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2012年3月 6日 (火)

京都 二条城を訪れる(2) - 二条城二の丸御殿(国宝)から本丸へ

 

  地下鉄「二条城前」駅で下車し、案内に従って二条城と矢印のある出口にでると、修理工事中の東南隅櫓が見える場所に出ました。

この日は二の丸御殿に入る唐門も工事中で見ることができませんでした。

現在に残る二条城は、徳川家康の命により造営され、家光の時代(1626年)に完成したもので、二の丸御殿が国宝に、その他22棟の建造物、二の丸御殿内の障壁画1016点が重要文化財に指定されています。

また、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録されています。

 

  二条城を訪れるのは今回で三回目でしたが、一回目は本丸へ入ることなしに帰ってしまい、二回目は年末のお休みでした。

したがって、今回は時間をかけて、みっちりと歩き回り、外回りもぐるっと一周しました。

その結果、体力、時間の制約で、この日の京都観光は二条城のみしか訪れることが出来なくなってしまいました。

 

  地下鉄出入り口を出ると目の前に東南隅櫓。

  今回は工事中だったので、2008年の写真を上げておきます。(撮影 2008/12/27)

Pc270013

 

  堀川通に面した東大手門。観光客の出入り口はここのみです。

  入場料は大人600円でした。

Dsc03813

Dsc03818

 

  東大手門の中、番所が門に連なってあります。

Dsc03823

 

  二条城の現在の縄張りの案内図。

  下が東で、下の入口が東大手門です。

Dsc03824

 

  築地塀を南側に回りこむと、唐門があります。

  しかし、あいにく工事中でしたので、入口に張ってあった写真を写してきました。

Dsc03825

 

  二の丸御殿の入口である車寄。

  内部は撮影禁止でしたので、二の丸御殿の写真は外からのもののみです。

  二の丸御殿は本当に必見です。

  ボタンを押すとそのあたりの案内をしてくれる器械があり、便利ですから、気がねすることなくボタンを押してじっくり耳を傾けましょう。

Dsc03826

Dsc03830

 

  二の丸庭園への入口横にある釣鐘。

  幕末の政乱の時代、二条城とその北にあった所司代との間の連絡に使用された釣鐘だそうです。

Dsc03831

 

  向こうに二の丸庭園があります。

Dsc03833

 

  二の丸御殿と二の丸庭園。

Dsc03836

 

  先に進んで、振り返ったところ。

  西へ抜け本丸の方に向かいます。

Dsc03838

 

  本丸櫓門と東橋。本丸は内堀に囲まれています。

Dsc03844

 

  東橋から南の方(左)に見える桃山門。

  桃山門から右に折れて、さらに南中仕切門をくぐると梅林があります。

Dsc03839

 

  こちらは東橋から北の方の内堀。

Dsc03842

 

  本丸櫓門を中に入ります。

Dsc03841

  撮影 2012/03/03

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コメント

記事が違いますが
tera2さん。懇切な説明ありがとうございます。具体的な名称をいくつも挙げてもらったて助かります。
teraさん。幸田露伴ありがとうございます。こういう文章を読むと、昔は狐や稲荷の伝承は身近だったことが感じられます。

なるべくバスは敬遠するようにしています>
私も史跡を巡るときはそうですね。電車がなくてもバスはめったに使わないので時間がかかってしまいます。

案内図や門を見ると二条城は本当に城らしくできていますね。都の中に城があるのは珍しいのではないでしょうか。京都は物騒な都だったのでこういうことになったのでしょう。
中国都市史の専門家によると、中国では「城」の第一義は壁で、そこから都城・都を意味するようになり、決して日本の城を指すことはないそうです。この意味では都の中に城があっても不思議ではないのでしょう。
中国や西欧に比べると日本の城は独特なように感じます。

投稿: ddol | 2012年3月 6日 (火) 20時56分

中国や西欧に比べると日本の城は独特なように感じます。>その通りですね。日本の城は異民族からの攻撃を念頭には置いていませんが、中国、西欧はまるまる住民ごと守らねばならないので、都市全体を城としなければなりませんでした。【中国では「城」の第一義は壁で】ddolさんのこの言葉は、中国のお城の概念をよく表わしていますね。

日本の領主にとって一義的に守るのは自分の家臣と領地で、住民には抵抗しなければ害は加えませんよね。

中国や西欧の戦争は、過酷といえば過酷。
たしか、モンゴル軍は従わなかった都市を住民ごと抹殺しています。


案内図や門を見ると二条城は本当に城らしくできていますね>これは反対に、城らしくないお城というか。
どちらかと言えば武装した御殿ともいうべきお城です。
都の中にあるというのは、仰る通りで、ある意味政治的なお城とも言えます。
そういった意味でもお城らしくないお城です。

でも、ddolさんは多分そう云う意味ではなく、チャンとお城の造りになっている、ということを仰りたかったんだとは思いますが^^。

投稿: mino | 2012年3月 7日 (水) 06時50分

モンゴル軍は従わなかった都市を住民ごと抹殺しています>
これはモンゴルだけではなく騎馬民族の一般的特徴ですね。フン族やブルガール族も定住するまではそうでした。移動するために、捕虜は足手まといだったためのようです。
minoさんのおっしゃる通り、日本の城の特色は異民族の攻撃がほとんどなかったことに起因するのでしょうね。
ご存知のように、西欧ではバイキングの攻撃に対抗するために築城が相次ぎました。ブルジョワの「ブル」はゲルマン語の「城」を意味する'burg'(ブルフ)が起原で、現在シェルブールという地名に残っています。イギリスとドイツには'burg(berg)'で終わる地名が多いです。

投稿: ddol | 2012年3月 9日 (金) 21時43分

昔、ddolさんが、中世の英語にはドイツ語と同じように格変化があることを教えて貰ったことを思い出しました。
'burg'(ブルフ)>ゲルマン語で「城」の意味だったんですね。Stadtの都市というのもそうなんですか?
'burg'(ブルフ)は現在の発音ではブルクですよね。アウグスブルクとか。
ddolさんは独仏語、自由自在でしたから^^・
バイキングの時代は海沿いのみならず河沿いの町も、大変だったらしいですね。10世紀頃?

投稿: mino | 2012年3月 9日 (金) 22時11分

>都の中に城があるのは珍しいのではないでしょうか。
>都の中にあるというのは、仰る通りで、ある意味政治的なお城とも言えます

大まかに言って天皇の在所である「都」に城を築くということは、minoさんの指摘のように徳川政権による政治的行為やったと思います。
日本バロックの二条城に対して、八条宮智仁親王による桂離宮の造営は、天皇家と武家の政治的暗闘があったとのことやね。

ただ、非戦闘住民と城との関係は、よくわからないことが多いんや。

日本でも戦国時代までは、戦争に伴う略奪は通常のことで、「乱取り」といって人を獲ってました。
日本中世の農業の基本は、隷属農民を使役する「名主経営」なので、常に労働力に補給を必要としてたわけやね。
また、冬から春先は食糧が乏しくなるので、直系家族でも次男以降や傍系家族を戦闘員に供出したらしい。
こういう構造が、戦場(敵地)での人狩りを生み、必要な人数を隷属農民として連れて帰り、その他は、「人市」をたてて売買したわけや。

秀吉の「文禄・慶長の役」でも、朝鮮人陶工をいっぱい連れて帰り、それ以上の一般民をポルトガル商人などに売っていたというのは有名やね。

有名(悪名^^;)どころでは、「愛」で有名な上杉軍や武田・島津等。謙信の関東遠征は、ほぼ略奪のためだったんやないかという話も^^;

それで、江戸時代に入って、やっぱり人は大切にせんとなあという話になったんやと思います(NHKのさかのぼり日本史)。小農経営の確立やね。

このあたりの話は、90年代の歴史学でいっぱいでたんや。代表は、藤木久志の「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)。とても面白いので機会があれば読んでみて。

それで、モンゴル

モンゴル軍は、たしかに抵抗する都市の住民を見せしめ等から虐殺したけど、ちゃっかり技術者等は捕獲してるね。
本拠地か遠い(輸送コストが高い)ので、生産性の高い人だけとらえたんやないかなあ。
そういう意味でも、日本では狭いので売買しやすかったかもね(一部に信長等の虐殺はあっても)

それで、お城

戦国期の多くの兵隊は、半農半兵(一領具足)やから、自分の家族の保護を考えなかったわけはない。
略奪と人狩りにされされるわけやからね。

ある場合は、領主の山城に家族を避難させたんやろね。あるいは、近辺の寺社や山の中に避難地があったんやと思うわ。

話は変わるけど、大坂冬の陣。大坂城の総構えは、「壁」ではなく「堀」やね。
太閤さんのお城は、非戦闘員の在所もとりこんでたんや。
「堀」は政治境界を分けるだけではなく、軍事的にも機能したわけや。

こうなると、中国やヨーロッパのお城とどうちがうんやろ?

投稿: tera | 2012年3月11日 (日) 07時34分

こうなると、中国やヨーロッパのお城とどうちがうんやろ?>う~ん。それでも、違うという気がします。
半農半兵(一領具足)>これは、其の通りだと思いますが、戦国時代に篭城する場合には、住民(ほぼ農民)は絶対と言っていいほど取り込みません。
ただ、例外はあったかもしれません。確かめた訳ではないのですが、後北条氏が小田原城に篭城したときには、篭城兵は3万とか言われていますが(違ってたかもしれませんがとにかく多い)これは、農民兵まで(家族も)を取り込んだ結果かもしれません。

本来であれば、最後の篭城決戦(もう味方がいない)の場合は当該武士団のみが(家族、女子供を含む)篭城して滅ぶ、もしくは降参する、となると思います。

太閤さんのお城は、非戦闘員の在所もとりこんでたんや。>これは、農民は含んでません。周辺の住人を取り込むつもりは全く無いと、そう云う風に思われます。
それに、近世城郭については、非戦闘員(武士以外)の居住場所は武士団の住むそれと比べると、非常に狭いです。
近世城郭の場合、やはり、城は武士団のためのもの。非戦闘員は商人、職人が主たる住人で、多数を占める農民はほぼ、居ないです。

どうも、この辺りは、tera2氏の知見を伺いたいですね。
西洋はddol氏^^。

投稿: mino | 2012年3月12日 (月) 00時07分

人を獲ってました>
世界各地に昔から奴隷市場はありましたね。ギリシア、ローマは有名ですし、7~8世紀までイングランドの主要「輸出品」は奴隷で、何度も奴隷「輸出」禁止策が計られました。バイキングも西欧で人を捉えてビザンツに売るなんてことをしてました(輸送費用を考えるとビザンツでは人が「高価」だったのでしょう)。以前にも触れましたが、朝鮮では推奴(チュノ)という逃亡奴婢を捉える専門職が確立していました。朝鮮では労働力の問題に加えて、身分制維持という目的もあったそうです。

中国やヨーロッパのお城とどうちがうんやろ>
西欧の場合、城が拡大して都市化していくことが多かったのが日本との大きな違いではないでしょうか。もう手元にないので確認できませんが、昔minoさんに教えてもらったピレンヌの『中世都市』がこのあたりを説明していたと思います。現在のイギリスやドイツの地名に「城」を語尾に持つものが多いのもこのためです。
ローマは異民族の侵入を防ぐ目的で各地に城を建設し、後に異民族との交易基地となります。ローマ人のための城なので、襲撃を受けた時はローマ人だけを収容したと思われます。ローマが衰退して城が放棄されると、多くは商業都市として発展します。'casterや'chester''で終わる地名は大抵これに該当します。
8世紀からバイキングが西欧を襲来するようになると、各地に城塞(burg)が建設されました。バイキングの襲撃なので長期間篭城する必要はなく、領民も含めて一時的にこの城塞に逃げ込めるようにしました。こうした城塞は領主の保護を受けられるということで、商人や手工業者を引きつけ、それにともなって城壁を拡大させて後に都市へと発展します。
以上はminoさんの言う「異民族からの攻撃」を念頭に置いた城ですが、その後は城を中心に荘園が囲むという形をとり、戦時には直領地の領民は城に収容したようです。それでも農民全員を引き受けられるはずはなく、teraさんの言う通り「近辺の寺社や山の中に避難地があった」ということでしょう。このあたりのことは何か決まりがあったのではなく、場合場合で対応していたのだと思います。
東欧の場合はわかりませんね。東からの民族移動をまともに受けていたので城は重要な役割をはたしたとは思いますが。

投稿: ddol | 2012年3月14日 (水) 20時41分

読み直して見ると、論旨が不明確やね。申し訳ないです。明け方にかなりお酒がはいった状態でコメントしてるのでお許しを^^;

おいらのコメントの前半の趣旨は、「異民族」との関係で日本の城の形態が決まったというのはどうなの、ということなんや。
日本中世を「海」でみれば、必ずしも「民族」だけではとらえにくい(倭寇の活動等)。
「陸」でも、「乱取り」「濫防(ぼうは、おんなへん)」の史実を考えると、同じ民族やから非戦闘員は安全、というのはなかったと思います。
上杉軍の関東侵攻などは、「馬肥える秋」の匈奴の中原侵略とイメージが重なるわ。

(ちょっと脇道。非戦闘員という記述も変やね。中世の基本は「自力救済」で、農民も充分戦闘力を保持していたわけやから)

戦国の山城、さらに全国に驚くほどある「村の城」は、どれも一時的な避難の場所として造られていた。
相手方の包囲は制約が多すぎて長期滞在は難しい、また重層的なネットワークをベースとした味方の援軍も期待できたんやろね。
このあたりの事情は、ddolさんが指摘してくれたように、西欧の城も同じやないかな。

それで後半
ここで言いたかったことは、西洋中世や中国の城は、城壁で囲んだ城=都市のイメージがあるけど、日本近世の城郭はどうなんやというです。
大坂や江戸等の「総構え」なんかは、城壁の代わりに堀をめぐらすことで、長期の籠城戦を意識してたんやないのかな。

秀吉は、石山本願寺や北条小田原の経験から、ある程度は都市の防衛戦を構想した城造りを考えたというのはどう?
よくわからんのは京都の「御土居」やけど、これはけっこう農地を含んでる。
(西洋の城で、けっこう農地を含んでいたのは、コンスタンティノープルやったと思うんや。でも記憶がいいかげんですが^^;)

投稿: tera | 2012年3月17日 (土) 06時26分

ある程度は都市の防衛戦を構想した城造りを考えたというのはどう?>それについては、完全にそう思います。
堀もそうですが、寺院などもそうではないでしょうか。

大坂冬の陣や夏の陣での大坂城攻防戦で、都市としての大坂をどのように攻め、守ったのかというのは、余り知られていないですね。
また、各地の近世城郭も大小の違いはあれ、大坂、江戸の「都市の防衛戦を構想した城造り」に成っているのではと思いますが、どうでしょう。

投稿: mino | 2012年3月17日 (土) 13時23分

非戦闘員>定義を曖昧にして使用してしまいました。確かに、戦国時代以前には兵農未分離状態ですね。坊主や神主すら戦闘に参加していますから。

投稿: mino | 2012年3月17日 (土) 13時32分

中国や西欧の城塞都市と、日本の城の違いは確かに感じるのですが、日本がどの程度独特なのかどうかというと…どうなんでしょう。

tera氏の言及もあったように、城壁の代わりに堀で住民を守る、というのは、割としっくりくる気がします。

というのは、もともと降水量の多くない、中国黄河流域や地中海地域に比べ、日本と同じく水の多い地域、東南アジアで、城塞都市と言うのが思い浮かばないのです。
例えば、アユタヤや、アンコール、チェンマイ、バンコク、ジャワなども、異民族との戦争が頻発した地域ですが、(行ってみた感じでは)街を堀で囲んでいる所はあるものの、城壁はもたないのではないかと思います。

降水量がある程度確保できるなら、城壁で囲むより、堀で遮る方が、低コストだったので、そちらに向かったのではないかと。
あとまぁ、宗教上などで徹底的に住民を徹底して処刑するような地域でないこともあって、コストバランスが成立するのかもしれません。

また、弥生時代辺りから、集落の周りの堀は確認されていまし、堺や、尼崎、平野、今井町などの中世都市が環濠都市だったのは有名なところです。
吉原なんかが堀で囲まれていたりするのも、日本っぽい(^^;

また、日本の城というとどうしても戦国末期~近世初期の城を思い浮かべますが、tera氏が言われるように、全国に2万以上あったといわれる中世城館が、在郷民の避難場所になっているわけですよね。
戦国期でも、城館と、篭城用の詰めの城は別に構えることが多かったわけですが、イメージ的には後者しか思い浮かばないとか。

近世城を考えても、惣構えとなると、商工業者や寺社は取り込みますね。地元高松城もそんな感じです。
けど、農民、漁民、塩田なんかは外堀のさらに外側で、これは生産手段に大きな面積が必要なので、労力的にとりこめなかった、というのはどうでしょう。

コンスタンチノープルの様に、リソースが潤沢にあって、半島の付け根に城壁を築いてブロックできるような所は例外として、ヨーロッパの城塞都市でも、農民を取り込んではいないように思いますが、これは「都市の空気は自由にする」ので、自由になられては困るというのもあるかもしれません。

あと、ヨーロッパの城でも、戦闘城郭が街と別に発達する場合もありますよね。
南ウェールズの古城を回ったことがあるんですが、エドワード1世関連の城は日本の城と感じが近い、街とはまた別の城が見られます。後で街が発達して、さらに城壁で囲んでしまうカーディフ城とカーディフとか。城壁都市のロンドンの中に、別にロンドン塔(城です)があったり。
世界遺産だと、スピシュ城とか、クラック・デ・シュバリエ城とか、クロンボー城とか、ラインの古城群とかそうなんじゃないかなぁと。

投稿: tera2 | 2012年3月17日 (土) 23時32分

tera2氏>なるほど。段々とすっきりしてきました。
こうして見ると、城の意味に関しても、必ずしも定型がある訳でもないですね。
年代、地域、風土等の違いは大きな要素なんですね。
随分勉強になりました^^。

投稿: mino | 2012年3月18日 (日) 00時39分

まず、minoさん

>堀もそうですが、寺院などもそうではないでしょうか。

なるほどなあ。寺院も土塀や堀で囲まれているので、重要な戦略拠点だったんやろね。信長の頃の(移転前の)本能寺も、とても立派やったという話やもんね。
大阪はお城の南側に川がなくて、それで空堀商店街(万城目さんの「プリンセス・トヨトミ」ね^^)やら真田丸やらを造ったんやろうけど、
南の方(天王寺界隈)に寺社が多いのは、その関係なんやろか?

非戦闘員>定義を曖昧にして使用してしまいました。

いえいえ、非戦闘員という言葉を安易に使ったのは、おいらやで^^;。読み直して、ちょっとまずいなと。

つぎに、tera2さん

東南アジアは迂闊やったわ。勉強になりました。中華帝国の最前線、ベトナムはどうなんやろ?

南ウェールズにも行ってるんや。うらやましいです。
エドワード王といえば、十字軍の人やね。十字軍の経験が、ウェールズ戦や城造りに影及したんやろうか?

それと、
>これは「都市の空気は自由にする」ので、自由になられては困るというのもあるかもしれません。

これはどういう意味。もう少し解説して。

順序は逆ですが、ddolさん

もうほとんど忘れてしまったドイツ語やけど、ずっと昔に都市の成立史を調べていた頃、「城」はburgとschlossがよくでてきた記憶があります。
当時もよくわからなかったんやけど、どう違うのですか?

投稿: tera | 2012年3月18日 (日) 05時54分

>ベトナムはどうなんやろ?
ベトナムは…、わかんないですね~。
学生の時はまだ戦後のイメージがあって、なんとなく行きづらく、社会人になってからは機会もなく、で、感覚が伴いません。
フエやホイアンは行ってみたいし、ハロン湾の足漕ぎ舟なんかも興味あるんですが。

一応、ウィキペディアの範囲でざっと見てみると、2010年、タンロン遺跡、2011年、胡朝の城砦、が世界遺産登録されていて、前者は王朝の宮城、後者は900m×700mの規模があるようですが、城塞都市か、要塞かがわかりません。規模からいうと都市の可能性が高いかも。

光栄三国志系辺りだと、交州、交趾となってなんか支配地のような感じので、城砦建てちゃったり燃やしちゃったりするんだけど、実際どの辺まで漢化したのか。
福建土楼(台湾の西側)とか結構近いので、城砦で住民収容しても不思議でない気はします。

エドワード王は、ウェールズとかスコットランドとか(→ブレイブハート)の征服者でもあるんだけど、十字軍の後みたいですね。息子をプリンス・オブ・ウェールズにした人。

都市の空気は自由にする、はドイツの言葉ですが、イタリアやフランドル辺りでも通用する概念で、領主の農奴が都市に逃げ込んで、1年+1日間領主の返還要求がないと、都市民になれるという慣習法です。前提として、自治都市であること。

異民族奴隷をギリシャ・ローマから引っ張っているヨーロッパは、農奴支配の程度が東洋と違うようで、農奴は財産でしかないようです。中国辺りだと反乱したり賊になったりするし、日本辺りだと逃散しちゃうんで、だいぶ感じが違います。
日本の中世なんかだと、人市は口入屋的な側面ももつので、奉公契約に近い短期身売りなんかもあったようですが、ヨーロッパ系だと、最悪ガレー船奴隷だったりするのが悲惨…。

投稿: | 2012年3月18日 (日) 20時55分

一日間を置いただけで随分議論が進んでますね。
皆さんの議論のおかげで昔の記憶が少しずつ戻って来ています。
それにしてもtera2さんは世界各地を回っているんですね。

城壁の代わりに堀で住民を守る>
これはまったく同感で、tera2さん言葉通り自然環境の影響でしょう。西欧も初期は堀を掘っていたようですが、小氷河期の到来で水が氷ってしまうなどの理由から壁を作らざるをえなくなったのだと思います。

西洋中世や中国の城は、城壁で囲んだ城=都市のイメージがあるけど、日本近世の城郭はどうなんやというです。>
エドワードの城に限らず11世紀以降の城はご指摘の通り、都市化しない方が多いと思います。
時代をごっちゃにしてしまったのがいけなかったのですが、それ以前の城塞は都市化したものが多く、日本では城塞が商人や職人を吸収し、拡大して都市にまでならなかったのではないかということでした。

ちなみにtera2さんの言うように、エドワードのケルト地域征服は十字軍から戻ってからです。

直接関係ありませんが、BurgとSchlossの違いは、前者は城塞一般、後者は主に近中世中期以降の城を指し、防御用というより住居として用いられたものを言うようです。

ロンドン塔>
tera2さん。迂闊でした。自分の専門だったのに情けないです。
ウィリアムがコンクェスト後、頑強に抵抗したロンドン市に対する脅しの意味も込めて建設したという点で二条城と同じですね。

大阪はお城の南側に川がなくて>
城の南の川というと大和川ということになりますね。私は天王寺に寺が多いのは四天王寺の関係だと思っていたのですが、地形の問題なのですね。あの辺はちょっとした高台みたいになっていて、西に行くと坂になるのも関係があるのでしょうね。

投稿: ddol | 2012年3月18日 (日) 21時48分

大阪はお城の南側に川がなくて> 話が小さく戻ってしまいますが、やはり、大阪城の弱点は南側だったようですね。家康も大坂の陣では南側から攻めています。

ttp://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/digital-collection/kochizu/index.html

大坂の古地図です。直リンが禁止されているので。

投稿: | 2012年3月18日 (日) 23時15分

話は結構、煮詰まった感じなのでどうかと思ったんやけど、大阪の話なのでもう一言です^^

>ddolさん

秀吉の大坂城は、上町台地の北側から南にかけて縄張りしたんやな。
その北側は、旧淀川(大川:天神祭の川ね)・旧大和川。東は平野川。
西の防御が弱いので、大川から水を引いて東横堀川を開削したんやけど、南は無理で、空堀。

よくある大坂合戦図には、西横堀川や横堀川、道頓堀川(微妙)なんかも描かれてることが多いけど、眉唾や。

現在の堺市は、大和川で大阪市と分けられているけど、その当時は、摂州、泉州、河州入り乱れ、
三国丘からは三州が見れたわけやね。

天王寺・阿倍野界隈(昔と雰囲気がかなり変わってるので、びっくりするかも)から、西へあるくと、かなりの高低差(まあ崖やね)です。

東京もそうやと思うけどけど、大阪の多くの川は高速道路とかで埋められたり、暗渠になってしまっていて、
かなり注意しないと、かつて川(運河)であったことが分からなくなってしまってます^^;

>日本では城塞が商人や職人を吸収し、拡大して都市にまでならなかったのではないかということでした。

それでようわからんのやけど、大坂はまず真宗が城塞化し、秀吉が都市化したというのはどうなんやろ?

>tera2さん

>農奴支配の程度が東洋と違うようで、農奴は財産でしかないようです。

う~ん、この辺りは甘いんとちがうか。逃散するのは、隷属民というより百姓やで。
でも、これはまたの機会としましょうか(十字軍と西洋のお城の進化の話もね)。

投稿: tera | 2012年3月20日 (火) 06時47分

terra2さん。大教大の地図ありがとうございます。古地図を見るとはっきりわかりますね。

天王寺・阿倍野界隈>
15年程前ですね。アポロビル横から西に下る長い商店街が道路と商業ビルで分断されて、かつての面影はありませんでした。面白い古本屋が3軒あってよく通いました。商店街を下って南がたしか飛田で、「てなもんやコネクション」という映画の舞台でした。懐かしいです。

投稿: ddol | 2012年3月20日 (火) 21時16分

>ddolさん

大阪教育大の地図、紹介は私ではないんです。
教えてもらって行ってみて、さすが教育大、いろいろ持ってるなぁと感激しました。

さらに、
「このコレクションは個人での教育・研究のために公開するものです。」
というので感動したのですが…、

ちょっと、ちっちゃくない?これ…>教育大

せめて字が読めるサイズが欲しいなぁ…と、思ったり(^^;

ロンドン塔ですが、25年位前に行って、ひたすら武具の並ぶ陳列に圧倒された覚え狩ります。1フロア剣だけ、次のフロア長柄武器だけ…とか…。5£位だったように思います。

ところが5年ほど前に行ったら、中は小奇麗な展示になっていて、あの妙な迫力はなくなってました。で、価格がなんと20£に…。泣きました。でも、見ごたえはあるのが悔しいw

投稿: tera2 | 2012年3月20日 (火) 23時29分

ddolさん、tera2さん>御免なさい。ハンドル名を入れるのを忘れました。古地図は私です。

投稿: mino | 2012年3月21日 (水) 06時55分

>ddolさん
阿倍野銀座商店街も、もうなくなってしまったわ。

おいらの大阪イメージは、ミナミが80年代バブルで一変した後でも、
天王寺・阿倍野界隈から南の方は、なつかしい感じを残してました。

でもいまは、天王寺駅周辺や新世界は、びっくりするほど変わってます。

それで、大阪ぽいなと思うのは、

1.阿倍野のさらに南。聖天さんから天神の森・北畠方面(紀州街道沿い)

2.あいりんセンターから三角公園、飛田のあたり(飛田はちょっと有名になりつつあるので危ないかも)

3.deep southの生野界隈。これもバブルの頃に、道なんかはきれいになったし、最近の韓流ブームで、
人気スポットになってるんやけど、奥にはいれば充分雰囲気を残してます。

「てなもんやコネクション」。tera2さんと、一緒に見ました(tera2さんは、覚えてるかな^^)。
山本政志監督は、林海象の「私立立探偵 濱マイク」シリーズのテレビドラマの方で役者で登場していて、
びっくりした記憶が。

林海象もそうやけど、山本政志や石井聰亙、あるいは原一男などの、エネルギッシュな(でもとても綺麗な)映画がありました

投稿: tera | 2012年3月22日 (木) 06時32分

てなもんやコネクション、香港と天王寺近辺が印象に残ってますが、細かいところはすっかり飛んでます…旅行に来て…帰って、地上げされて、買い物するんだっけ(^^;
もう一回見ないと。

香港、九竜城砦が取り壊されるちょっと前に行って、周辺をかすめたことがあります。怖くて中まで入っていけませんでした。今から思うと残念な限りです。…ヘタレ。
怪しさ満点のタイガーバームガーデンも、今は閉園とか…。ビルのてっぺんぎりぎりを飛んでいた飛行機ももうないらしい。空港から街へ行くときに闇タクシーに乗って脅されたというネガティブな記憶もあります。後席から大声で怒鳴り続けて、空港まで戻れましたが。

よく考えたらアレも城だったわけで、現在は公園みたいになってるらしいので、一度行ってみたいものです。

天王寺近辺も、市立博物館周り以外は全然いってないなぁ。
阿倍野銀座の喫茶店の2階で、数人でず~っとウォーゲームやってました。当時だからボード広げてw
今から考えると、とんでもなく迷惑な客だったなぁ…。

投稿: | 2012年3月22日 (木) 21時02分

teraさん。情報ありがとうございます。
(2)と(3)はよく知っていますが、(1)はあまり行ったことがなく、ほとんど記憶がないです。南田辺からの方が近いでしょうね。

minoさん。
てなもんやコネクションは私も同じで、香港と天王寺しか覚えてないです。香港のうさん臭さと飛田近辺のインチキ臭さがうまく描かれていたように記憶しています。

投稿: ddol | 2012年3月24日 (土) 21時05分

ddolさん>てなもんやコネクションの話はtera2さんですよ^^。
皆さん、名前はちゃんと書き込みましょう(私も含めて)^^;

投稿: mino | 2012年3月24日 (土) 22時55分

あ、名前が飛んでました。失礼いたしました。ブラウザが覚えてくれてるとばかり思ってましたが、ときどき忘れてしまうようです(^^;

以後気をつけます。

投稿: tera2 | 2012年3月25日 (日) 18時41分

tera2氏>いえいえ、お互い様です^^。

投稿: mino | 2012年3月25日 (日) 18時59分

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