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2012年9月14日 (金)

弘前(青森県弘前市)へ旅行(3) - 弘前城(1)

 

  弘前藩初代藩主の津軽為信は、当初は大浦城に拠って大浦為信として南部氏に臣従していました(大浦氏はもともとは南部氏の分家筋)。

しかし、小田原の役(1590年)に際しては、南部氏との駆け引きの中で、秀吉から4万5千石で本領安堵の朱印状を得ることに成功して、同時に大浦氏から津軽氏に改め、大浦城から堀越城に移り、さらに築城地を鷹岡(のちの弘前城)に選びます。

その間に関が原の戦い(1600年)では東軍に付き、戦後2000石の加増を受けてここに4万7千石で弘前藩が成立しました。

そして、津軽為信は1603年に鷹岡城(のちの弘前城)の築城に着手します。

しかし、為信自身は翌年(1604年)に京都で客死して築城は中断、築城が再開されたのは1609年で、第2代藩主の津軽信枚(のぶひら 信牧とも書く)の代にわずか1年1ヶ月でほぼ完成させました。

以後、弘前藩は初代津軽為信から12代に渡って明治維新まで津軽氏の支配するところとなりました。(Wikiより改変して)

 

  下の図は弘前市のホームページから拝借した弘前城図です。

Map

 

  そして、いつも引用させて頂いている「余湖くんのお城のページ」から。

Hirosakizu

 

  道路を挟んで市役所のある、お城の南側の追手門から城内に入ります。

  追手門(おうてもん)とも大手門(おおてもん)とも、お城によって呼び方は異なりますが、正門に当たります。

  ちなみに裏門は搦手門(からめてもん)。

Dsc01655

 

  正式名は三の丸追手門。

  上の図で分かるように内側は三の丸です。

Dsc01664

 

  弘前城で特徴的なのは、本丸を除いては石垣ではなく土塁が広範に用いられている事です。

  追手門の内側も外も土塁を用いて防御がされています。

Dsc01665

 

  追手門内側から。

Dsc01666_2

 

  左側は広場となっています。

Dsc01667

 

  お堀に突き当たって右側にある弘前城植物園。

Dsc01668

 

  植物園の入り口前から、お堀越しに二の丸の辰巳櫓(たつみやぐら)。

  現存櫓で国重文指定。

Dsc01670

 

  お堀沿いに西の端に行くと、やはり現存櫓で国重文指定の二の丸の未申櫓(ひつじさるやぐら)。

Dsc01677

 

  右が三の丸、左が二の丸。

  お堀を橋で渡り二の丸に入ります。

  お堀の奥は植物園。

Dsc01682

 

  橋を渡ると左に南内門があります。

  現存城門で国指定重文。

Dsc01683

 

  そして本丸の天守。

  現存12天守の内のひとつで、やはり国重文に指定されています。

Dsc01694

  撮影 2012/09/08

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コメント

今も現役なのかはわからないんやけど、北国という急行列車で青森に行き、滅茶苦茶しんどかった記憶があります^^;
青森は、函館にわたる連絡船の待ち時間で駅周辺を散策したこと、それからかなり後に岩木山にスキーにいったくらいしか縁がないです。関西からは遠いです^^;

前にコメントした九戸氏とは対称的に、津軽氏は、戦国の最終章にびっくりなほどうまく立ち回ったわけやね。それまで大名家ではなく、徳川政権発足のどさくさにまぎれて明治維新まで続く家をたてたのは、以前にふれた豊後森藩の久留島家しか知らないんやけれど、他にある?

投稿: tera | 2012年9月15日 (土) 06時19分

急行「きたぐに」は新潟行きの頃に、皆で白馬へ行きましたね。糸魚川から南小谷を経て白馬に入りました。

teraさんが乗車した頃は大阪~青森間の急行でしたが、後に大阪~新潟、新潟~青森等に分割されたりして、新潟より向こうは特急になったりとか、色々複雑な変遷を経て、私たちが乗った夜行急行の「きたぐに」も、今年の春には定期運行が終わりました。

大阪~青森間の昔の急行は、多分ボックス席だったと思うので、それは死にそうになりますね^^;


どさくさに紛れて大名家になったというのは思い付かないですけど、何故彼が大名になったの?とかいうのは沢山ありますね。
大和高取藩の植村家政も家光の代に旗本から大名に取り立てられたんですが、一体何の功績で?という話らしいです^^;

うまく立ち回った大名家では以前述べた、摂津有馬家。
潰されそうになったのに名物の茶器を差し出してなんとか生き延びた秀吉の九州征伐の際の秋月家とか。

こういうのを捜すと色々面白いですね。

それにしても津軽為信はうまく立ち回りましたね。その後、南部家との間は犬猿の仲になりましたが。

しかし、色々wikiなんか読んでみると、間違って南部側の工作が成功していたら、大崎、葛西氏のように領地没収等もあったらしいので、津軽としたら生きるか死ぬかの分かれ目にあったようです。

投稿: mino | 2012年9月15日 (土) 12時07分

秋月家の茶器は、花器だったかも。

投稿: mino | 2012年9月15日 (土) 12時12分

例の急行は「きたぐに」という名前だったのですか。確か大阪駅最北のホームから出発したと記憶しています。隠退は時代の流れなのでしょうね。
大阪駅周辺も随分変わったようですが、こちらではほとんど紹介してくれませんでした(遷都祭は完全にシカトでした)。駅前のビルは、偶然外国ドラマに登場して様子がわかりました。
最近は各地で駅の再開発が盛んみたいですね。

弘前城に関しては弘前市立図書館が「古文書で見る『弘前城あれこれ』」を公開しています。
ttp://www.hi-it.jp/~tosho/data/top/hirosakijo-arekore-4-1.pdf

ttp://www.hi-it.jp/~tosho/data/top/hirosakijo-arekore-4-4.pdf

秋月家の茶器は、花器だったかも。>
楢柴肩衝という茶器で、天下三肩衝と呼ばれるほどの名器だそうです。

投稿: ddol | 2012年9月18日 (火) 21時30分

弘前城に関する資料ありがとう^^ゆっくり読んでみます。

大阪駅周辺だけでなく、天王寺あたりもガラッと変わったということです。今度、関西へ行ったら寄ってみようと思ってます。

やはり茶器でしたね。これも有り難うございます^^・

白馬では色々なことがありましたね。特にTmr君事件^^;

投稿: mino | 2012年9月18日 (火) 22時38分

Tmr君事件>
ありましたね。白馬は裏にスキー場があったりしていい宿泊施設でした。少し前に風の噂で廃止されると聞いたのですが、まだ健在のようでHPもあります。

天王寺あたり>
「阿倍野はるかす」が日本一のビルになったというニュースは、なぜかこちらでも大きく報じられました。天王寺というより阿倍野界隈が再開発で変わってしまい、地上にあった古書店はなくなってしまいました。
阪和線沿線も大きく変貌しているのでしょうね。まあ大学も新しい図書館ができたりして、昔とは見違えるようになっているそうです。

投稿: ddol | 2012年9月20日 (木) 21時10分

急行「きたぐに」のことなど

>多分ボックス席

うんうんボックス席で、車窓を楽しんだのは最初だけ。その後は、どういう姿勢が楽かの闘いで、とても厳しかったような^^;

>糸魚川から南小谷を経て白馬に入りました。
>確か大阪駅最北のホームから出発したと記憶しています。

う~ん、この記憶がないんや。松本でよからぬことをしつつ、大町から白馬に入ったのは覚えてるんやけどね^^;

>特にTmr君事件

7~8年前のはなしやけど、医学部の寮生だったTyさんと五竜にスキーに行き、あの「山の家」に泊まったんや。夕食の後、オーナーさんとお酒を飲むことになり、大学の先生の話や「山の家」の存続が危うくなっていることとか当世の学生気質とかを肴に飲んでたわけです。けっこう飲んだころから、オーナーの昔話が。
酔っぱらって行方不明になった学生がいて、散々探し回ったあげく、近所の家に乱入していて、長年のオーナー経験の中で最も印象に残ってる、とのことでした^^;

それと大阪

>阪和線沿線も大きく変貌しているのでしょうね。

阿倍野界隈は、再開発が進み、すっかりきれいになってるんやけど、それより南側はまだまだ大阪の雰囲気を残してるよ。

投稿: tera | 2012年9月21日 (金) 06時17分

ddolさん>「あべのハルカス」って画像検索などすると、近鉄百貨店の跡なんですね。

teraさん>それより南側はまだまだ大阪の雰囲気を残してるよ>「じゃりん子チエ」の舞台と言われたあの町は(旭町でしたっけ?)微塵も無くなってるようですね。
あそこへは家庭教師で通ったことがあり、後に忙しくなってTmr君に譲ったことがあるんです。

「山の家」のオーナー>やはり^^;申し訳なかったですね。それから近所の家ではなくて、近くの宿泊施設で、宿泊していた体育系クラブの顧問の人を・・・^^;

投稿: mino | 2012年9月21日 (金) 18時02分

「あべのハルカス」は、阿倍野の近鉄百貨店のリニューアルなんや。建ててるところなんやけど、大阪で最も人口が減少すると予想されている南部のターミナルに日本一のビルとはね。近鉄は、太っ腹や^^;

旭町は、昔の面影まったくないです。今池にかけての長い曲がりくねったアーケード、なつかしいね。あの辺りは、「あべのキューズタウン」というのができ、「SHIBUYA 109」とかがはいったりして、けっこう人気らしいです(娘情報)。新世界も客層が様変わりしてるわ。
でも、じゃりん子チエの萩ノ茶屋辺りは、今もあんな感じやで。飛田百番もそれに飛田の遊郭もちゃんと残ってて、おねえちゃんいるで^^

萩ノ茶屋には、当時寮生(市職員で2部学生)で麻雀仲間やった○○君の酒屋がありました。どうしてるんやろね

投稿: tera | 2012年9月22日 (土) 05時44分

戦国の秋月家は、講談本も含め、話題いっぱいやね。黒田支配以後の秋月もいろいろあって、面白い土地やね

投稿: tera | 2012年9月22日 (土) 06時03分

じゃりん子チエの萩ノ茶屋辺りは>旭町では無かったんですね。
新世界も客層が様変わりしてる>去年か一昨年に訪れましたが、若いカップルや女性とか、チョッとビックリしました。
でも、その周囲は相変わらずのようですね^^;

秋月は2回行きましたが、どうしても土地勘が無いので、昔の道がどのようになっていたかなど、分からない事も多いです。
秋月家は江戸時代を大名として生き残ることができて、結構したたかでしたね。

講談本も含め、話題いっぱいやね。>この辺りはなにか面白い話はあるんですか?

投稿: mino | 2012年9月23日 (日) 00時38分

「あべのハルカス」>
「あべの」はひらがなだったんですね。建物に妙ちくりんなカタカナの名前をつける昨今、なかなかいい命名だと思います。

近鉄は、太っ腹や>
当初は上六に建てる予定だったように思います。それが阿倍野デパートの改築となったので、びっくりしました。記憶違いかな?
今も建築途中ですが、もう店舗が入って営業しているんですね。こちらだと水族館や美術館なども入るのですが、大阪ではあまり期待できませんね。

新世界>
テレビや雑誌がしきりに串カツを紹介したせいで、最近では新世界は串カツの町として知られていて、観光コースにもなっているそうです。10年ほど前に新世界から飛田のあたりを歩いたことがあります。「あべのキューズタウン」の関係でしょうか、飛田から阿倍野筋の斜面の中程はほぼ全滅でした。でも高速のあたりはよく残ったと思います。

投稿: ddol | 2012年9月25日 (火) 21時18分

ddol氏 でも高速のあたりはよく残ったと思います。>新世界の周囲や恵美須町あたりもあまり変わってはいないですね。
3年ぐらい前の私の目撃情報ですけど。新世界だけが別天地になったようでした。

しかし、新世界のあのコテコテ感はいかにも大阪、という感じでニヤニヤ感一杯でした。

投稿: mino | 2012年9月26日 (水) 16時21分

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受信: 2012年9月15日 (土) 08時48分

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