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2012年10月23日 (火)

四国 徳島へ旅行(7) - 蜂須賀家の徳島城跡(2)

 

  豊臣秀吉の家臣としては古参である蜂須賀正勝(【太閤記】(資料的には資料というよりも物語的)では二人の出会いが有名な場面としてある)は、幾多の戦いに従軍して、四国攻めでも重要な役割を果たして、秀吉から長宗我部氏の牽制をも担う意味も含めて阿波一国を与えられるも、正勝は辞退して替わりに嫡男の家政が譲り受けることになります。

こうして蜂須賀家政は徳島藩の藩祖となります。

阿波に入った家政は徳島城を築城して阿波支配の拠点としました。

そして家政の嫡男の至鎮(よししげ)は関が原の戦いで東軍に参加して阿波を安堵され、ここに徳島藩が成立して初代藩主となります。

ここは前回の記事で述べたところです。

その後、至鎮(よししげ)は大坂の陣(1615年)にも従軍して軍功を挙げ、淡路一国を加増され25万7千石の大藩となったことも述べました。

 

  余談ですが至鎮(よししげ)は病弱だったと言われ、1620年にわずか35歳で父家政に先立って死去しています。

至鎮は地元では名君の誉れ高い殿様です。

 

  徳島城博物館がまだ開館前だったので、城山に登ることにしました。

  博物館の西側、駅側に回りこみました。

Dsc03045

 

  こちらには藩祖の蜂須賀家政の像があります。

Dsc03047

 

  いつもの「余湖くんのお城のページ」からの引用です。

Tokusimatyo

 

  上の図と下の現在の図を見比べると、城山への登り口は現在は三ヶ所あって、二ヶ所は上の図で言う東坂口と西坂口です。

  私は東坂口から登って東二の丸を経て本丸、そして西二の丸、西三の丸から西坂口と下りる事にしました。

Dsc03050

 

  登り口は階段状になっています。

Dsc03052

 

  やがて石垣が見えてきます。

  東二の丸です。

Dsc03055

 

  東二の丸には天守がありました。

  創建当初の天守は取り壊されて、ここ東二の丸に御三階櫓を建てて天守としたそうですが、なぜこの場所に建てられたのかは不明だそうです。

Dsc03059

 

  東二の丸から眉山。

Dsc03057

 

  本丸の石垣が見えてきました。

Dsc03061

 

  本丸。

  かなり広い本丸だなあという印象です。

Dsc03063

 

  本丸内にある清玄坊神社。

  清玄坊は城山に祈祷所を建てていて、築城の際に立ち退きを求めても立ち退かなかったために謀殺したところ、蜂須賀家に変事が続出。

   これは祟りに違いないと悔い改め、坊を供養すると変事は止んだという、そういういわれのある神社です。

Dsc03066

 

  本丸図。

  東二の丸に御三階櫓が(一番右の建物)見えます。

Dsc03072

 

  ここからは北側に下りることができますが、ここからは下りませんでした。

Dsc03073

 

  本丸の西奥に進み弓櫓跡。

  ここを右下に下りていきます。

Dsc03075

 

  ここを下ります。

Dsc03076

Dsc03079

Dsc03080

 

  下りると西二の丸です。

Dsc03081

Dsc03082

 

  さらに石垣をみながら下ります。

Dsc03084

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  下りて西三の丸から振り返ります。

Dsc03089

 

  西三の丸。

  かなりの部分が徳島市水道城山配水池に改変されています。

Dsc03090

 

  西三の丸から下へ。

Dsc03091

 

  あとは階段状の下り口を下へ。

Dsc03093

 

  下りきったところに保存状態のかなり悪いSL。

Dsc03096

 

  蜂須賀家政の像の裏手あたりから。

  向こう側にはNHK徳島放送局。

Dsc03098

 

  徳島城博物館に戻って入館します。

Dsc03042

  撮影 2012/10/13

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コメント

吉野川を遡ると、藍染と「うだつの町」で有名な脇町があります。商家の説明を読むと、何代当主は、囲碁の研鑽のため江戸に留学、といったようなことが記されてます。
芸事で跡取りを留学させるとは。この町の往時の賑わいをしのばせる話やね。それに、ここも北前船ルートやなあと。
司馬さんの「胡蝶の夢の」の主人公の一人、佐渡の伊之助(司馬凌海)を思い出しました。

蜂須賀家が阿波に入った頃、この町を整備したのが、稲田植元。
稲田は、正勝以来蜂須賀家で特別な存在で、代々淡路島の洲本城主なんやけど、明治維新まで脇町に所領をもってたとのこと。植元のお墓もこの町にあります。

でも、稲田家をいちやく有名にしたのは、明治維新の際の「稲田騒動」。兵庫県は、一番旧国が重なりあわせた県らしいけど、淡路島が兵庫県に編入されたのは、この事件が一因という話も(播磨国とかは、神戸港整備のための財源確保のためとのこと)。
古くは、船山馨の小説「お登勢 」。また、吉永小百合さんが出てた映画「北の零年」やね。

投稿: tera | 2012年10月24日 (水) 06時17分

稲田家の話。
思い出したのは尾張岩倉城の城代家伊勢守織田氏の家老の稲田大炊助、この人の子が稲田植元でした。
大炊助は信長の尾張統一戦でしばしば岩倉方の武将として出てきます。

蜂須賀至鎮(よししげ)を名君と書きましたが、その成果のひとつである藍染は稲田氏のおかげだったんですね。
稲田騒動も調べてみましたが、独立性の強い家臣ですね。
独立性の強さという意味では細川家の家臣、八代城主の松井氏や伊達家の家臣で白石城主の片倉氏を思い出します。

今回、脇町や土柱などの観光も考えたのですが、徒歩旅行者の必需品であるバス路線がほぼ全滅状態になってました。
穴吹駅から歩くと地図からの目勘定で4Kmぐらいはあるようですし、しかもレンタサイクルも無く(脇町内にはある模様)、さすがに諦めました。

投稿: mino | 2012年10月24日 (水) 16時02分

「稲田騒動」は当時の混乱が表現されていて面白いですね。
ネットで見かける蜂須賀正勝と稲田植元の関係が遠因という説は単純だという気がします。同じ稲田家でも、洲本と脇町では社会に対する意識が違っていた可能性が指摘されたりしています。

茂韶が斬刑を切腹刑にするために奔走し、臣下がそれを謝して死んでいくというのは、家に対する意識の強さなのでしょう。
でも切腹というのはちょっとわかりません。剣で突き刺すというのなら西洋でもありますが、なぜわざわざ切る必要があるのかが不思議です。大陸もそうだろうと思いますが、半島では服毒(賜薬)が一般的で制度化されていたようです。

あと、稲田邦植が当時16歳で周囲から幼いと言われていたのは新鮮です。

投稿: ddol | 2012年10月27日 (土) 21時31分

minoさん
>徒歩旅行者の必需品であるバス路線がほぼ全滅状態になってました。
え~、そうなんや。脇町は、平日に行ったにもかかわらず、結構たくさんの観光客がいましたよ。みんな観光バスや自家用車なんかな。土柱も見にいきましたよ^^

藍住町に行ったんやったら、「藍の館」には行かなかったの?

ddolさん
切腹は興味深いね。「敵の辱めを受ける前に自裁する」という感情が、なんで腹を切ることに形式化され公定化されたんやろ。普通、首とか胸とかでよさそうやし。お腹は、痛いやろなあ^^;

稲田騒動について興味をもったのは、独立色の強い稲田家がなかなか立藩できず、結局北海道にいってしまうことなんや。
当時、「維新立藩政策」のもとに、例えば紀州藩でも独立色の強い田辺の安藤家とか新宮の水野家とかが独立した藩に。それに比べ蜂須賀家中は、根深いものがある感じがしてね^^
まあ、テレビで「北の零年」を見て思った感想なんやけどね。

>稲田邦植が当時16歳で周囲から幼いと言われていたのは新鮮です。
とは、なんで?

投稿: tera | 2012年10月28日 (日) 06時03分

teraさん >稲田邦植が当時16歳で周囲から幼いと言われていたのは新鮮です。とは、なんで?>
昔は15歳で元服して、もう大人でしたから、16歳で幼いと言うのはよくない言葉ですが、現在でしたら16歳で幼いといわれるのは普通、というような意味で、現在の年齢に対する考え方が昔とは異なるということに、ddolさんは新鮮という言葉を使ったんではないでしょうか。
あくまで推測です。

私も、昔の武士の時代の人々の年齢について考えたことがありますが、女性の婚期は現在よりはかなり早婚ですし、全般的に大人扱いが早いですよね。寿命の短い時代だからこそなのですが。

勝手に斟酌して申し訳ありませんでした。ddolさん、あとはよろしくお願いします。

「藍の館」行きませんでした^^;

投稿: mino | 2012年10月28日 (日) 08時41分

なお、音楽ブログ始めました。見ても見なくてもどちらでも良いです^^;

ttp://kano-tokai.cocolog-nifty.com/

投稿: mino | 2012年10月28日 (日) 08時53分

稲田邦植が当時16歳で周囲から幼いと言われていたのは新鮮です。とは、なんで?>
minoさんが代弁して下さいました。ブライト・ノアが確か18歳という設定だったなということも頭をよぎりました。
調べてみると、9世紀イングランドで21で即位した王が幼過ぎて不安だと見られていたという事例もあったので、16では不思議ではないですね。

蜂須賀家中は、根深いものがある感じがしてね>
稲田家側が無抵抗を貫いたのはこういった事情も一因なんでしょうね。

投稿: ddol | 2012年10月29日 (月) 20時42分

音楽ブログ、閉鎖しました^^;せっかくコメント頂いたのに御免なさい。

投稿: mino | 2012年11月 2日 (金) 03時58分

幼い話、了解です。このあたりの話は興味があり、つっこみをいれたんや^^

江戸後期の平均寿命は、だいたい現在の半分の40歳位らしいんやけど。6歳までで3割弱が、16歳までに5割弱が死にます。「子供」の死亡率がとても高く、平均寿命を押し下げたんや。満5歳を超えることはとても厳しく、七五三のお祝いは、切実だったなんやろね。
それをクリアすると、平均以上に頑強な命ということで、20歳の平均余命は35~40に。つまり60歳位までは生きる。ただし、女子は出産リスクが厳しく、現在とは反対に20歳以上の平均余命は低い(以上、鬼頭宏、人口から読む日本の歴史、講談社学術文庫)。

親が早死にすると、当然「子供」でも跡を継ぐんやけど、例えば高杉晋作みたいに、親が元気で家を継げずに「書生」のままで死んでしまう場合もある。
邦植は、満10歳の時に家をついて、「稲田騒動」の時でも15,6。これは、「幼い」かなと。

でも、鎮西八郎為朝は、13の時から鎮西総追捕使を自称し九州で暴れまくったという話で、なんと15歳で京への出頭の宣旨が出たとのこと。すごいね^^

琉球王朝始祖伝説の為朝は、史上初の切腹をした人との話も。
常軌を逸した所作、非業の死、伝説化という流れと、切腹がひっつくところが、ちょっと興味深く思いました。

>音楽ブログ、閉鎖しました^^;せっかくコメント頂いたのに御免なさい。

え~、それは残念。なんで?。

投稿: tera | 2012年11月 3日 (土) 04時39分

為朝は、史上初の切腹をした人との話も>へぇ~!そうなんだ。
そう云えば切腹って、自死にはなり得ないんだけど(結局は介錯が必要)、何故あんな様式ができたんでしょうね。また、調べてみます。

「子供」の死亡率がとても高く>一夫多妻制ってそんな所から?
七五三のお祝いは、切実だったなんやろね。>なるほど。子供を生き抜くって大変な時代だったんですね。

うちの祖父は50代で亡くなったらしいんですけど、今で言う胃潰瘍だったらしくて、明治、大正でもそんな病気で死ぬんだから、昔はちょっとした事で命を落としてしまう。兄は20代で胃潰瘍、私は10代で虫垂炎、昔ならとっくに死んでますね。

>音楽ブログ、閉鎖しました>考えるのが面倒くさくなって^^;

投稿: mino | 2012年11月 4日 (日) 02時08分

音楽ブログ、閉鎖しました>
色々準備なさったでしょうに、もったいないです。

切腹>
あまりわかっていないようですね。外国のサイトでは儀式と捉えているものが多いようです。江戸時代には切腹の真似をして実際には介錯によって殺してもらうことも多かったようなので、そういう理解なのかも知れません。
切腹に限らず東アジアでは自分の意志で死ぬことが名誉だと見なされていたように思います。

為朝は、史上初の切腹をした人との話も>
「話も」と書かれているように確実視されているわけではないようですね。ちなみにWikiは、S.R.Turnbullの"The Samurai: A Military History'を典拠として源頼政が最初だとしていました。

鎮西八郎為朝は、13の時から鎮西総追捕使を自称し九州で暴れまくったという話で、なんと15歳で京への出頭の宣旨が出たとのこと。すごいね^^>
環境次第で早熟するということなんでしょうか。中部アフリカでは15歳前後の子供が子供軍を率いて村を襲ったなんて話も聞きました。

江戸後期の平均寿命>
子供を生き抜くって大変な時代だったんですね。>
一般論で言うと、現在の貧困地域がこんな感じではないでしょうか。

投稿: ddol | 2012年11月 5日 (月) 21時39分

切腹は、腹をかき切り腸をつかみだすという、身体的におよそありえない行為(と意志)が伝説化されるんやないやろか。一方、介錯の一般化は、身分秩序における「正統化」なんやないかな。

>源頼政が最初だとしていました。
そうなんや。NHK清盛で、そのあたりがでてくるかなあ。楽しみや^^
摂津源氏は、邪を祓う職能としての武家の代表といわれてるし、なにかと伝説の多い一族やから、切腹伝説との関連、面白いね。
鎮西八郎為朝は、生きのびて琉球王朝の始祖になるんやから、切腹は嘘やろ^^

子供の死亡
>昔ならとっくに死んでますね。
おいらも、十二指腸潰瘍で30位で死んでわ^^;

>現在の貧困地域がこんな感じではないでしょうか
乳幼児死亡率は、だいぶん前に調べたことがあるんやけど、南部アフリカ、イラク・アフガン辺りがとても高かったような記憶が。前者はエイズ、後者は戦争。
とりわけ目立ったのは、アフリカ西海岸のシエラレオネ。ここは300‰を越えていた。少年兵登場の映画「ブラッド・ダイアモンド」です。

投稿: tera | 2012年11月 6日 (火) 06時45分

全体の議論を見ていると、我々にとって近世までは想像のつく時代ですけど、中世以前になるともう想像が困難なほどの異質性に覆われてますね。
どんなに知識を得ても、体感的にはもう分からないとい部分がありますね。

投稿: mino | 2012年11月 6日 (火) 17時09分

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