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2012年2月 8日 (水)

阿久比町(愛知県)の坂部城跡を訪ねる(3) - 坂部城跡(久松松平家の発祥地)

 

  徳川家康の生母である於大の方(後の伝通院)の再婚先である久松氏の居城が阿久比町にある坂部城です。

久松氏は尾張知多半島の国人領主で、於大の方の再婚相手の久松俊勝の祖父である久松定益が1510年ごろに坂部城を築き、本拠としました。

隣の緒川城を拠点とする水野氏とは関係が深く、常滑の大野城を拠点とする佐治氏とは共に戦っており、於大の方が嫁いだ俊勝の亡くなった前妻も、水野氏からの女性だったそうです。

 

  前回の記事でも書きましたが、於大の方の父の水野忠政が亡くなると、跡を継いだ水野信元は織田家と同盟を結び、今川方であった松平広忠に嫁いだ於大の方は、後の徳川家康となる男子をもうけていましたが、今川を慮った広忠に離縁され、忠政の頃に拠点を移していた刈谷に戻ります。

そして久松家に再稼し、久松俊勝との間に男子を3人(女子は3人とも4人とも)もうけ、これが後に松平を名乗り久松松平家となります。

久松俊勝は桶狭間の戦い以後、家康に従い三河統一戦に従軍して、三河に領地を得て(現蒲郡市の上ノ郷城)、ここに妻子と共に移り、阿久比は前妻との間に生まれた庶長子の信俊に譲り、信俊が久松家を継いでいます。

 

  向こうに見える洞雲院(とううんいん)から、今度は左手の坂部城跡へ。

  町立図書館のある場所が坂部城跡の一部で、となりの城山公園がお城の本丸跡だそうです。

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  すぐにこの碑のある場所に。

  右に行くと図書館の入り口、左が公園へ。

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Dsc03424

 

  登って後ろを振り返ったところ。

Dsc03425

 

  ここから公園内に。左右には土塁の跡。

Dsc03426

 

  綿畑。於大の方が農民に綿花の種を与えた逸話から。

  そういえば、戦国時代後期から三河は綿花の産地だったんですね。

  於大の方の逸話は三河が綿花の産地ということと関係があるのでしょう。

Dsc03428

 

  残っている本丸の跡。

  ぐるりには土塁が見られます。

  図書館のある場所も城郭の一部であったようです。

  いずれにしても小規模な城跡ですが、やはり小高いところにあり、阿久比川の河岸段丘とも言われています。

Dsc03430

 

  反対側の町立図書館への通路。

  土塁の跡が見受けられます。石垣は最近の新しいものです。

Dsc03431

 

  町立図書館の正面。

Dsc03434

 

  図書館との通路から南側の崖へ。

  向こうに見える平地と比べると、比高があるのがわかります。

Dsc03435

 

  戻ってきました。本丸跡です。

Dsc03436_2

 

(久松)松平姓を名乗ることとなる家康の異父兄弟の3人とその子孫からは大名や旗本が多数輩出しました。

  長男の康元、次男の勝俊、三男の定勝と、それぞれの子孫のうち、

  明治まで続く大名は末子の定勝系から伊予松山藩、桑名藩、伊予今治藩の大名が出ました。

  その内、伊予松山藩から旗本が一家分家しましたが、その子孫が元NHKのアナウンサーの松平定知氏で、平成3年に当地を訪れ記念植樹をされています。

Dsc03437

 

  土塁跡がよく残っています。

Dsc03441

 

  元来た道を戻りました。

  阿久比川を見てから、名鉄の坂部駅からさらに南に。

Dsc03444

  撮影 2012/02/05

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コメント

渥美半島は何度かいったことがあるけど、知多半島は全く知らず、面白かったです^^

戦国の知多半島関連は、大族の織田、松平氏の動向。
少し小さいけど結構運動する水野、鈴木氏やより小さめの領主、久松、佐治氏との関係。
それらに、渥美の戸田氏や伊勢の諸豪族、あるいは尾張津島の加藤家や内陸海運を担う川並衆等がからみ、とても興味深いです。

投稿: tera | 2012年2月10日 (金) 06時16分

今日は。久し振りですね。

三河鈴木氏については、全く知りませんでした。ちょうど、現在の豊田市一帯の武将一族ですね。
菅沼や奥平もそうですけど、同じ一族でも家康に付き従ったことで家運が開けるんですが、当時は自分の主君がどうなるかは分からないので、もう運としか言いようが無いですね。

とても興味深いです。>確かに地域での武将たちの推移は、興味が尽きないですね。

しかし、小さな地域の動向は、何かのきっかけが無いと調べないので、知らないことは多いですね。

投稿: mino | 2012年2月10日 (金) 23時05分

>当時は自分の主君がどうなるかは分からないので、もう運としか言いようが無いですね。

戦国時代、岐阜、愛知、静岡を「東海」でくくると、土岐・斉藤、織田、松平、今川氏に画期的な人物が出現。
それらのまわりの在所領地主が、自家の盛運を、生命を的にリスクをとるんやろうね。

「信長の野望」の影響か、全国の守護・戦国大名が京都を目指して争ったかのような話がよく出てくるけど、眉唾やね。
分権の時代に、中原を目指す根拠が不明や。

むしろ、大内、細川・三好の中国・四国勢、畠山・六角等の近畿勢の興亡。それに、東海勢力が加わる三国志やないかなあ。

美濃・尾張衆が、なぜ京を目指したのかのかは、とても興味深いです

投稿: tera | 2012年2月11日 (土) 05時43分

「信長の野望」の話が出ましたが、ゲームでは勿論プレーヤーが意識的に統一を目指しますが、現実とよく似ているのは、一定の武将から盛んに攻められると、防衛上、反対に攻め返して滅ぼす、というパターンがよくあります。
国家論的な話はtera氏の方が詳しいと思うのですが、こういった衝突を避けるための装置が幕府であった訳ですよね。
しかし、無力化した室町幕府の元では、衝突は避けられなくて、その積み重ねが領国の肥大化につながり、さらに大きくなっていく。
ただ、どのあたりで武将たちが天下統一ということを意識したかは、武将の個性もあって判りませんが。

美濃・尾張衆が、なぜ京を目指したのか>は、よく分かりませんが、中央の要請という形で応じるわけで、織田信長の個性に帰してしまうのは安易なんでしょうか?
他にはっきりと京を目指した(らしい)のは、今川、武田、上杉ですが、今川以外はすでに中央にいた対織田信長の側面のほうが大きいのでは、と思いますが。

投稿: mino | 2012年2月12日 (日) 05時20分

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