏教といった要因よりも、安定課税のしやすさにあったんじゃないかと思っています。

あぁ、結果としてわかんないよね、って話なんですが…
いい本があったら、知りたいです。

その中で商業課税(+α)としては、複式簿記なんてのはないし、双方向追跡なんてできないから、

輸送に関する税(関銭、帆別銭)、市にかける税、店舗(間口)にかける税、地域にかける税(矢銭、冥加金)、組織にかける税(座の運上金)、特典にかける税(禁制、安堵状、朱印)…なんかでしょうか。

…なんかそれぞれの領主が力関係によって恣意的にとってたような気がしますよねw
で、安定しなかったり、とりすぎたりすると商人減っちゃって、逆に税収減っちゃう、さらには人まで減っちゃう上に必要な物資が手に入らなくなるから、その辺が抑制要因とか。
逆に、これを整理して安定させていく、村上武吉とか織田信長とかが力を蓄えて行く。
商人側としても、必要経費として事前に計上できるなら、それを組み込んで活動できる。

座に影響力もつような有力寺社は、そもそも土地所有+兵力すらもってる領主でもあるので、基本、課税しにくいだろうから、力関係で圧倒するまでは、特典にかける税あたりしか課税できないような。でも、遠い所領の税は当然横領しちゃうよ、みたいな嫌なバランスがあったのでは…

投稿: tera2 | 2011年12月23日 (金) 12時39分

美濃高須藩は尾張徳川家と濃密な関係があったみたいやし>tera氏 高須藩は尾張藩の世継ぎをプールしておくための支藩だったはずです。なぜ、高須なのかは判りませんが。津の藤堂も久居藩を作ってますし、単に兄弟に分地するというのも有りますが、意図的に1万石ぐらいの支藩を作っているケースは良くありますね。

津島と高須の関係については初めて聞きました。

tera2氏>なるほど。やはり、中世の流通は見えにくいのですね。
ところで、中世の領主層(寺社、その他含む)は税から得る利益と物資の移動+売買の差益で得られる利益では、どちらからの利益を重視していたんでしょうか。江戸時代などでは臨時税としての冥加金のような例はありますが、商人には基本的に税は掛かってませんね。商人に税を掛けるよりも、商人に流通、売買を委託するほうがよいのかな、と思うのですが。
う~ん、基礎知識が不足しているので、どうもこれ以上は・・・。

投稿: mino | 2011年12月23日 (金) 23時47分

昨日は神戸の竹中工務店大工道具博物館へ行ってました。大工道具の発達や他国との違いなんかがわかって楽しい博物館です。

中世の収益って、わかんないですね。銭一貫の価格比定もいろいろですし。
おいおい調べて行きたいと思います。

で、ここからはほぼ想像の世界ですw

中世末の中堅の国人を想定します。領地は5km×4km、うち約半分が耕地です。耕地面積は10km2
永代の苦労により、水利は発達しています。おかげで耕地はほぼ上田で、100m2で10石の玄米が収穫できます。(一反から一石として端数を雑にまるめ)
つまり、農業収入=石高が1万石、近世ならぎりぎり大名といったところ。
これまた近世の一石=一両=10万円という雑なまるめで、五公五民の税として、収入が5億円程になります。実際は産地価格で売値なんで、もっと下がりますが、近世より流通が悪く、戦争消費もあって備蓄率も低いんで単価は上がると考えて相殺。
結局農業歳入は5億とします。
自分が1億とって、家臣200人に年200万ずつ払える位?

さて、この程度の領地なら、領主館の近くに常設の店舗が多少と、あとは十日に一度市の立つ村が4~5個…。

よほど交通の要地や、門前町でないと、5億いかないような気がします。

雑な考えですが、やはり農業収入基本の領主が多数なんじゃないかなと思いました。

投稿: tera2 | 2011年12月25日 (日) 16時56分

なるほど、と思います。余剰な生産物が無ければ、流通も無いですね。
tera2氏の言われるように農業収入が基本でしょうね。
で、元の話に戻るかも知れませんが、多くの土地では農業収入が基本とは思います。
しかし、特別の特産品(例えば鉄、菜種油等)が自らの領地で消費できないぐらいに生産できて、また他の地域で消費が見込めるという場合は、どうなんでしょうか。
この場合、農業(自分で食べるという意味での)をどうするかも関連してきますから難しい問題ですが。
これは私の想像ですから、取り止めが無いのですが^^;

投稿: mino | 2011年12月26日 (月) 22時53分

議論を堂々巡りさせて、御免なさい^^;

投稿: mino | 2011年12月26日 (月) 22時56分

>しかし、特別の特産品(例えば鉄、菜種油等)が自らの領地で消費できないぐらいに生産できて、また他の地域で消費が見込めるという場合は、どうなんでしょうか。

米は領地経済の主体だったとは思いますが、これだけに頼ると、自分の領地で手に入らないものの入手に困りそう。豊作の時なんかは、周囲も豊作でしょうし。
鉄の所でも出たように、特産品での納税はどこでも一般的に見られるので、それなりの比重は占めているんでしょうね。

前のレスでは、米での収入を挙げましたが、それ以外の産品による収入は結構大きな比率を占めると思います。

農家の副収入というだけでなく、中世での「職人(一次産業(鉱業)、三次産業(流通、芸能)を含む)」が主体になるような産品で、他所の領地で手に入らないようなものがあると、それが主な収入源になる場合もあると思います。

越後の苧麻、甲斐の金、美濃の紙、播磨の鉄、石見の銀、瀬戸内の塩などは、領地経済の相当の比重をしめてそうです。つまり生産物による税収入ですね。

これらも流通による収入と言えなくはないんですが、流通税による収入はそこまではいかないんじゃないかなと。もちろん、堺・博多を筆頭に、地方の港(十三湊、敦賀、小浜、津守、熱田、安濃津、雑賀崎、兵庫、室津、鞆、防府、府中、坊津…)でも大きな商業規模の所では莫大な収入があったと思いますが。

中世の物流資料と聞いてまず頭に浮かぶのは、兵庫北関入船納帳なわけですが、例えば

ttp://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imatani-hyogonozeikandaicho.htm

これに出てくるのは瀬戸内の産物なんで、農作物以外に海産物と塩が多いんですが、1400年代でかなり多様な物品の流通があったことがわかります。この辺今谷明氏や網野善彦氏の著作が詳しい。

しかし、関銭や艘別船はかなり安いようです。この関が東大寺の納税窓口という性格のせいかもしれませんが。

そもそも金貨銀貨がほとんどない時代なんで、銭一貫10万円としてこれの重さが3.5キロ。流通って相当大変だった気がしますw

投稿: tera2 | 2011年12月28日 (水) 20時52分

>よほど交通の要地や、門前町でないと、5億いかないような気がします。
>しかし、特別の特産品(例えば鉄、菜種油等)が自らの領地で消費できないぐらいに生産できて、また他の地域で消費が見込めるという場合は、どうなんでしょうか。

中世、多くの地域は、tera2さんに指摘のように農業主体の名主経営だったと思います。
ただし、関西や中京や瀬戸内・九州の(あるいはそれら以外も)水運が発達した「先進地域」は、やはり商業やろね。
これもtera2さんが書かれているように、貢納の程度を確定してくれると必要経費でおとせるので、特に新興商人は、中世的なややこしさ(座や関等の問題)を解決してくれる有力な庇護者を求めたと思います。
それなくして戦国大名も飛躍できななかったやろうし。
また、マーケットと貨幣経済と接触することで生産拡大の意欲が高まり、次の時代(中世末期から近世前半)の農業生産と人口の爆発を生み出したんやないかな。

tera2さんの「一反から一石」の話は、とても面白かったです。このようにモデル化するととてもわかりやすいね^^

ただ、「一反から一石」は、面積当たりの生産性が高まる江戸中期のモデルやないかな。
中世末期までは、コメの生産は極めて不安定で、よくてもその半分強とちがうか。
農業自体が不安定で、農民はしばしば逃亡する。河川の下流は氾濫が多く、川の上中流で耕作。したがって、主要生産物は麦、豆、雑穀で米も陸稲。

よく言われるように、稲穂のたわわに実る田園風景は、中世末期~近世前半の「大開墾時代」を経てからやね。

「大開墾時代」の人口爆発と耕作地の飛躍的拡大(経済成長)の背景は、
1.コメの主要生産地ではなかった河川下流(デルタ)の開発と治水:耕作地の飛躍的拡大。利水中心からこれまでほとんど行われなかった治水が課題に
2.湿田に適した外来種インディカ米(赤米)の普及:西日本中心に、関東・北陸の海側へ
3.小農経営の成立→傍系家族員と隷属労働力に依拠する中世的名主経営からの転換とそれにともなう出生率の上昇

市場と接触することで、生産拡大のインセンティブが高まり(生活水準の上昇期待)、意欲を期待できない傍系親族や隷属農民の切り捨て=小農経営の確立。
戦国大名も富国強兵路線をとらないと生き残れない。
税も、rent(名主の私的消費を満たすだけ)からtax(公共サービスの提供)へ。

まとめると、こういう話やなかったか。

参考文献としては、まず、
斉藤修、大開墾・人口・小農経済(速水融・宮本又郎編、日本経済史1経済社会の成立、岩波書店、所収)

手に入りやすさでは、
鬼頭宏、人口から読む日本の歴史、講談社文庫、かな

投稿: tera | 2011年12月29日 (木) 06時38分

長い議論が続きましたね。もう、私の手に余る領域です^^;

では、良いお年を(^^。

投稿: mino | 2011年12月30日 (金) 06時41分

補足(という、くどいか^^;)

主さんの指摘のように、余剰生産物がないと市場経済もない。
中世の市場経済・貨幣経済を推し進めたのは、平安末期から鎌倉時代の耕地の拡大=余剰生産物の発生やろね。
この時期も「大開墾時代」やけど、主流は畑。一方、中世末期~近世の「大開墾時代」は米。
米は貴重やから、しばしば支払い手段(貨幣)となる(米が貴重でなくなるのは、1960年代後半)

ちょうと名主経営(中間管理職)の全盛と同期するわけやけど、その後、名主層も分解し没落するものと武装豪族化にわかれる。
決定的なのは、名主経営のもとで、貨幣経済に刺激され、百姓が小農として自立していくこと。

市場との接触がない地域では競争がないので、さまざまな農耕のやり方(と階層)が共存=農業の生産関数が定まらない
一方、市場化されると、一生懸命働けば生活が豊かになる、というインセンティブが生まれるので「効率」を考える。

やっと、数値によるモデル化ができるね^^

投稿: tera | 2011年12月30日 (金) 06時42分

長くなってきて、気が引けるんですが(^^;

中世の貫高制の時代に石高モデルを組んだのがおかしかったですね。
ただ、江戸初期の人口増大は、単位面積当りの収量が増えたというより、それこそ耕地面積が増えた要因が大きいように思ってました。
染井吉野や変り朝顔の例からも、江戸時代に植物の品種改良の概念はあったようですが、さほど効果が顕著だったのかなと。

なんで、計算の際、領地面積の半分を耕地としたんですが。
ちなみに、現在は、品種改良+肥料+農薬のセットで、1反当り5石は採れるようです。

一反1石は実は古代からの通念で、収量の上昇に合せて、太閤検地の時に、一反を360坪→300坪に直してます。(wikipedeia:反)
また、後北条氏において、田1段(=1反)あたり500文、畑は1段あたり150-200文を標準として、永楽銭あるいは代納として米6斗~7斗を納めさせているようです(wikipedeia:貫高)。
北条氏と言えば四公六民で周辺にうらやまれたというのがよく聞かれますが、これが本当とすると、360坪で1.5石~1.75石、現在の一反に換算して、1.25石~1.46石の収量になります。五公五民で1石~1.17石。

この辺から、一反一石かなぁとしたんだけど、実際の収量はもっと低かったのかな…。

投稿: tera2 | 2011年12月31日 (土) 02時41分

tera2さんへの、コメントです

>ただ、江戸初期の人口増大は、単位面積当りの収量が増えたというより、それこそ耕地面積が増えた要因が大きいように思ってました。
うんうん、江戸初期は大開拓時代やからね。単位面積当たりの生産性を高めたのは江戸中期以降やね(既出)

>ちなみに、現在は、品種改良+肥料+農薬のセットで、1反当り5石は採れるようです。
現在はだいたい1反、10アールで500キロくらいやね(農林省のHP)。

一反1石一人の年間消費量はよくいわれてたわけやけど、怪しいというのが既出の文献。そういうところで数量経済史がでたわけや

>後北条氏において、田1段(=1反)あたり500文、畑は1段あたり150-200文を標準として

これは、土地の評価のこと、それとも地租?地租なら大きすぎるなあ。畑作中心とみれば、そんなものかなあ

投稿: tera | 2011年12月31日 (土) 07時33分

>平均収量
全国平均だと3.5石位ですね
5石は、先週までやってたNHK 極める お米学、の農業試験場の収量を石に直した数字でまぁ現時点でのMAX です。

>後北条氏
地租です。太閤検地の石盛が上田で1.5石なんでそんなものかも(Wikipedia 石盛)

ttp://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/koku-per-tan.htm

で石盛の比較してるので参考にどうぞ。

投稿: | 2011年12月31日 (土) 11時47分

今日は奈良日帰りで、現在ジャンボフェリー船上です。
本年中妙な書き込みてんこ盛りで、失礼いたしました。
今年最後の書き込みとなります。

良いお歳をお迎え下さい。

投稿: tera2 | 2011年12月31日 (土) 20時05分

tera2氏>とんでもありません。興味深いやり取りで、楽しく読ませて頂きました。

来年も宜しくお願いします。

投稿: mino | 2011年12月31日 (土) 21時57分

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