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2012年6月22日 (金)

浜大津と大津城跡 - 滋賀県大津市

 

  膳所(ぜぜ)本町駅から京阪膳所駅を経て浜大津駅までの所要は8分。

京阪膳所駅ではJRの膳所駅と連絡しています。

浜大津には大津港があり琵琶湖汽船の観光クルーズ船が就航しています。

かっては琵琶湖の水運の拠点であり、戦国時代には現在の浜大津一帯に大津城がありました。

現在では石碑と推定復元された縄張り図のみが道路脇にあります。

 

  関ヶ原の戦い(1600年)では大津城主の京極高次は東軍に組みしたため、毛利元康、立花宗茂らの西軍1万5千に攻められ、7日間の攻城戦の末、関ヶ原の戦いの前日に開城しました。

これが「大津城の戦い」です。

しかし開城したとはいえ、結果として、この西軍1万5千の部隊は大津城攻城のために本戦に参加することができず、のちに家康は、その戦功に報い、京極高次を大津6万石から若狭小浜城へ8万2千石に加増して移封しています。

京極高次の後には戸田一西(とだ かずあき)を入れ、大津城を廃城として、天下普請による膳所(ぜぜ)城の築城を経て、膳所藩3万石が成立したことは前に記した通りです。

 

  膳所(ぜぜ)本町駅にて。

  遠くから近江神宮前行きがやって来ています。

Dsc00086

 

  浜大津駅。

  山科を経て京都に向かう京津線(けいしんせん)の始終発駅でもあります。

Dsc00088

 

  浜大津駅は橋上駅舎で、これは西の出入り口。

  東側の地上にはバス乗り場があります。

Dsc00090

 

  東側歩道橋から大津港。

  見える道路は湖岸道路です。

Dsc00113

 

  湖岸道路の向こう側に大津城跡の石碑があります。

Dsc00117

 

  大津城縄張推定復元図。

Dsc00119

Dsc00121

 

  大津港のコンコース、ターミナルビルと遠くに見える近江富士。

Dsc00122

 

  こちらは比叡の山々。

Dsc00123

 

  大津港から近江富士。

Dsc00125

 

  琵琶湖汽船の観光クルーズ船「ビアンカ」。

Dsc00127

 

  港内から。

Dsc00129

 

  浜大津駅駅舎の西出口あたりから浜大津の交差点。

Dsc00135

  撮影 2012/06/14

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コメント

「琵琶湖の水軍」で有名なのは堅田衆やね。堅田衆は、佐々木氏や宗教勢力と絡みつつ、
琵琶湖の海上権を支配します。近江門徒衆の代表格で反信長が勢力の一翼を担うんやけど、
その後は、ちゃっかり、信長から上乗(ガードマンね)を保証されてます^^

堅田の「湖族の郷資料館」

蓮如出現以降、真宗の教線が伸びて、近江は門徒支配の地域が多い。
堅田も比叡山との激烈な抗争を繰り返してます。このあたりの話は

高橋直樹、湖族の風、講談社文庫
岳宏一郎、蓮如 夏の嵐、講談社文庫

が面白いよ。

以上は小説やけど、この地域の中世関西の物流と寺社との関係をやってる研究者では、
鍛代敏雄さん。
http://www.oumi-castle.net/gensetu/network/kitai.htm

投稿: tera | 2012年6月23日 (土) 06時37分

堅田衆>琵琶湖の水軍、水運(物流)も調べてみると面白いですね。

秀吉が坂本城を廃して大津城を築くのも物産の目的地が京都から大坂に変化したからだとか云々等。

投稿: mino | 2012年6月23日 (土) 16時37分

>秀吉が坂本城を廃して大津城を築くのも物産の目的地が京都から大坂に変化したからだとか

そうなんや。明智の城を破却して大津に新しく築いただけと思ってました^^:
物流の変化の絡みで、大津のほうが都合がいいの?

投稿: tera | 2012年6月25日 (月) 05時40分

坂本は元々は比叡山への物資の集散地としてあったのが、織田時代はそれを押さえるために坂本城を築いた訳です。
しかし、秀吉の時代になると比叡山は許されており、明智光秀との絡みも含めて坂本の重要性は薄れました。
そして、当時、秀吉は大坂城を築城しており、淀川(宇治川)により近い大津城を築いて、城という面だけではなく物資の集散地としての機能も持たせたようです。

家康が落城した大津城を廃城にして、膳所城を築いたのは、大津城のそのような機能のために、城としては不完全だと判断した経緯があるようです。

京へのルートから、大坂へのルートに変更というのは私にも良く判りません。

大津城を築くと同時に、秀吉は琵琶湖の水運の統制をおこなっていますが、ここら辺りはtera2氏が詳しいのではと思います。

投稿: mino | 2012年6月25日 (月) 10時29分

堅田衆は、琵琶湖の隘路(現在のレインボーロード)という地の利をいかして、大津、草津、坂本等に入る船から関銭稼ぎ。沖ノ島も堅田衆ゆかりの地です。
湖族ではなくて、湖賊やなあ^^

水城でもある坂本城と信長から関銭の徴収(上乗)を保証されたという堅田門徒衆との関係は、微妙やね。

逢坂山から日ノ岡峠の経路、山科にいくと、車石の跡が、家の塀とかに残ってます。
車石をはがして、自分の家の塀にしたんやろうね^^
中世(近世も)の交通は、水運がメインやけど、陸上も多くの人が荷を背負い、あるいは牛や馬を使い、物資を運んでました。東海道山科も荷駄を引きやすいように車石を。

山科は、蓮如が本願寺を築いた地。山科本願寺合戦で負けて大坂に移るんやけど、比叡山等中世勢力と熾烈な抗争をする真宗一派は、交通の要所に拠点を築こうとしてるのが面白い。

投稿: tera | 2012年7月 1日 (日) 06時58分

なるほど、やはり京と琵琶湖の交通は山科経由なんですね。

堅田衆を押さえてしまえば(琵琶湖全体を平定してしまえば)、大津あたりが琵琶湖と京の間の交通の要衝になったという事かもしれないですね。

投稿: mino | 2012年7月 1日 (日) 18時53分

ご存知かもしれませんが、2008年から11年にかけて滋賀県文化財保護協会が産経新聞滋賀版に連載していた「びわこの考湖学」が公開されていて、琵琶湖の交通や城などについて簡単にまとめてくれています。
ttp://shiga-bunkazai.jp/よみもの/びわこの考湖学/第1シリーズ/
ttp://shiga-bunkazai.jp/よみもの/びわこの考湖学/第2シリーズ/
ttp://shiga-bunkazai.jp/よみもの/びわこの考湖学/第3シリーズ/

その第1シリーズ25回「坂本城と大津城」で京ルートから大阪ルートへの変更を扱っていて、山中越から逢阪山への変更がそれにあたるとしています。それに伴って坂本から大津に城を移したという説明です。大津から膳所へはminoさんが書かれている通りです。

またこのシリーズは、大津が古代から東西と南北の交通の結節点として重要であったことを強調しています。これは、本州の中央を貫く山脈が、近江では琵琶湖となって途切れているという地理的特性によるものだろうと思います。

投稿: ddol | 2012年7月 1日 (日) 21時26分

ddolさん。「びわこの考湖学」の紹介、ありがとうございます。知らんかったわ^^:
第1シリーズを読んだけど、とても面白い。

山中越は、京大から北白川の道を登っていくと比叡山スカイラインにでるコースで、
けっこう険しい道です。荷物を担いでよう行き来したなあ^^

足利将軍家おきまりの逃亡のコース、大原~朽木越も厳しい道なんやけど、
若狭小浜からサバやハモとかをを担いで京に運んでるんや。

>本州の中央を貫く山脈が、近江では琵琶湖となって途切れているという地理的特性

うんうん、雪が多くて凍結するので、冬の名神は難儀やわ

投稿: tera | 2012年7月 2日 (月) 06時06分

ddolさん、ありがとうございます。面白そうですね。じっくり読んでみます。

teraさん。山中越は、京大から北白川の道を登っていくと比叡山スカイラインにでるコースで、
けっこう険しい道です。荷物を担いでよう行き来したなあ>こんなところをルートにしていたんですね。

投稿: mino | 2012年7月 2日 (月) 07時39分

押入れから本一冊を探し出すのに手間取ってしまいました。

本州の中央を貫く山脈が、近江では琵琶湖となって途切れているという地理的特性>
少し古い書物ですが、栗本慎一郎・笠井潔『闇の都市、血と交換』(朝日出版社、1985年)が近江を扱っています。
この地理的特性ゆえ、山人は近江で平地に下らなければならず、ゆえに山人は近江を山として押さえようとした。
議論の背景には山・都・農村の関係があり、山と都は聖、村は俗という二元対立で、山は闇の都市、都は光の都市という栗本さんの説があります。そして都が活力が枯渇した時に山が力を提供するという関係があるので、都市の側も近江、特に南近江を押さえようとしたと説かれています。
大津遷都から信長の安土城、秀吉や石田三成の築城まで、その試みであったということになります。
対談なので、近江商人や金属民などにも話が転じて興味深い一書でした。

この本はいずれ読むかもしれないと、捨てずに取っておいたのですが、読みたい時にすぐに読めないのでは意味がないですね。スキャンして電子化できればいいのですが。

7月7日のTBSの報道特集で元寇の沈没船が発掘されたという話題を取り上げられたそうです。直接見たわけではありませんが、キールが出土し、外洋船であったことが確認されたそうです。

投稿: ddol | 2012年7月 9日 (月) 21時10分

ddol さん紹介の本、興味深い内容ですね。
栗本慎一郎さんの名前は懐かしいです。アマゾン辺りでまた捜してみます。

船と言えば、大阪の船の博物館が仕分けされると言う話を何かで見ましたが、その後はどうなったんでしょうかね。キール、いわゆる竜骨ですね。

投稿: mino | 2012年7月10日 (火) 17時36分

ddolさん。栗本慎一郎、なつかしいなあ^^

>そして都が活力が枯渇した時に山が力を提供するという関係があるので、都市の側も近江、特に南近江を押さえようとしたと説かれています。

なるほどなあ、惟喬親王ゆかりの南近江なんや。
惟喬親王―木地師関係では、東近江市の木地師資料館(安土城→観音寺城→名神八日市インター方面)
少し離れた朽木(現高島市)。朽木資料館も木地師関係。他はtera2さんの四国やね(飛騨もそうやないの)

沈船―竜骨ージャンクは、tera2さんに任せるけど、このあたりの小説では、

白石一郎、海狼伝と海王伝(両方とも文春文庫)は、ぜひおすすめ。

80年代後半から90年代に初めは、経済史でも東アジア関係の話がいっぱいでた頃で、
仕方なしにそのあたりの文献も読んでいたおいらは、白石さんにであって、なるほどこのあたりも面白いかなと思いました^^;

投稿: tera | 2012年7月11日 (水) 06時42分

木地師>こういう伝説があるとは知りませんでした。

白石さんについては、teraさんから紹介されて、面白い人だなあと思いました。

栗本慎一郎、懐かしい名前ですよね。

投稿: mino | 2012年7月11日 (水) 13時53分

沈船―竜骨ージャンク>
ネットで調べた範囲ではジャンクに代表される前近代中国の船には竜骨がないとされていたので、今回の番組に驚きました。
発掘されたのは2011年で、場所は長崎県松浦市鷹島沖です。
さらに調べると、1974年に中国福建省泉州で1272以降に沈没した船が発掘され、V字型の船底に竜骨と12の隔壁(bulkhead)があっとという記事がありました(ttp://www.vancouvermaritimemuseum.com/?p2=/customcode/vmmuseum/page2.jsp&page2=237、英語です)。

木地師>
火の起原伝説のパターンですね。でも何故惟喬親王なのか気になります。
栗本さんの書では、木地師は山人の中では政治的に高位にあり、その職種により農耕民との接触を担ったとされていました。具体的なことは記されていないのですが、こういう理由で近江ということになるのでしょう。

投稿: ddol | 2012年7月11日 (水) 21時39分

ご無沙汰しております。
職場の所属が変わることになって慌しく、なかなか反応できませんでした。

琵琶湖といえば、前近代最大の座を安宅丸と争う、信長の大安宅を思い出します。一説に全長50m超。

なにわの海の時空館、仕分け後年内廃止が決まったようです。すばらしい博物館なんで、年内に是非どうぞ。
文化施設から切り捨てて、財政黒字って…なんてきなくさい話はおいておいて、
この博物館の浪華丸は必見です。全長30m865石。中も見れます。

琵琶湖に戻って、Googleマップを地形モードにして見てもらうとわかりやすいですが、勢田川、宇治川から淀への経路はかなり遠いです。地形、距離から考えるとほぼ山科一択。あとは関銭と治安ともろもろで複数のルートができるのかなと。

大津百艘船が井伊領の三湊に利権を奪われていく辺りも物悲しい。

鷹島の竜骨、跡、はびっくりしました。
ここは、てつはうの出土以外に、元寇の船の碇が見つかり、その放射線量計測で、中国南方由来の石が用いられているとがわかったことでも有名です。これで弘安の役の江南軍(東シナ海横断ルート)の船由来だと確認されました。

鷹島近辺での戦いは、東路軍(朝鮮半島由来)と江南軍の両方の可能性があるのですが、半島系の船は、ジャンクのような隔壁ではなく梁構造が特徴とされるので、今回の船も江南軍由来ではないでしょうか。

ちなみに、ウィキペディア辺りでも、ジャンクに竜骨がないようなことを書いていますが、航洋船のジャンクには普通に竜骨があります。
本でもたまに間違ってるのがありますが、ちゃんとした模型とかは竜骨ありで、川用や沿岸用ジャンクには竜骨がないので、それからくる誤解と思われます。

中国のジャンクに対して、インド洋に入ると紀元前から主流の船はダウになるわけですが、その辺は普通に竜骨を持つので、海のシルクロードを通じてかなり早くから竜骨は意識していたんじゃないかと。でもダウには肋材はありません。だからかどうか、ジャンクにも肋材はありません。

ちなみに、遣唐使船、遣明船は竜骨がないんですが、戦国時代の貿易船や一部の安宅船には竜骨があるんで、日本にも技術的には流入しています。

外洋だと、船体をねじる力や、折る力がかかるんで、船底丸木の準構造船ならともかく、モノコック構造の棚板造りだけでは限界があったんでしょうね。

投稿: tera2 | 2012年7月13日 (金) 00時41分

ddol さん、新しい資料ありがとうございます。

英語は随分長い間読んでないので、サッサッとは読めないのがもどかしいです。


tera2さんお久し振りです。
さすがに、お詳しいですね。竜骨の話は、なるほどと良く判りました。

以前にtera2さんに話を振ったのは、琵琶湖での水運の推移でしたが、もし機会があれば伺いたいと思っておりました。

投稿: | 2012年7月13日 (金) 08時33分

tera2さん。貴重な情報ありがとうございます。
考えると遣隋使や遣唐使などは相当無茶な冒険だったのですね。
日本でも竜骨が使用されていたとなると、半島でも同様かも知れません。

ところでwikiの船関連のページはよくまとめられています。英語ということで紹介しなかったのですが、竜骨の項を全訳してくれている方がいました。

ナビゲーションの歴史 キール (竜骨)
ttp://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/navigation2/keel.htm
この方は他のページも訳してくれています。

なにわの海の時空館>
今年いっぱいだと行けるかどうか微妙です。HPを見ましたが、浪華丸は迫力がありそうですね。閉館したらどうするのでしょうか。文楽座、大阪市音楽団に続いて、また大阪には文化がないと揶揄されそうです。

泉州の発掘船>
失礼しました。前回は時間不足で日本語のページを探せなかったので、せめて写真でもと思いurlを記しました。
木村淳という方が発掘結果をまとめています。

中世東アジアにおける航洋船の発達に関する考古学的研究
ttp://www.mishima-kaiun.or.jp/report_pdf/2008c/114_nh20.pdf

また、「泉州湾古船陳列館(ttp://heartland.geocities.jp/zae06141/qian_zhou_ship_musei.html)」に大きめの写真が掲載されています。

投稿: ddol | 2012年7月14日 (土) 20時50分

minoさん。英語は相場に必要なものは感で見てるんやけど、あれだけ苦労したドイツ語は、バームクーヘンレベル^^
;メルケルさんやドイツ連銀総裁のコメントとか見にいくと、失われた時を感じます。

tera2さん、ありがとね^^

あえての注文は、和船の構造の話をもう少し丁寧に^^
讃岐木地師と惟喬親王の話はないの。四国における中世木地師の権益根源(通行、伐採、加工等)と惟喬親王は。

ddolさん。竜骨に関する英語を訳してくれるHP、重宝です^^
こういう方が、がんばってくれるとうれしいです^^

帆船の場合はキールが必要というのは、ちょっとびっくり。
おいらがヨットに乗るときに意識するのはセンターボートの上げ下げで、船体の横流れです。キールがあるなら、バラスト(安定性の保持)かなあ。

ただね。歴史的には、竜骨を採用するかどうかは、造船の基本的な設計思想の問題で、輸送目的とその費用対効果というマーケットの論理が支配するところやと思うんや。
(呪術性が入れば別の展開もある)。

西洋・中国と比べても、良質木材の入手可能性やそれに伴う木材加工の技術、積荷量とアクセスの問題等も大きく関係したんやないかな。

遣唐使船が不安定というのもその通りやろうけど、リスクの取り方を現在と比べるにはもう少し情報をまたんとね。タッキングができなかったかどうかは、これだけでは断定できんと思うけど、インドネシアとかに行くのはつらいかも^^;(想像の世界のお話で、よくわかんないです)

>日本でも竜骨が使用されていたとなると、半島でも同様かも知れません。

沈船の話もあんまりしらんのやけど、有名どころで新安沈船

投稿: tera | 2012年7月15日 (日) 06時43分

>琵琶湖の水運について

詳しいわけではないのですが、大体のところ、

1.日本海、若狭東部、越前から湖北、塩津と大津(近辺)を結ぶ縦断ルート
2.若狭西部から今津近辺抜けて、大津(近辺)を結ぶ湖西線湖上ルート
3.北国街道、中仙道の分岐点である彦根、長浜から大津(近辺)を結ぶ井伊藩お勧めルート
4.草津から大津へ向かう、北湖南湖の境界部横断ルート
5.東海道から勢田大橋を渡るルート(琵琶湖とは言えない)

この辺りになるでしょうか。
このうち、大津近辺の話はすでにでているので、1の比重が大きいというのをうまくまとめてあるページが

ttp://www.koti.jp/marco/suiun.htm

ここは、本体の丸子船の話がとても興味深いです。

ttp://www.koti.jp/marco/guide_top.htm

にある、大津と塩津の船数の推移も参考になります。


>和船の構造

和船という言葉は、洋船との対語とし近代にできた言葉で、結構時代によって変化してます。
ヤフオクなんかで和船で検索すると、プラ製動力船が一杯でてきたりしますが、この場合、選首形態が水押し風にカーブして浅め幅広の船をさします。

歴史的な和船となると、木造非動力船になると思うのですが、これも、範囲が人によってまちまちです。狭く言うと、江戸時代の弁財(才)型と、類型の船に絞られたりしますが、まぁ、広く近世以前の船をまとめて和船として、典型例のみまとめます。

和船の起源は丸木舟で、縄文時代から20世紀初頭まで作られていたりするのですが、単材刳り船の場合、材や使いやすさから、平均して6m程度となります。
この場合、積載量が小さい、という点から、まず前後につなぐことが行われました。
有名所では、古事記に出てくる「枯野」というのがあります。

次いで、丸木を半分に割って、これを船底材に使う。さらに4分の1に割って、間に板をつないで使う。高さも欲しいので舷側に板をつなぐ、という準構造船に進化します。古墳時代の埴輪の船がわかりやすい例ですが、鎌倉時代位までの主流の舟はこれで、外洋船以外は絵巻物の船底部が丸木の様になっている場合がほとんどです。
有名所では、なにわの海の時空館の古代船「なみはや」

さらに帆を立てると転覆する、という点をクリアするために、船幅が広がり、丸木部分が抜けて、材が板だけで構成されるようになると構造船になるのですが、これの一番早いであろうという意見がある(^^;のが遣唐使船です。
遣唐使船は百済船に手を加えて利用したとされていて、やや和船とは言いがたい。

これが室町期辺りになると、大型の船は国産の構造船になっていくようです。
構造的な特徴は「棚板作り」
下から、根棚、中棚、上棚(サイズによってしばしば省かれる)という部材で構成され、前後の何箇所かに梁が入ります。
室町期までは、船首は箱型をしています。
船尾は基本箱型。室町末になると、外艫と言われる舵の保護部がつく船がでてきます。その前後で同時に船首部がとがった「水押し」構造が現れます。

ここで身も蓋もない言い方をすると、箱です。箱だけだとあまりに弱いので、何本か梁を入れます。
これに対して、ジャンクは、箱をいくつもつないだようなものです。一部壊れても沈まない。中国軍みたいな発想です。
西洋船は脊椎動物型。背骨の竜骨と肋材に板をはりつけていく。

細かい所言い出すときりがないのでこの辺で(十分細かい…さらに大津に関係ない)


>竜骨と帆船の定義

これはたんに訳者さんの思い込みで、これが通ると近代以前の和船のほとんどは帆船でなくなります。でも弁財船は初期を除いて基本帆走オンリー。帆走しかできないけど帆船じゃない…。
さらにタッキングは古代船のほとんどができないというかできても前に進みません。ていうか、遅い船でタッキング(上手回し)ってなに考えてんの…と。どうかんがえてもウェアリング(下手回し)でしょう。この説だと三角帆採用まで帆船がなかったことになってしまう。

竜骨は前後方向の強度の確保が圧倒的で、流体力学考えると、ローリングやリーウェイ防止は船型で十分にカバーできます。ちょっと竜骨が出っ張った逆Ω型の洋式帆船よりも、根棚の傾斜の急な弁財船の船底形の方がどうみてもローリングしにくい。

同様に訳してあるページを見せてもらってて、ウェアリング(下手回し)が誤解されてます。これ、英語ページ自体が怪しい。さすがうぃきぺクオリティ、洋の東西をとわず怪しさを含みます。

遣唐使船がたらい舟云々は暴言と言っていいでしょう。
というか、遣唐使船の船底部の構造をはっきり言い切れるなら、造船史で名をあげることができます。

ちなみに、遣唐使船関連で近年読んだ中で面白かったのは、上田勇氏の「遣唐使全航海」ですが、意外と外洋で沈んでいないことがわかります。この本によると、遣唐使船の難破は、「見栄張って必要以上に大きく作りすぎて座礁」という、これまた身も蓋もない…

投稿: tera2 | 2012年7月19日 (木) 00時05分

teraさん。新安沈船の情報ありがとうございます。芋蔓式に他の情報も得ることができました。

造船の基本的な設計思想の問題で、輸送目的とその費用対効果というマーケットの論理が支配するところやと思うんや>
今回調べてみると、竜骨に限らず一般的な判断は危険で、個別に見ていく必要があることを実感しました。
それと、日本の水中考古学者が、日本はアジアの中でも立ち後れていることを強く嘆いていてるのも驚きでした。

韓国の沈没船発掘に関しては
「韓国での発掘古木材の保存1~2」
ttp://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/10168127.html
ttp://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/10237275.html
が簡単に触れています。

新安沈船は日本に向かう途中に沈没した元の船です。
上のサイトで紹介されているもののうち雁鴨池船は新羅、木浦、莞島、羅州、群山(「郡山」は誤記)の三か所は高麗の船です。また中国山東半島の蓬莱市からも高麗船が発掘されています。
問題は珍島の船で、従来は中国福建省の船と考えられていたのですが、再調査の結果、2008年に船の構造や形態が鎌倉時代の丸木舟と似ていて、日本の船の可能性もあると発表されました。

まだ情報を消化できていないので、蓬莱船の中央日報の記事と羅州船の写真だけを紹介します。

高麗船に600年ぶり‘光’…中国で発掘
ttp://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=79337&servcode=400§code=400

千年の不思議をとどめた高麗時代の木船
ttp://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000237172
写真の下の説明文だけを訳しておきます。
1) 去る2004年春、羅州市松月洞栄山江で発見された羅州船の竜骨(長さ9.2メートル)の破片
2) 船の破片が発見された地点から正面に見る栄山浦。右手は羅州市内から栄山浦にかかる栄山大橋
3) 亀の背のように割れた木材の表面。腐った部分だけが割れたとされる
4) 木浦国立海洋遺物展示館で展示された高麗・朝鮮時代の運搬船の模型。羅州船と同じ様式の朝鮮船
5) 木材と木材をつなぐ木釘の穴
6) 船の底板と側面をつなぐL字型の湾曲木材(長さ5.6メートル)

tera2さん。詳しい説明ありがとうございます。和船の構造史のイメージがつかめました。

竜骨と帆船の定義>
wikiだけでなく、私が見た英語サイトの多くで同様の説明がされているので信じ込んでしまいました。誤解が拡大再生産されているのだと思います。
ちなみにwikiの語源の説明も怪しい。

丸子船>
琵琶湖環境科学研究センター
ttp://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3113kenkyureport/syoho_bi/12/12-18.pdf
丸子船の分布地図が掲載されています。

投稿: ddol | 2012年7月19日 (木) 20時50分

tera2さん、ddol さん、多くのリンク先の資料ありがとうございます。
楽しんで読ませて貰っています。

投稿: mino | 2012年7月20日 (金) 17時37分

NHKの清盛を見てて思いだしたんやけど、このころは、竜華越えが有名や。
大原から国道367を北上し、国道477とぶつかると琵琶湖方面へ。堅田にでます。
義朝が逃げたルートらしいし、逢坂とならんで京への鬼気の侵入を防ぐ四堺(境)祭のポイントです。

この国道367は、おおよそ「鯖街道」で若狭への主要ルート。また、長坂口から周山街道京見峠を越えて若狭のルートも有名。

進行中の船とは関係ない話しで申しわけないんやけど、背に荷物を担ぎ、往来してたんやろうね。

投稿: tera | 2012年7月21日 (土) 07時27分

補足です。いろいろとネットを探していると、京滋の山々を案内されている方のHPを発見。
山歩きをなさっている方は、さすがですわ^^
http://www1.ocn.ne.jp/~stsuhara/

鯖をかついだ道、木地師の道は、
http://www1.ocn.ne.jp/~stsuhara/kaidou04.htm

おいらも山歩きをしてみようかな^^

投稿: tera | 2012年7月22日 (日) 05時24分

teraさん、リンク先見ました。
単なる山歩きでは無い人々ですね。
最近、流行の中高年が単に山歩きをしているのとは異なり、学問的見地も含めての山歩きをしておられますね。

投稿: mino | 2012年7月22日 (日) 15時51分

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