« 刈谷駅(名鉄&JR) - 愛知県刈谷市 | トップページ | 手力雄神社(てぢからおじんじゃ 二つの同名の神社) - 岐阜市と各務原市 »

2012年3月29日 (木)

気比(けひ)神宮を訪れる - 福井県敦賀市

 

  岐阜駅を出発したのがお昼過ぎと遅く、そして空模様が悪くなっていく中、米原から北に向かい、近江塩津で乗り換えて敦賀に到着したのはもう15時すぎでした。

雨がパラツク天候で、どうしようかと思案していたところ、駅前の目の前に待機していたバスの行き先表示が気比(けひ)神宮経由となっているの見て、すぐに飛び乗りました。

帰りは歩いて帰ってきましたから、そんなに距離がある訳では無いので、物の数分で気比神宮前バス停に着きました。

市内料金で200円。

 

  近江塩津駅にて。

  米原から乗ってきた223系車両が折り返して播州赤穂行き新快速となります。

  米原までは4両で、米原で増結します。

Dsc04344

 

  敦賀駅。

  駅の大きさから考えると控えめな駅舎ですが、北陸新幹線との兼ね合いから、今は大々的に手が付けられないのでしょうね。

Dsc04393

 

  駅前と駅前通り。

  都怒我阿羅斯等(つねがあらしと)の像が建っています。

  敦賀はもともとは角鹿(つぬが)と呼ばれていましたが、その語源の人です。

  日本書紀に都怒我阿羅斯等(つねがあらしと)の渡来伝承が記されており、崇神天皇に3年仕えた後、半島に帰って加羅国を天皇の名を貰い任那国へと変更したという、そういう話だそうです(「ふくいドットコム(福井県観光情報HP)」より引用参照)。

  都怒我阿羅斯等の読みについては、「つぬがあらしと」が普通です。

  上記のように「ね」と表記しているのは単なる手違いなのかどうか、そこのところは分かりません。

Dsc04394

 

  敦賀市の地図です。右がほぼ北です。

  駅前通りは北西に、途中で北に向かって伸びています。

  その先の交差点に気比神宮があります。

Dsc04381

 

  駅前通りが北(右)に方向を変える交差点。

Dsc04382

 

  鉄道の町ということで「銀河鉄道999」のモニュメントが大通りの左右に建てられています。

Dsc04390

Dsc04385

 

  駅前通りにある屋根付きの歩道橋から敦賀駅を。

Dsc04387

 

  気比神宮前バス停。

  途中の通りの写真は歩いて帰った時に撮影したもの。

Dsc04345

 

  気比神宮前の交差点から南の方の山々を望んで。

Dsc04349

 

  交差点の西から気比神宮の鳥居。

  鳥居は重文指定ですが、国宝であった社殿は空襲で焼失したそうです。

Dsc04346

 

  式内社で越前一宮、戦前の社格は官幣大社でした。

Dsc04380

 

  非常に印象に残る、風格のある鳥居でした。

Dsc04353

 

  神宮前の交差点、西の方をのぞんでいます。

Dsc04354

 

  入って左手に中鳥居と拝殿。

Dsc04356

 

  社殿のうち拝殿。

Dsc04359

 

  参拝を済ませて、振り返ったところ。

Dsc04361

 

  拝殿から見て左手は回廊になっています。

  この部分の門を出ますと駐車場(東駐車場)が備わっています。

  その又向こうの神宮内の境内に都怒我阿羅斯等(つねがあらしと 「ふくいドットコム(福井県観光情報HP)」での表記。普通は「つぬがあらしと」)を祀った角鹿(つぬが)神社があります(この日はそちらまで行かなかった)。

Dsc04362

 

  中鳥居越しに拝殿。

Dsc04367

 

  中鳥居の前、社務所の横にある松尾芭蕉の像。

  台座に「月清し 遊行のもてる 砂の上」と奥の細道の句が彫られています。

  敦賀を訪れた際に詠まれた句。

Dsc04371

 

  奥の方に神水苑と奉納された絵馬が掲げられている会館(HPにはこう書いてある)がありました。

  左手に行くと東駐車場があります。

Dsc04376

 

  比較的に良好な絵馬。軍装から明治時代の絵馬で、お城は福井城かなと。

  気比神宮は戦国時代には朝倉氏に味方したため、織田信長の焼き討ちにあって焼失しましたが、その後、福井藩祖の結城秀康が再建した経緯があります。

Dsc04374

 

  昭和初期に奉納された北日本汽船の絵馬。

  「食べログ」というサイトでもこの絵馬の写真が掲載されているのを偶然見つけました。

Dsc04375

 

  帰ってから調べたら、私がこの日に神宮内を歩いた部分は神宮全体の三分の一だったことが分かり、少しガッカリしました。

  帰りの敦賀駅までは歩いて帰りました。

  しかし、大通りは商店街として駅と気比神宮との間の歩道にアーケードがあり、ほとんど濡れることなく駅に戻れました。

Dsc04379

 

  敦賀駅にて。近江今津行きの521系。

  近江今津は湖西線の駅なので分岐駅の近江塩津で長浜行きに乗り換えました。

Dsc04399_2

  撮影 2012/03/22

|

« 刈谷駅(名鉄&JR) - 愛知県刈谷市 | トップページ | 手力雄神社(てぢからおじんじゃ 二つの同名の神社) - 岐阜市と各務原市 »

旅行・地域」カテゴリの記事

北陸地方」カテゴリの記事

鉄道」カテゴリの記事

神社仏閣」カテゴリの記事

コメント

気比神宮にいったのなら、同じく一宮、若狭彦神社もお勧めです。

こちらは、少し季節遅れやけど「お水取り」と関係が深い神様で、以前書いた「丹生」関係です

投稿: tera | 2012年3月31日 (土) 08時07分

お久しぶりです。
この一週間、北へ南へと急がしそうですね。岐阜からだと昼に出発して、敦賀に日帰りできるのですね。私はどうも名古屋中心で見てしまいます。

日本書紀に渡来伝承があるのは知りませんでした。古くから半島との交通が活発だったことなどを示唆していて意味深い話ですね。
でも都怒我阿羅斯等の「怒」はどうして「ぬ」ではなく「ね」と読むのでしょう。

若狭彦神社もお勧めです>
二月堂の若狭の井戸が地下でつながっているという伝説の井戸がある神社のことですか。
若狭も古代から天皇とのつながりが強く、海産物を贄として差し出していた地域ですね。昔、網野善彦さんが色々書いていたように思います。

投稿: ddol | 2012年3月31日 (土) 20時51分

tera 同じく一宮、若狭彦神社もお勧めです>こちらは、若狭国の小浜ですね。
小浜については、お城を含め神社仏閣を巡ると1日以上を要します。何年も前から計画をしていますが、なかなか行けません。
レンタサイクルでないと、徒歩旅行者にはきついですね。
ddol 「怒」はどうして「ぬ」ではなく「ね」と読むのでしょう。>本当ですね。私がコピペした福井県の観光案内HPの読みが「ね」となっているんですが、他では「ぬ」と読んでいます。
万葉仮名の場合では「ぬ」、「の」の用例はあるそうですが、「ね」は無いようですから、福井県のHPの誤植なのか、それとも何らかの根拠があっての読み方なのかは分かりません。
これは、記事中に注釈を入れておいたほうが良いですね。

半島との交通>半島だけではなく、渤海からの使節も、能登半島から山陰にかけて漂着(この表現は誤解を招きますが)しているみたいです。

投稿: mino | 2012年3月31日 (土) 21時48分

渤海>
民間レベルでの交易は推測されていましたが、使節も漂着しているのですか。渤海から筑紫ではちょっと無理がありますよね。
ネットで調べた範囲でですが、渤海の位置付けについては日韓の間で違いがあります。それぞれ何故そういう見解を取るのか説明されていないので、素人にはわかりづらいです。

ところで日本書紀の都怒我阿羅斯等の箇所を読んでみると、まず出雲に行ってから敦賀に来ていることになっていました。別伝では難波に来たことになっていて、当時の半島や大陸との交通が頻繁だったことを示唆しているようです。
この記事は短いですが様々なことを含意していて興味深いです。

投稿: ddol | 2012年4月 2日 (月) 21時25分

渤海の位置付け>高句麗絡みではないでしょうか。韓国では渤海は、高句麗の後継国家→渤海も半島の国家。

高句麗、新羅、百済三国時代は日本でもほぼ異論は無くても、渤海となると半島との関連は認め難いという見解。

これが中国では高句麗自体が中国の地方政権、これが中韓の歴史論争ですね。

こんな関係ではないのでしょうか?詳しいことはddol 氏の方がご存知でしょうから、補完して下さい。

ところで日本書紀の都怒我阿羅斯等の箇所を読んでみると、まず出雲に行ってから敦賀に来ていることになっていました。>やはり、直接読まれたんですね。
確か、日本書紀の記事は古事記からの引き写しではないかと、そういう注釈も見ましたが、別伝とは、なんと言う資料なんでしょうか?

また、古事記にはどのように記述されていますか?

投稿: mino | 2012年4月 3日 (火) 03時21分

様々なことを含意していて興味深いです>なんとなく分かりますが、具体的に膨らませて下さい。

投稿: mino | 2012年4月 3日 (火) 03時24分

渤海のことはやはりご存知だったのですね。minoさんのおっしゃる通りです。ここでは簡単に日韓のウィキの違いだけを紹介しておきます。
渤海を建国した大祚栄について。日本版では粟末靺鞨出身、韓国版では高句麗の将軍出身として渤海を高句麗の継承国と位置づけています。したがって韓国版は高句麗の遺民が支配層を形成しているとします。
渤海という国名について。日本版は渤海湾から来ているとするのに対し、韓国版は中国黒竜江省にある「忽汗海(鏡泊湖の古称)」をその起原に求めています。
渤海の行政機構について、両方ともに唐の機構を導入した点は一致しますが、韓国版は「唐の制度を受容したが、名称と運営は高句麗の伝統を生かし、渤海の独自性を維持した」としています。
史的展開に関してはほぼ同じです。
最後に韓国版はウィキとしては特異で、大祚栄などの王の名前はハングル表記のみで漢字の紹介がありません。
日本版を見ると日本語の書籍も多少あるようですね。韓国時代劇の紹介までありました。

記紀などは電子テキスト化して公開してくれてる方がいらして、そのテキストで都怒我阿羅斯等を検索しました。日本書紀の垂仁天皇の箇所で、手元にある黒板勝美編の岩波文庫で読みました。ほとんど注がないので、別伝の根拠となる資料はわかりません。
古事記も同様に検索しましたが、都怒我阿羅斯等はかかりませんでした。表記が違う可能性もあると思います。
ただ古事記の垂仁天皇の箇所には、「三宅連等の祖、名は多遅摩毛理(たじまもり)」という人の話があり、注に「新羅の天子天之日矛の玄孫」とあります。天皇が多遅摩毛理を「常世の国」に遣わしている間に天皇が亡くなったという話で、都怒我阿羅斯等が垂仁の前の崇神天皇を慕って日本に来たが、道に迷っている間に天皇が亡くなったという話と類似しています。
minoさんがおっしゃっているのはこの話ではないのかもしれませんが。

具体的に膨らませて下さい。>
これも古事記の件と合わせてネットで調べてからまた報告します。

投稿: ddol | 2012年4月 5日 (木) 21時41分

敦賀といえば、小樽への連絡船が思い浮かびます。船内食堂が…しょぼくてつらい。
戦国時代なら、金ヶ崎。
江戸時代だと、北前船関連かな。敦賀のどこかで展示がないか興味をもってます。

福井には仕事の都合でなんども行ってて、敦賀市内を通ったことも多いのですが、私も気比神宮にちらっとお参りした以外はほとんどしりません。仲哀天皇・神功皇后・応神天皇が祭神というあたり、半島との関係が伺われますね。

Google mapの地形モードで見てみると、琵琶湖(→京都、奈良)への距離が最短の敦賀と、やや遠いけど平坦な道が多い小浜が、半島交易の中心だと言うのが納得できる感じです。ちなみに、若狭湾に面しているけど越の国は気比神宮辺りから北で、小浜は若狭なんで、越の国ではないんですね。

網野善彦氏の話(若狭の国の中世期の村落の移動なんかを読んだこともあります)も出ていましたが、小浜辺りだと土御門家が流れていって、小松和彦氏がその辺詳しく書いていたような。

投稿: tera2 | 2012年4月 5日 (木) 23時05分

若狭湾→敦賀湾
でした。失礼しました。

投稿: tera2 | 2012年4月 5日 (木) 23時35分

ddol さん>詳しく有難う御座いました。
古事記における都怒我阿羅斯等は検索すると、アメノヒボコが比定されているようです。参考までに。

渤海については、大体想像していた通りでしたね。民族と国家、そして現在の統治領域との関係で、利害が絡みますね。


tera2氏>戦国時代なら、金ヶ崎。>気比神宮から山が見えるのですが、あれは手筒山と思われますが、北の方向なのでちょっとどうなのかなと思って見てました。
マップで見ると気比神宮からは北にありますね。金ヶ崎への案内表示もありました。

小浜は若狭なんで、越の国ではないんですね。>なるほど。琵琶湖への距離が最短>確かにそうですね。そういう意味でも気比神宮は古代には重要な位置を占めていたんでしょうね。

それから、小樽への連絡船はもとより、北へのフェリーは一度も利用したことがありません。名古屋からも仙台~室蘭へのフェリーが出ていますが、無茶苦茶時間がかかり過ぎて、今までは最初からあきらめていました。
一度は利用してみたいです。

投稿: mino | 2012年4月 6日 (金) 02時26分

今週はバタバタしてて、minoさん、ddolさんやtera2氏のとても面白いコメント等をながめてるだけでした^^;

まずは、「お水取り」の話にくいついてくれたddolさんへのコメント

個人的な関心なんやけど、日本古代のネットワークの一つは、水銀・辰砂の産する「丹生」やと妄想してます。

「修二会」の起源が、大仏建立の時期と重なることと、遅参した遠敷明神(若狭彦神社)が、水送りを命ぜられたこと
などから、大仏建立に必要な水銀の確保が、時の権力の主要課題だったような感じが。

このあたりは、寮美千子さんの論文

http://www.narasaho-c.ac.jp/education/pdf/pdf_bulletin_04.pdf

ただし、筆者も仮説とことわってるように、実証という点では弱いね^^;
若狭・越前には、丹生関係の地名が多いです。

>渤海のこと

う~ん、古代(平安時代)の日本海側の交流は、もっぱら渤海と「朝鮮」と思ってました^^;

若狭湾の津々浦々は、古代から明治初期まで、交通の要所やね。

その中でも若狭小浜は、中世の「国際港」(網野さん)で、中国・大陸だけではなく「南蛮」も含む
海外の交易拠点であったこと。
国内産物もここで荷揚げされ、「鯖街道」を陸送し、琵琶湖水運→大津・堅田から京へ。

もうひとつは敦賀も国際・国内港で、愛発関、北国街道から琵琶湖水運にのせて京へのルート。
清盛のお父さん、平忠盛が越前守というのも、興味深いなあ。

三国湊もとても大きいです。九頭竜川の内陸水運との関係も深いし

投稿: tera | 2012年4月 7日 (土) 07時23分

795年渤海使(平安初)
796年遣渤海使(平安初)
804年遣唐使(平安初、空海、最澄)
811年遣渤海使最終(全13~16回、平安時代4回)
838年遣唐使最終(小野篁逃げて流罪)
894年遣唐使中止、途絶
907年唐滅亡
922年渤海使最終(奈良時代12回、平安時代22回)
926年渤海滅亡
927年渤海使?(東丹国より)
960年宋建国

渤海というと、平安期の準鎖国期に遣唐使廃止後の中国事情を日本に知らせた国、という認識があったのですが、奈良時代にも交流が結構活発で、唐滅亡後すぐに滅んでますね(^^;。
wikipediaの遣渤海使の項を見ると、少なくとも日本側は、当初高句麗の後継として渤海を遇したようです。
遣唐使や遣渤海使の出港地(の一つ)に、能登の福来港が当てられていたのも新たな発見でした。

ttp://www.shikagen.net/rekisi/bokkai/bokkai.htm

投稿: tera2 | 2012年4月 7日 (土) 22時40分

minoさんはもうご存知かも知れませんが、ネットで調べた報告をしておきます。

都怒我阿羅斯等は、任那人の蘇那曷叱知(そなかしち)が帰国するという記事の二つの別伝に登場し、通説ではアラシトと同一人物だと考えられています。アラシトに角がはえていることから、「角がある人」の意味だと見なされています。別名は曰于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)。
ただし、福井県文書館の「『福井県史』通史編 原始・古代 第三章 第二節 二 若越と日本海文化」(ttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-02-02-02-01.htm)では

「阿羅斯等」と「阿利叱智」は同義語で固有名詞ではなく新羅や加羅では貴人への敬称であり、意富加羅は大伽耶の一つである金海の加羅国だから、その地方から貴人が相次いで渡来したのを背景にして、あたかも特定の人名のごとく形象化されたものとみられるであろう。

と解釈しており、韓国でも于岐は「小国の王号だとされる」という指摘がありました。日本書紀には「シチ」で終わる人名がいくつかあり、継体天皇の箇所に阿利斯等(ありしと)という人名があるので敬称だと見た方がいいようです。

古事記との関係はminoさんの指摘通りです。二番目の別伝が、アラシトが白玉を得たところ、玉が女に変わっり、一緒に暮らしていたが、ある日突然消えてしまった。女を慕って探しまわり難波までやってきたと伝えています。
古事記はなぜか応神のくだりに記載されていて内容がそっくりです。記ではアラシトのかわりに新羅の王子である天之日矛(あめのひぼこ)が、白玉のかわりに赤玉となっています。

私が興味深いと思ったのはアラシトに角があるという点で、韓国には牛頭山(ウドゥサン)という山がいくつかあり、これと関係があるのかどうかということでした。牛頭というとスサノオのことのようで関係はなかったのですが、面白い情報を見つけました。
江原道春川(チュンチョン)にある牛頭山の頂上には墓があり、いくら壊しても知らない間にもとに戻るという伝承があります。ひとつの伝承に、その墓がスサノオの陵域だと見なされ、墓は日本の王子「蕭瑟」のものだとあるそうです。蕭瑟が誰か、伝承の背景なと全くわかりませんが、1940 年の「江原道誌」に記載されているそうです。

もうひとつは玉の記事で、高句麗と新羅の始祖が卵から生まれたという伝説があり、関係があるのかと思っていましたが、これはウィキに出ていて、卵生神話として有名だとのことでした。

蛇足ですが、ウィキの渤海の他国語版表記は多くが朝鮮語音(Balhae)で、中国と関係の深い地域の言語は中国語音(Bohai)でした。なぜかオランダ語は中国語音です。

日本古代のネットワークの一つは、水銀・辰砂の産する「丹生」やと妄想してます。>
teraさんが最初に丹生言及されていたのでちょっと検索してみました。和歌山に丹生都比売神社があり、気比神宮との関係も深いとのこと。でも丹生そのものの情報が少ないので、いずれまた触れて下さい。

投稿: ddol | 2012年4月 8日 (日) 19時15分

古代中世の交流は、一つは水銀、もう一つは鯖なんやないかな(古代のヒスイを除いて)
前者は、国権にかかわる資源やし、後者は生活必需品(塩ね)
中世以降は、芸能民や鋳物、木地、山師等が物流ネットワークに加わるのやけどね。

丹生関連地名を、中央構造線を軸に相関係数をとると、けっこうな値がでてきたような気が

平忠盛が越前守の話。どなたも食いついてくれませんか^^;
おいらは、大河ドラマをみてて、マーケット=伊勢平氏の棟梁は、越前守かと思ったんやけどね

投稿: tera | 2012年4月 9日 (月) 06時43分

面白い、興味のある話を皆さんありがとう。私の居ない間に、随分と話が進んでいますね。

tera氏>越前守って、というか国司の実質的意味は、平安時代だからまだあったんでしょうか?
もちろん、実質的意味の無くなった江戸時代でも朝廷の官職は、幕府が斡旋という形をとって大名以下に与えるのはセレモニー以上のものがあった訳ですが。

tera氏のいう越前守は、その官職に付加された意味合いにおいての、という意味なんでしょうか?
それとも実質的意味合い?

投稿: mino | 2012年4月 9日 (月) 10時23分

追加。

その越前守の意味の属性、役割、この官職を得ることによって得る何かについて、あったんでしょうか?

投稿: mino | 2012年4月 9日 (月) 10時29分

今昔物語の巻26第17話に「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位を将て行きたる語」というのがあります。芥川の芋粥の原典です。

平安期の受領がいかに権勢を誇るかが感じられる話なんですが、この藤原利仁の屋敷が敦賀にあって、と、するとこれも越前守かも。

平安時代の国司は、贈賄のための私財を蓄える元になるくらいの権勢はあったようで、戦国時代の大名ほどと言わないまでも、かなりの権力があったように思います。

特に越前は、延喜式で定める13の「大国」、の一つで、忠盛の大きな権力基盤になったと思われます。ちなみに、伊勢平氏の本拠地、伊勢も大国です。大国の国司は、ちょっと他より官位が上だったりします。貴族は地方国司を経ないと中央高級官僚になれないので、その点でも、春の除目は悩ましかったことでしょう。枕草子なんかにもその風景が出てきますね。

投稿: tera2 | 2012年4月 9日 (月) 21時16分

tera2氏>なるほど。当時でも越前は権力基盤として申し分なかったのですね。当然、権力があれば、財は集まるということですね。

春の除目は悩ましかったことでしょう>思い出しました。枕草子にそんな話がありました^^。

投稿: mino | 2012年4月 9日 (月) 23時14分

新学期が始まり、講義回数や提出書類はちゃんと守れとか、文部科学省の命令が年々強まるので、
どうでもいいことに忙殺されてます(あとは、マーケットもいきなりむずい局面で)^^;
政府からも経済的にも自立することで「大学の自治」を守ろうとする欧米に比して、この国の大学は・・・。

まあそれはおいといて、tera2さん、コメントありがとね。同感です。

「芋粥」は、その面白さを表現しにくいなのお話で、五位さんの心象風景が主題やろうけど、高島の狐が印象深い。
少し前のこのブログの話題、荼枳尼天やね^^

ネットで少し調べただけやけど、藤原利仁は越前の豪族に婿入りしたみたいです(越前守ではないかも)。
でもその子孫は、ムカデ退治や平将門関係の藤原秀郷につながり、はやりの『佐藤さんのルーツ』(森岡浩、ジェイ・アプリケーション)
の佐藤さんや安藤さん姓のルーツという話も^^

平安時代の国司でわからないのは、平将門の時や前九年の陸奥守藤原登任なんかは、ちゃんと赴任地にいってる
ようやけど、平忠盛のような複数の国司に叙任された人は、いかなくてもよかったのかなあ。

それと清盛関係では、先週テレビでやってたBS歴史館「平清盛 勝利のカギは経済戦略!」。
それに出演していた山田真哉氏。「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」(光文社新書)で一躍有名になった人やけど、
最近では『経営者・平清盛の失敗』(講談社)を書いてます。

その本のもとになったのが、

http://gendai.ismedia.jp/category/taira

で、面白いですよ。

山田氏の論理には甘いとことがあるんやけど、中世温暖期=干害とか近年の歴史研究の成果の目配りしてはります。

投稿: tera | 2012年4月15日 (日) 05時59分

>平安時代の国司で

領国に赴いた国司が受領、目代を派遣すると遥任、となります。
Wikipediaのそれぞれの項に詳しいです。

>藤原利仁

自身は、東国の国司を歴任とありますが、祖父高房も国司歴任とあり、また母方の祖父秦豊国、義父の藤原有仁も、豪族とありますが、国司の流れかどうかはわかりませんね。

多くの藤原傍流が国司になっていて、越前守には、藤原内麻呂、藤原定成、藤原隆信の名が見られますが欠落も多いような。
(wikipedia越前国)

投稿: tera2 | 2012年4月15日 (日) 13時53分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 気比(けひ)神宮を訪れる - 福井県敦賀市:

« 刈谷駅(名鉄&JR) - 愛知県刈谷市 | トップページ | 手力雄神社(てぢからおじんじゃ 二つの同名の神社) - 岐阜市と各務原市 »