« 武豊線のキハ25形 - 大府駅と緒川(おがわ)駅 | トップページ | 今日(2012年5月14日)の岐阜駅 - 大垣への往き帰り »

2012年5月12日 (土)

緒川(おがわ)城跡(愛知県東浦町)を訪ねる(1) - 緒川を散策(1)

 

  緒川城は徳川家康の実母である於大の方(伝通院)の実家である水野氏の居城であり、於大の方もこの緒川城で生まれています。

のちに水野氏は境川を挟んで対岸の刈谷に城を築き、三河へ勢力を伸ばしていきます。

緒川城は現在の東浦町にあり、知多半島の尾張に属しますが、刈谷は三河に属します。

 

  高架の緒川駅を西口に出てから、高架に沿って北に歩いてすぐに西に向かいます。

国道366号線の信号を渡り、ひたすら住宅地を西に歩いて行くと、やがて木々の茂った階段にたどり着きます。

これが顕本法華宗の越境寺(おっきょうじ)というお寺です。

鐘楼門が印象的なお寺でした。

その南にあるのが善導寺。

こちらは浄土宗のお寺で、やはり鐘楼門がありました。

その後、お寺の西側の道を南に歩いて行き、緒川城跡に向かいました。

 

  大府駅にて。

  2番線に到着の武豊発普通、キハ25形。

Dsc05514

 

  折り返して武豊行き普通となります。

Dsc05521

 

  大府から二つ目の駅の緒川駅に到着。

  高架駅です。

Dsc05525

 

  東口にはバス停とタクシー乗り場があります。

  東に行くと境川が流れていて、その向こうは三河の刈谷市です。

Dsc05534

 

  緒川城跡や古い町は駅の西側にあり、西口へ。

Dsc05537

 

  国道を渡ってから西へ真っ直ぐに。

Dsc05538

 

  東を振り返って、工事現場の簡易トイレが見えます。

Dsc05539

 

  そして、突き当たりに階段が。

Dsc05540

 

  階段の先には鐘楼門が。

Dsc05542

 

  なかなか感じの良い鐘楼門です。

  越境寺(おっきょうじ)です。

Dsc05544

 

  越境寺本堂。

Dsc05547

 

  鐘楼門を境内から。

Dsc05548

 

  境内横の道を西に上がります。

Dsc05550

 

  レトロな古い町並みを善導寺へ。

Dsc05551

 

  いきなり善導寺の境内に入ってしまいました。

  越境寺のものよりは少々華奢な善導寺の鐘楼門。

Dsc05553

Dsc05554

 

  本来の入口から下りて出ます。

Dsc05556

Dsc05557

 

  下からではなくて高台の上から入ったので、逆に歩いてしまいました。

Dsc05559

 

  もう一回上がり加減に歩いて、今度は南に高台の町並みを歩いて緒川城跡へ向かいます。

Dsc05562

  撮影 2012/05/10

|

« 武豊線のキハ25形 - 大府駅と緒川(おがわ)駅 | トップページ | 今日(2012年5月14日)の岐阜駅 - 大垣への往き帰り »

旅行・地域」カテゴリの記事

東海地方(岐阜県、愛知県、三重県、静岡県)」カテゴリの記事

鉄道」カテゴリの記事

神社仏閣」カテゴリの記事

町並み、街道、宿場町、道」カテゴリの記事

コメント

江戸時代までは武豊線のあたりまで入り海で、善導寺も高潮の被害にあったりしたそうですね。越境寺と善導寺が少し高く作られているのも関係があるのかも知れません。
干拓によって作れた陸地なので洪水が多く、最近でも2000年9月に被害を受けています。それにしても最近東海地方は洪水被害が多いですね。
そんなわけで昔から海運が盛んで、海賊も跋扈し、瀬戸内ほどではないけれども水野氏も「水軍」を活用したようです。

レトロな古い町並み>
丸ポストは時々見かけますが、現代の都市の景観の中なのでどうしても浮いてしまいます。写真では町並みそのものが古いのでしっくりします。

投稿: ddol | 2012年5月14日 (月) 21時44分

入り海で>そうなんだと思います。緒川城全体が少し高台にあるのも、昔は東側が海に面していたからと思われます。

東海地方は洪水被害が多い>これは最近だけでは無く、東海地方の宿命みたいなものですね。
尾張藩の支藩である現海津市(岐阜県)の高須藩は、毎年のように水害に見舞われ、幕末には耐え切れず一時陣屋を移したほどですからね。

「水軍」>このあたりの水軍については、知多半島の現常滑市の佐治氏が有名ですが、tera2さんがこれについては詳しいんでは^^。

投稿: mino | 2012年5月14日 (月) 23時07分

東海地方の宿命>
まったく知りませんでした。地図で海津市を見ると凄まじい地形で、さもありなんと思います。
水害と言えば82年の大和川氾濫が印象に残っています。minoさんの方が詳しいでしょうが、当時王寺にあった車両が水浸しになり、関西線では数年間違う色の列車が走っていたのを記憶しています。

webを見る限りでは、水軍は瀬戸内のように海戦を行うのではなく運搬を担当したようです。大野水軍は伊勢湾全体を配下に置いたようですが、水野氏は近辺の運搬に用いたようですね。

投稿: ddol | 2012年5月16日 (水) 21時52分

ギリシャ情勢が難しくて、なかなかコメントできないです^^;
継体も話をふっておきながら、コメントできなくてごめんね>ddolさん
若狭の神々と朝鮮半島の関係も興味津々なんやけどね

伊勢湾の海賊衆関連は、ややこしい。
まず、東側(知多や渥美)からいえば、minoさんの指摘のように大野佐治氏が有名。後は、
水野氏、戸田氏、千賀氏等。

でも要は、津島の加藤家やと思ってます。

西側(伊勢志摩)では、有名すぎる九鬼。それと小浜氏や向井氏等の後々徳川関係衆。
このあたりは、隆慶一郎や白石一郎さんでお馴染み

東海道桑名から熱田湊の船便は古代~近世まで有名やし、現在でも志摩から知多や渥美へは、車で行くより楽で、近いです。フェリーに乗った感想ですが^^
ここを使ってたのかなあと思う島もわりとあるしね

伊勢湾は、面白いね

投稿: tera | 2012年5月17日 (木) 06時18分

追記
現在は、埋め立てが進んだのか、あるいは寒冷化したのか、海岸線が後退してもて、どこも当時の面影を忍びづらいなあ^^;

投稿: tera | 2012年5月17日 (木) 06時26分

今度、知多半島へ行く機会があれば常滑市の大野城跡(佐治氏)、そしてすぐ北にある織田長益(有楽斎)が築城した大草城跡を訪れるつもりです。

時間と体力があれば常滑市内も散策したいですね。

投稿: mino | 2012年5月19日 (土) 18時04分

>知多半島の現常滑市の佐治氏が有名ですが、tera2さんがこれについては詳しいんでは^^
と、振っていただいていながら、反応が遅れました。さらに、あんまり詳しくなかったりして申し訳ありません。でもまぁ、せっかくだからつらつらと。

 宮城谷昌光の『風は山河より』に、三河湾の支配は田原(渥美半島)の戸田氏で、知多半島にも支族を置いて、みたいな話がでてました。実際三河戸田氏は尾張海部郡の出で、それこそ信長の本拠地、津島の辺りが出自ですので、知多半島に支族があっても不思議ではない。しかし知多半島も伊勢湾側となると、佐治氏が有名です。知多半島は、mino氏の紹介のように、付根の大高、緒川、刈谷を水野氏が、その南の阿久井を久松氏が治め、これに大野の佐治氏を加えた辺りが有力な国人領主だったようです。あと勝幡の織田氏、長島の願証寺、桑名、四日市の自由港の商人、安濃津の長野氏なんかが伊勢湾を囲む。これに大商人として熱田の加藤氏なんかが加わるようです。加藤氏も、『風は山河より』に、家康の人質時代の預け先としてちらっと出てきますね。また、漫画では『センゴク』、の桶狭間の戦いの時ににもでてきます。

 このうち佐治氏は、製鉄の時に話がでた、熱田神宮の尾張氏を本姓とする一族で、いったん因幡国八上郡佐治郷(鳥取市)に移り、ここで佐治氏を名乗りますが、支族が再び尾張に戻って大野を拠点として水軍として活躍したようです。
 知多半島は、室町初期は三河国守護一色氏の支配下にあったようですが、一色氏が衰えた後尾張国守護土岐氏の支配下となり、その家臣の佐治宗貞が大野城に入って以後100年ほどこの地の支配が続きます。
 桶狭間以後、織田家に臣従。佐治信方が信長の妹、犬姫を、さらに息子の一成が信長の姪、江姫を娶るなど、織田家との繋がりの深い一族。それだけ水運に期待されたのでしょう。

…って辺りは、大野、常滑辺りの記事でminoさんが書かれる予定だったかも…。

 尾張の国の地勢から見て、畿内との流通には大きな川を何度も渡らざるを得ない。そのたびに荷役や税が必要なことを考えると、一度に海運で運んでしまえというのは納得できる気がします。でも内航船だから、紀伊半島を回ったりはあんまりしない。
 造船の大拠点としては安濃津が有名で、ここで作られる伊勢船は江戸初期に弁財船が一般化するまでは船種の代表の一つでした。特徴は船首が箱状になった構造(戸立作り、箱造り)で、中国の船の影響を受けています。搭載量が大きく、造船しやすいが、造波抵抗が大きくて、速度の出る船には向きません。

 で、後は水軍一般に就いてですが、伊勢湾の水軍が、どちらかと言うと水運業者の性格が強いのに対し、熊野水軍以西の水軍は、海賊的性格が強くなっていくような気がします。
 これは、国際貿易(+後期倭寇)に従事してるかどうかの違いが大きいのかなぁ、とか。

投稿: tera2 | 2012年5月20日 (日) 03時36分

facebookの上場がいまいちで、それなりに忙しい一日でした^^;

minoさん、tera2さん
>今度、知多半島へ行く機会があれば

それなら、日本福祉大学の半田キャンパスにある「知多半島総合研究所」が面白い。
http://handy.n-fukushi.ac.jp/chitaken/top.html

ここが出してる機関誌『知多半島の歴史と現在』
http://handy.n-fukushi.ac.jp/chitaken/book/kikansi/kikansi_1.html

例えば、永原慶二さんの「伊勢・紀伊の海賊商人と戦国大名(同4)、「戦国期伊勢・三河湾地域の物質流通構造」(同5)。以前、話題になった鍛冶師や鉄、ほかにも伊勢船の話や三河木綿、常滑焼等に関する歴史研究が多数収録です。

tera2さん
佐治氏が鳥取に移住したという話は、びっくりや。なんで鳥取まで流れたんやろ。
佐治氏は、一色の郎党やと思ってました。
(細かい話で申し訳ないけど尾張国守護土岐氏→斯波氏かな)

>水軍一般に就いてですが、伊勢湾の水軍が、どちらかと言うと水運業者の性格が強いのに対し、熊野水軍以西の水軍は、海賊的性格が強くなっていくような気がします。

伊勢湾交通は、内側は確かに渡海やら河川関係やらで水運業者の動向が大きいんやけど、
外側(志摩から知多・渥美)の「外航海運」はどうやろ。
伊勢・尾張・三河の物産を外に出すには、この海域は、結構狭隘で島も多くむずい。
(伊勢湾・三河湾から出た船は、志摩・知多・渥美を結ぶややこしい海域へ)

九鬼氏は熊野との関係が強いし、知多半島羽豆岬の千賀氏は、もともと志摩の一族。
(羽豆は、ddolさん関係の、日本武尊ともつながるね^^)

佐治氏も志摩に所領を有していたし(「北畠物語」等)、さらに前述した志摩出自の小浜氏や向井氏等は、
後北条・武田~徳川水軍やから、物流を通じて東国まで人のネットワークがあったのかもしれん
(遠州灘を乗り切っていくのはたいへんやろうけど、熊野社のネットワークは、遠くは種子島から瀬戸内、房総半島に至るみたいやし)

追記は志摩国。九鬼氏関係を見ると、土地をめぐる係争(漁業権も)が多い。この辺りは瀬戸内の島々を本拠とする海賊衆とは、かなり違う感じもします。

投稿: tera | 2012年5月20日 (日) 06時57分

tera2さんにはムチャ振りして申し訳なかったです。

田原の戸田氏は松本藩の戸田氏で有名ですが、大垣の戸田氏は系図上は繋がっているらしいですが、いろいろ怪しげだそうですね。

知多半島だけでこれだけの情報が集まるのには、感謝してます。よく読ませて貰いました。
佐治氏の鳥取出自は私も意外でした。

tera氏>日本福祉大学は半田にもキャンパスがあったんですね。もう少し南の名鉄知多新線沿いの美浜町や名古屋にもキャンパスはあるんですけど、大学は市街地にあったほうが良いと思うんですけどね。
リンク先見ました。知多半島関係の論文がありますが、永原慶二さんの名前を久々に見かけました。

実は、旅行先に九鬼氏の志摩半島での拠点であった波切(大王崎あたり)も考えています。
何か情報があったらddolさんも含め、よろしくお願いします。

投稿: mino | 2012年5月20日 (日) 21時11分

teraさん、tera2さん。詳細な情報ありがとうございます。三河が志摩との関係が深いことがわかりました。ネットで調べるだけではとてもこんなに詳しくはわかりません。

羽豆は、日本武尊に仕えた建稲種命が落命してその衣が流れ着いた場所とされ、そのことから半島の付け根を衣ヶ浦と呼んだそうですね。

水軍に関しては安宅船なども瀬戸内が先で他地方は遅れたそうで、やはり水運が中心だったのだろうと思います。また日本の船には竜骨がないので船同士の戦闘には限界があったのでしょう。

永原慶二さんの名前を久々に見かけました>
同感ですが、一瞬驚きました。創刊号は1989年なんですね。それから福岡猛志さんは日本福祉大学だったのですね。

投稿: ddol | 2012年5月21日 (月) 21時28分

松浦、瀬戸内、雑賀、熊野、九鬼、辺りの水軍はそこそこまとまった資料があるのですが、それ以外の水軍の情報って、少ないですね。特に最も興味のある船についての情報はほとんどありません。編成や戦法なんかもレア。常時探してるんですが…。

さて、確認のため尾張守護について調べてみました。

室町幕府成立からの中条秀長、高帥泰、土岐頼康、土岐康之(守護罷免され土岐康行の乱)、土岐満貞(1391年明徳の乱後守護罷免)、畠山深秋、今川仲秋、今川?、畠山基国、1400年ごろ斯波義教より信長期の義廉まで斯波氏7代。

ということで、佐治氏はまだ土岐氏が守護の時に大野を領したようです。

ちなみに織田氏は越前以来の斯波氏の被官なんで、尾張守護代になるのは1402年ごろ。

志摩は伊勢湾…にも接してるんだけど、ほとんど熊野灘な気がしないでもないので飛ばしたんですが、次の旅行先候補なそうなんでそちらで、ですね。

投稿: tera2 | 2012年5月22日 (火) 01時37分

ddolさん>衣浦にはそんないわれが有ったんですね。勉強になりました。

tera2さん>日露戦争の連合艦隊の参謀の秋山真之は、日本の水軍の戦法も研究したと、「坂の上の雲」で読んだ覚えがあるのですが、そういうものは具体的に残っているのでしょうか?

投稿: mino | 2012年5月22日 (火) 04時21分

ちょっと朝鮮時代の軍船について調べてみました。当時は倭冦対策が重要だったようで、南部の全羅道と慶尚道に水軍節度使を置いたりしています。軍船の設計では敵が船に乗って来ないことを重視し、次の三種があります。

剣船
朝鮮初期に用いられた船で、船の上に刀や金釘を打ち付けて敵が船の上に上って来れないようにした。

板屋船
16世紀半ばから用いられた。甲板の上に上甲板をつけて二層構造にし、漕ぎ手を下層に隠し、上甲板に攻撃手と砲を配した。櫓は16本で各5人が漕いだ。船高を高くしたことで、敵兵がよじ上ることを防いだ。文禄の役・慶長の役では主役を勤めた。

コブク船(亀船、「コブク」は固有語で「亀」)
板屋船を改造したもの(ウィキなどでは高麗時代から使用されていたとされるが確実ではない)。板屋船と違って甲板そのものを覆い、攻撃手も隠した。

ただどの船も記録が少なく、特にコブク船については鉄甲船ほどではないにしろ、正確なことは不明です。
ttp://www.carlife.net/bbs/board.php?bo_table=information&wr_id=1884
に絵と写真があります(韓国のサイトです)。上から二番目から剣船、板屋船、コブク船です。

minoさん>
志摩に行かなければならなくなりましたね。

投稿: ddol | 2012年5月23日 (水) 21時10分

minoさん

水軍の伝書なるものが各種伝わっています。
そのうち、東京大学の大日本海志編纂資料
ttp://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kaishi/category.html
というのが圧巻です。
さすが東大。

…と良質の資料画像が手に入り、その度量と熱意に頭が下がりはするのですが、

実は水軍伝書の類はほぼ江戸時代の二次資料で、作戦なんかは萬川集海なみの怪しさです。

木割なんかは比較的良質な資料ですが、ほとんど江戸期のもので、ほぼ弁財型。実のところ戦国時代の安宅船、小早船についてはわかっていないことも多いです。

そのうち安宅船に関しては信松院模型が、関船については、瀬戸内海歴史民俗資料館(香川)の上原船が有名です。

上原船は、高松藩の水軍技術者養成のために作られた教材で、内部も正確に作られている1/20模型
こちらにこられる折がありましたら、ご案内できます。


ddolさん
朝鮮半島の軍船の紹介、ありがとうございます。
コプク船については、資料をいくつか調べたことがあるのですが、かなり想像の加わったものが多く、実像がわかりにくい感じですね。ソウルの戦争記念館、二村地区、慶州の独立記念館、麗水、鎮江の海軍士官学校など、復元船、復元模型はそこそこあるんですが、どれも結構オリジナル…。

国内では、佐賀県立名護屋城博物館に、安宅船と亀甲船の模型が展示されています。

日本語で見れるサイトとしては、wikipediaの亀甲船の外部リンクの上のサイトが見やすかったです。

ディアゴスティーニから出ていた、週刊 ビジュアル日本の歴史という、なんとも冗長でしょぼい出来の雑誌があったんですが、朝鮮侵略の刊の亀甲船の記事だけはかなりしっかりしたものでした。

投稿: tera2 | 2012年5月23日 (水) 23時09分

ddol さん>どうも有り難うございます。志摩へはボチボチと行きます。

tera2さん>東大の資料は圧巻ですね。しかし、江戸時代の二次資料がほとんどというのは残念ですし、もう少し残っているんだとばっかり思ってました。
この辺りは、けっこう解かっていないんですね。

tera2さんの船のホームページのURLを無くしてしまったので、暇なときでよいですからまたメールで教えて下さい。

投稿: mino | 2012年5月24日 (木) 12時30分

全羅道と慶尚道に水軍節度使を置いたりしています>
「全羅道と慶尚道の水軍節度使を強化したりしています」と訂正します。水軍節度使は1466年に八道全部に設置されたもので、余計なことを書くものではありませんね。

船に限らず物は、絵に描かれているか遺物が発掘されるかしないとわからないようです。

投稿: ddol | 2012年5月24日 (木) 21時29分

いろいろとややこしい情勢でなかなか見にいけなかったんやけど、話は面白く展開してますね。
永原慶二さん、なんかなつかしくて記してみました^^

minoさん
>実は、旅行先に九鬼氏の志摩半島での拠点であった波切(大王崎あたり)も考えています。

伊勢志摩はけっこう行ってるんやけど、たいてい海水浴とかパルケ関係で史跡とは無縁なんや^^;
大王埼灯台あたりは、とてもきれいです(漁港やお土産屋も面白いです)。
車で走った感じでは、志摩は現在でもちょっと隣に行くにも山越え谷越えで時間がかかります。これは船やなあと。

大王崎からは離れるけど、おすすめは伊勢志摩スカイラインの朝熊山。
金剛證寺は九鬼関係のお寺やし、その近くにある展望台からは伊勢湾が一望
知多・渥美が目の前で、島々を縫うように航路があったのかなと。
はるか奥にある三川あたりとの違いが鮮明です。

日程が許すのなら、知多半島から志摩のフェリーがお薦めなんやけどね

>ddolさん
知多といえば、やはり日本武尊やねえ^^
竜骨やら和船の構造は、tera2さんが無茶苦茶詳しいです。

和船は、なんといっても石井謙治さん(しか、昔はやってなかったのでは)
船の話が日本史で流行するのは、網野さん以後という気がするわ。
海戦とかは、今は宇田川武久さんの著作(瀬戸内関係)が手に入りやすいです。

戦国期、瀬戸内の海賊衆の生業は、主に船の運航のガードマン、通航料の徴収および漁業権や土地を巡る紛争の仲裁、それに在地領主の戦闘支援。中国・朝鮮あるいは東南アジアとの交易もあったかもしれんけど、このあたりはわからない(でも、ここが面白い^^)

当然、非道なこともやったんやろうやけど、基本は域内の秩序維持を目的とした民間治安サービス事業者(やくざ)と思ってます。

それでtera2さん
水運と海賊衆を区別できるんやろか?

それと、
>佐治氏はまだ土岐氏が守護の時に大野を領したようです

説明不足やったようで申し訳ないけど、佐治宗貞と土岐氏って時代が重なるの?
もし宗貞が14Cの人やったとしても、知多は一色氏支配が絡むしね。

でも、もっと後(16世紀)の人やと思ってたので斯波氏かなと(例えば、wikiの斉年寺)

投稿: tera | 2012年5月26日 (土) 06時52分

teraさん

>水運と海賊衆を区別できるんやろか?

できないと思います(-_-;
ただ、漁船借出して元と戦ってた中世前期と比べて、戦国期の水軍衆の場合、その性格が商業よりか、漁業よりか、あるいは戦闘の比重が高いかはあるんじゃないかなと。
例えば、地元香川の場合、高松城の西側が軍船港、さらに西側に漁港、東側に商港と配置されます。これは、高松築城以前の野原(現高松の旧名)の漁港、商港の地域を反映していると考えられています。中世末期にはもう船の形状とか、付属施設とか、組織形態とかそこそこ違うわけです。あと、村上水軍みたいに早くから警固衆(警護じゃなくて警固、なんで地域防御)~関銭徴収に重点をおいた一族とか。
その辺の地域的な性格の違いとなんかを考えてます。


>佐治宗貞と土岐氏って時代が重なるの?
すいません、重ならないです(-_-;
佐治氏については、ウィキペの佐治氏、佐治信方、佐治一成、大野城、それ以外の佐治氏についてのwebページと、山川出版の愛知県の歴史、なんかを参考にしたんですが、その部分
「一色氏は将軍足利義政と対立し、三河守護職を失い、応仁の乱を経て次第に勢力を衰退させ、尾張守護の土岐氏に大野城は奪われ、家臣の佐治宗貞が入城し(ウィキペ、大野城)」から引きました。
でも、ご指摘の様に応仁の乱期なら斯波氏が守護です…というか、少しすると形勢悪くなって守護代織田氏の勢を頼って斯波氏武衛家が尾張に逃げてくる…。

さらに、鳥取の佐治氏由来と書きましたが、どうも他のページとか見てると、直接には甲賀から知多半島に移ったようで、それも一色氏の家臣として移っているようです。とすると鳥取由来も微妙に怪しい(^^;
最も複数の系図を含め、いろんな説があるようで、それを主張する人もいるんでしょうが。

ttp://www.geocities.jp/kafukabj/sajisisetten.html
佐治本家と大野佐治の接点
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/sazi_k.html
戦国家伝 佐治氏

山川の愛知県の歴史によると、文書で確認できる範囲で1462年まで知多半島を一色氏が治めてるので、応仁の乱頃一色氏の手を離れたのは間違いないとして、尾張守護の??氏に城を奪われたというのも結構怪しくなってくるような…。

もうちょっといろいろ確認してから書くべきでした。ウィキペおそるべし…

投稿: tera2 | 2012年5月26日 (土) 23時14分

tera2さん

中世は、荘園年貢の輸送と商品経済の発達の関係で、浜辺の土豪は海上諸権益の確保に血眼になってたと思います(警護も警固もね)。特に、志摩のような農業生産性の低い下国の土豪は、一族をかけた闘いにあけくれたんやないかな。隣の伊勢・尾張・三河は上国(あるいは大国)で、かつ商品経済の発達した(おいしい)地域やしね。

このあたりが、伊勢湾水運と海賊衆の面白いところやと思うんやけど、資料がなぜかない^^;
九鬼氏や、徳川水軍の向井氏、尾張徳川関係の間宮や千賀等、幕末まで生き残った志摩関係者が多いわりには、お話がでてこない。思い出したくない記憶やったんかなあ^^

瀬戸内は、大国やら上国で、商品経済のメインロードかつ東アジアとの関係もありの地域やけど、海辺や島々に蟠踞する土豪諸氏は、志摩衆と規模の違いはあれども(リスク・リターンの大きさか)、心性と運動は同じやったんやないかな。

>もうちょっといろいろ確認してから書くべきでした。ウィキペおそるべし…

いえいえ、いつも適切なまとめをつくってくれて、とても重宝してます^^
知らないことも多く、おいらは、へえーと思ったことに、適当に質問してるだけですよ
讃岐関係の話、よく調べてるなあ。

佐治氏、志摩関係で出てきた記憶があって、興味はあったんやけど調べてはなく、この話題でえた知見は大きいです。

投稿: tera | 2012年5月27日 (日) 05時34分

金曜にやってるNHKBSプレミアムの番組、「風土記」見ました?
まったく関係のない話しやけど、「神話の森 中国山地の不思議な旅」という番組。
出雲の神楽や吉備の鬼の話やらで、とても面白かったです。
NHKでしか撮れない番組の一つやと思って注目してます。次回は、四国です。

今年の大河ドラマ平清盛は、なんか不人気らしけどなんでやろ^^;

投稿: tera | 2012年5月27日 (日) 06時19分

知多といえば、やはり日本武尊やねえ^^>
東浦町の生路井(いくじい)
猟をして喉が渇き、弓のはずで岩を突くと水が沸きだしたという伝説

知多市の日長神社
ここに立ち寄った時、地元人に日の暮れ具合を尋ね、「まだ日は高い」という返事を聞いて「日長」と命名したという伝説

があります。当然尾張や三河にも色々あるようです。

水運と海賊衆を区別できるんやろか?>
ヨーロッパのバイキングの話にもちょっと似ていますね。昔、概説などは「バイキングはただ海賊行為だけを行ったのではない」という説明から入っていました。

NHK>
申し訳ありませんが、我が家はNHKが入りません。「風土記」のタイトルは面白そうなんですが。
以前平氏のことが話題になっていましたが、大河ドラマだったのですね。ついていけなくて申し訳ありません。

投稿: ddol | 2012年5月28日 (月) 21時41分

ddolさん、詳しい説明、ありがとうございます。
小・中と「応神陵」のそばに住んでいたこともあり、神話といえば日本武尊。
数年前、角川の書評誌「本の旅人」に連載していた黒岩重吾さんの絶筆(?)
「白鳥の王子ヤマトタケル」(角川文庫)を読んだ記憶で、そういえば知多かなと。

NHKが見れない。う~ん、どういう環境や^^

バイキング。このあたりもtera2さんが、なぜか詳しいです^^
バイキングの国々(北欧)は、、イメージでは「福祉国家」やのに競争力(市場経済的な意味で)も強い不思議な国々やなあ。

投稿: tera | 2012年5月29日 (火) 06時33分

tera2さん。コメントしそこない、申し訳ありません。
讃岐高松城の情報とても貴重でした。発掘調査で漁港が確認されたそうですね。

佐治氏の話はtera2さんの説明通り、因幡佐治氏と知多佐治氏とは一応分けて考えた方がいいようですが、私としては因幡佐治氏という開発領主がいたことを知り得たのは成果です。

「福祉国家」やのに競争力(市場経済的な意味で)も強い不思議な国々>
ちょうど先日テレビでこの問題を扱っていました。出演していた専門家によると、北欧では常によりよい職場を求めるため離職率が高く、また離職者が新たに技術を獲得することを、国家が金銭や機会などで最大限の援助を行うので競争力が損なわれないそうです。個人がこうした状況なので、企業などでも素早く転身でき、アメリカなどに対抗できるのだと説明していました。こうした北欧の社会型を'Northern Model'と呼ぶそうです。

小・中と「応神陵」のそばに住んでいたこともあり>
そうだったんですか。あの辺は役所が移転するまではほとんどが農地だったように記憶しています。私は旧市街に住んでいました。

投稿: ddol | 2012年5月30日 (水) 21時27分

>中世は、荘園年貢の輸送と商品経済の発達の関係で、浜辺の土豪は海上諸権益の確保に血眼になってたと思います

でしょうねぇ。不況時の中小企業主の様に切迫した目つきで利権を探してたとは思います。
ただ、いまいちわからないのは、志摩、熊野を抜けて大阪湾に至る交易路が、戦国期にどの程度機能していたかです。
これの実入りが大きいなら積極的に海に出て行くだろうけど、逆に海賊もしくは関銭(津料)が重ければ流通量が減る。

さらに、志摩の土豪は戦いに明け暮れて連帯できず、よって伊勢・尾張・三河に積極的に海賊行為や利権闘争なんかで攻めにいくことができたかどうか。

あと陸続きなんで、戦闘は陸戦の比重が上がり、また、わずか数キロの海峡を押さえればよい瀬戸内と違って、沿岸大回りされると見張り、追尾、どれをとっても莫大なリソースを消費しそうです。

この状態で、海賊として大きな組織力を持てたのかどうかが疑問なわけで、たとえば大船団の運用とか無理っぽくないかなぁと。

伊勢湾、戦国期の資料は村瀬 正章、伊勢湾海運・流通史の研究 ってのがあるんだけど、近世中心です。

警固衆に関しては、警護衆って(間違って)書いてる人が結構多いんで。

>新日本風土記

概ね毎週見てます。1時間ものなんで、冗長なことがあって、それがつらいけど、いいのも多い。ちなみに、総合の朝5:55から、「もういちど、日本」って番組がやってて、新日本風土記のダイジェストみたいな5分番組です。

もともと、海外向けのBigin Japanology、って番組から、トラッドジャパンって英語番組ができて、これが好評なんで新日本風土記ができた感じ。


中国山地はやはり神楽がいいですね。全国では高千穂(椎葉)神楽が有名ですが、石見神楽や備中神楽もとてもいい感じ。広島にも結構神楽があって、行ってみたい。

ちなみに、岡山との交流の多かった香西氏の本拠地、高松市香西でも秋に神楽があって、面や構成に備中神楽との共通点が見られます。夕方から0時頃までぶっとおしで、かなり迫力のある祭りです。

>大河ドラマ
視聴率1桁の危機がもうまぢか。保元の乱の回に、10.2%はかなりピンチです。いい感じの回だったのに残念。

原因は、戦国時代と三国志以外の歴史に興味をもたない層がほとんどなのが一番の原因だと思います。まぁ、無理もなくて、中学の教科書とか見ても江戸期までの薄いこと…。

後は、NHK風の大げさな演出や、単調な人物像が鼻につくというのもちょっと…。関連特番なんかで、若い俳優さんが平安時代について全然勉強してなくて失望しますが、その辺が演技の薄さにでちゃうのはあるかもしれません。脚本家も含めて…。

でも時代考証とかそれなりにしっかりしてるし、見所多いのになぁ。

ちなみに、清盛の兜(鍬型の根元に鬼の顔)と、忠正の兜、以前の大河ドラマの将門や義経の兜が、全部同じなのにはちょっと笑いました。マスプロ品?


>高松城発掘調査で漁港

中世期の港は、沿岸を固めて小石を敷き詰めて船を引き上げ易くしたようなタイプの港で、神奈川県に残っているのが最も古いものなのですが、近世に入ると雁木(階段状の船着場)が主流になって、今も港ではよく見かけます。
高松城発掘では、まだ古いタイプの港の跡が出てて、その辺が嬉しいです。

ちなみに、江戸時代の雁木を含め、全国で唯一港湾施設のほとんどが残っているので有名なのが広島県の鞆の浦です。
で、これを潰して道路を作ろうとして問題に…。

投稿: tera2 | 2012年6月 1日 (金) 00時21分

志摩の土豪は戦いに明け暮れて連帯できず、よって伊勢・尾張・三河に積極的に海賊行為や利権闘争なんかで攻めにいくことができたかどうか>
おそらくその通りだと思います。
1560年に北畠具教の援助を受けた志摩地頭12人衆が連合して九鬼氏を攻めているのは例外的事例のようなので、ほとんど連帯することはなかったのでしょう。
また、千賀氏が九鬼嘉隆に攻撃されて知多に逃げているということは、知多には九鬼の力が及ばなかったことを示していると思います。

神奈川県に残っているの>
これって和賀江港のことでしょうか。今でも時々宋銭が見つかるとか。

投稿: ddol | 2012年6月 2日 (土) 20時49分

ddolさん
>これって和賀江港の

はい、そうです。鎌倉の、と書いたほうがわかりやすかったかもしれません。

私は鎌倉に行ったことがないので、船に興味を持って調べるまで和賀江島のことを知らなかったのですが、関東の方には有名な場所なんでしょうか。

残念ながら後世大きく手が加わっている上に、保存がうまくいかず、当時の状況はよくわからないようですが、人工島を作り防波、護岸、荷揚げなどの機能を持たせたようです。清盛の経が島と同じ港湾整備ですね。

投稿: tera2 | 2012年6月 2日 (土) 23時03分

和賀江島は関東の人もほとんど知らないと思います。私は子供の頃一時鎌倉に住んでいたので知っているだけです。
tera2さんの方が詳しいでしょうが(これは振りではありません、念のため)、経が島が瀬戸内にあるのと違い、波の荒い太平洋に面しているせいで鎌倉期から何度も波に破壊されたそうです。
和賀江港は「東海道」鎌倉の最東端にあり、その管理・収益は「東海道」鎌倉の最西端にある極楽寺が担ったという点でも非常に重要な港でした。でも今はほとんど訪れる人もなく、さびしく説明碑が立っているだけです。

投稿: ddol | 2012年6月 4日 (月) 21時22分

ああ、有名というわけではないのですか。
地味な遺跡だからなんでしょうか(^^;
同じ島国の英国と比べて、海事史に関する関心は極めて薄い。

港の管理を寺がするあたり、中世らしいなぁと思います。末法の世ですね。

同様の礫敷の海岸遺構としては、博多、唐津、十三湊などで出てるようです。高松の場合は、出土品から12~13世紀の遺跡と推定され、同時に木製の錨が出土しています。
場所的には、JR高松駅のほんのすぐ南。高松城の中堀と舟入のあったあたりになります。

まぁ、工事のため、すぐ埋め戻されちゃったわけですが…。

投稿: tera2 | 2012年6月 5日 (火) 21時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 緒川(おがわ)城跡(愛知県東浦町)を訪ねる(1) - 緒川を散策(1):

« 武豊線のキハ25形 - 大府駅と緒川(おがわ)駅 | トップページ | 今日(2012年5月14日)の岐阜駅 - 大垣への往き帰り »