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2012年4月13日 (金)

大洲市内を散策・観光(2) - 桜旅行(4) 愛媛県大洲市

 

  今回、大洲市内を散策して、行くことができなかった場所が3ヶ所あります。

ひとつは臥龍山荘、もう一つは不注意で通り過ぎてしまったポコペン横丁、そして道を間違えて行けなかったのが中江藤樹の遺徳を偲ぶために1939年に建設された至徳堂です。

至徳堂に関しては、それらしき道が大洲高校の中に入っていくので、これは違うのではないかと思い、それで行き着くことができず、あきらめて大洲城へと向かってしまいました。

しかし、帰ってから調べてみるとやはり高校内に有ったというのは間違いでは無かったみたいで、惜しいことをしました。

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  大洲の旧市街の規模が分かる図だと思い上げました。

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  「おはなはん通り」を南に行くと大洲神社があります。

  大正3年に現在の大洲神社と改称。

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  1331年宇都宮豊房が大洲城築城の際に総鎮守として下野国二荒山神社より勧請したのが始まりとされています。

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  望遠で大洲城が望めます。

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  新しく造営された拝殿。

  モダンながら新しい伝統の始まりの雰囲気のある社殿です。

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  階段を下りて、その道をそのまま西に行くと大洲まちの駅「あさもや」があります。

  ここで、しばし休憩。アツアツのコロッケとかを食しました。

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  もうひとつ西に行くと左手に大洲市役所があります。

Dsc04939

 

  さらに西に歩いて行くと大洲小学校。

  南に道を取り、さらに西へ行くと大洲高校です。

  前のグランドにせり出すように三の丸南隅櫓があり、隣接して藩主家の旧加藤家住宅主屋のあるお殿様公園があります。

  左手が大洲高校。

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  大洲高校の前からは天守が望めます。

  望遠なのでもう少し小さく見えるのですが。

Dsc04949

 

  三の丸南隅櫓。

  現存遺構で、大洲城では一番古い遺構だそうです。

Dsc04950

 

  お殿様公園からの三の丸南隅櫓。

Dsc04958

 

  藩主家の旧加藤家住宅主屋。

  大洲の加藤家は以前紹介した美濃黒野城の黒野藩藩主家でした。

  黒野城主加藤貞泰は関が原の戦いでは西軍からうまく東軍に参加して、関が原の本戦、その後、近江水口岡山城攻めで功をあげて黒野4万石から米子6万石へ。

  後に大坂の陣の功で伊予大洲藩6万石の初代藩主となり、明治まで加藤家が大洲を治めました。

  加藤嘉明系、加藤清正系統とは別系統の光泰系加藤家です。

  光泰は貞泰の父で豊臣政権下で甲斐24万石の大大名となっています。

Dsc04961

 

  いよいよ大洲城へ向かいます。

Dsc04967

  撮影 2012/04/07

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コメント

大洲といえば、坂本竜馬の「いろは丸」。

でも中世は、宇都宮氏の支配なんやね。知らんかったわ^^;
宇都宮氏は、豊前の城井宇都宮氏と黒田の抗争については、いろんな小説で読んで、関東から流れてきたんやなと。

加藤光泰も、マイナーな人という印象しかないけど、よく生き残ったなあ。面白いです。

お城は、大洲もそうやけど、宇和島や今治等も含め、このあたりは藤堂高虎の記憶が

投稿: tera | 2012年4月15日 (日) 06時46分

坂本竜馬の「いろは丸」>これについては大洲市も盛んに観光資源としてアピールしています。

光泰系加藤氏は、確かにマイナーな印象です。
どのように出世していったのかも、余り知らないですからね。

藤堂高虎の記憶>仰る通りです。NHKでも城作りの名人として取り上げていました。

今治や津など、平城で幅の大きな堀というお城の造りはスタンダードとなりましたね。

投稿: mino | 2012年4月15日 (日) 20時22分

藤堂高虎は、城造りの名人で、時流にのるほどの才覚があったという点でも、豊臣恩寵の武人の中では面白い人と思うんや。だけど、幕末まで生き残った家にしては、その子孫のこと等まったく知らんわ。お家騒動も聞かんし、なんかの祟りでもありそうな印象の薄い家やね^^;


投稿: tera | 2012年4月16日 (月) 06時16分

お家騒動>表面化したのには「享保騒動」がありますよ。本家と名張藤堂家はかなり仲が悪かったそうです。

やはり、跡目についての争いが原因だったそうですが。

以前、名張を歩くつもりで調べていて、その事実を知りました。
Wikiにもそんな記述があります。

投稿: mino | 2012年4月16日 (月) 11時38分

江戸期の藤堂家が印象薄いのは確かですね。
やはり高虎の個性が際立っています。

なんと言っても外様大名ですから、高虎が居なくなれば他の外様と同じということですね^^。

投稿: mino | 2012年4月16日 (月) 11時45分

享保騒動というのがあるんやね。名張は藤堂家ということも知りませんでした^^;
関西に住んでいると、伊賀・伊勢方面でなじみ深いのは伊賀上野城で、ここはけっこう行ってます。
その次はなぜか、津ではなくて松坂。道路の関係かな。


投稿: tera | 2012年4月17日 (火) 05時50分

 藤堂家、というか、藤堂高虎は、娘の輿入れ先である会津藩蒲生家、高松藩生駒家、加藤清正死後の熊本藩の執政を務めましたが、高虎の死後は全て改易されています。
 wikipeiaとかみると、高虎の偉大さを示しているような書き方ですが、この三家とも、家臣団に深刻な紛争が発生しているのが気になります。生駒騒動なんかは高虎と藤堂家の家臣が大きく関わっていて、どっちかというと婚家の内政に口を出す藤堂家のえぐさを表しているような気もします。
 ちなみに、生駒騒動を起こした生駒高俊は、高虎の孫に当たりますが、バカ殿の典型のような人です。

投稿: tera2 | 2012年4月19日 (木) 20時21分

tera2氏>それは知りませんでした。「幕府にとっては」偉大な家臣、とも取れますね。
この家は常に世継ぎに恵まれず、跡継ぎをプールしておく久居藩から随分と補給を受けてるようです。

tera氏>御免なさい。返事遅れました。
私も伊賀上野と松阪へは早くから訪れてますが、津城へ昔行ったきりで、ず~っとほったらかしでした。
なんと言っても松阪は本居宣長や松阪商人など見所が多いですし、上野は松尾芭蕉や忍者とかありますからね。

投稿: mino | 2012年4月20日 (金) 00時12分

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