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2013年2月 7日 (木)

知多大草城跡(愛知県知多市)と大野城跡(愛知県常滑市)を訪れる(4) - 大野城跡(1)

 

  大草城跡から名鉄の大野町(おおのまち)駅に戻って、電車で一つ南の西ノ口駅へ向かい、そこから今度は大野城跡を訪れました。
当初は大草城から直接大野城まで歩くつもりでしたが、少し弱気の虫が出て西ノ口駅まで一駅だけを電車に乗って移動しました。

大野城については何回も書きますが、14世紀の半ばに隣国の三河の一色氏が勢力を知多半島に伸ばして、この地に大野城を築き、一帯を支配下に置きました。

一色氏は足利氏の一族で吉良荘一色(現、愛知県西尾市一色町)を本貫地とした家系で、室町時代には四職家の一つとして勢力を振るい、14世紀後半には丹後、三河、若狭守護とあわせて尾張国知多郡・海東郡の分郡守護職も手に入れています。

海東郡は現在の海部郡(あまぐん 愛知県)の東半分の地域で津島市などがその地に含まれます。

もともと海東郡は尾張守護の支配地ではなく幕府の御料地だったそうですが、後に尾張守護となった斯波氏はこの結果、知多郡と津島を含む海東の地は支配していなかったということになりますね。

この事実はある意味面白いです。

(追記 海東郡は永享4年(1432年)に一色氏から没収されて斯波氏に返されている)

 

  そんな一色氏も足利義教との争い、そして応仁の乱でさらに衰運して、その隙に乗じて知多半島に勢力を扶植したのが佐治氏と渥美半島の戸田氏で、佐治氏は一色氏に替わり大野城、内海を拠点として半島西部を掌握します。

知多の佐治氏の初代については諸説ありますが、ここでは一色氏に仕えた佐治宗貞が一色氏を追って大野城主となり、以降四代に渡り大野城を中心として支配したと書いておきます。

三代目の佐治信方(さじ のぶかた)は織田信長の妹のお犬の方を娶り、のち信長方として伊勢長島攻めに参戦して、わずか22歳で討ち死に(異説あり)。

四代目が佐治一成(かずなり)で、浅井長政と織田信長妹の市との間の三女の江(後、二代将軍秀忠と結婚、三代将軍家光の母)を娶るも、小牧・長久手の戦いでの家康への便宜が秀吉を怒らせ、大野を退去して、当時伊勢に所領をもっていた叔父にあたる織田信包(のぶかね 信長の弟 丹波柏原(かいばら)藩初代藩主)のもとに逃れました(織田長益(有楽斎)が大野城に入城して、大野城を廃して大草城を築城)。
そして信長と側室お鍋の方との娘であり、従妹にあたる於振を正室に迎えたと伝えられています。

こうして見ると、三代目の佐治信方(さじ のぶかた)以降は織田家の一門としての歩みですね。

  ちなみに、緒川の水野氏と共に佐治氏と戦った阿久比の坂部城主の久松家は(家康の母の於大の方の再稼先で、久松との間に得た三人の男子は家康とは異父兄弟で、久松松平家を名乗る。末弟の家系が伊予松山藩藩主家)一色家の庶流の子孫であるそうです。

 

  大野町駅。

Dsc06276

 

  大野町駅にて。

  中部国際空港行き普通3150系。

Dsc06286

 

  いつもの「余湖くんのお城のページ」から拝借。

  「余湖くんのお城のページ」

Oonotokonametyo

 

  西ノ口駅駅舎から見える大野城の模擬天守風展望台。

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  西ノ口駅。駅の東側に出ます。

  そのまま北に線路に沿って行き、踏切のある道路を右に折れてそのまま行くと国道155号線に出ます。

  左手がコンビニでさらに北に向かうと左手に駐車場を伴ったパチンコ店。

  その向かい側にCSKホール青海瑞雲殿という葬儀会館があります。

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  これがその葬儀会館。

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  お城が見えます。

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  建物の北の裏側に細い道があります。

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  年配の人が歩いて行く姿がありますが、私もこの後、この道を行きました。

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  葬儀会館を振り返ったところ。

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  上の大野城の図で、西に郭が段状に延びていますが、その谷側に道が付いているんだと思います。

Dsc06302

 

  住宅地まで道なりに登って来て、どこまで上に行けば?と思って振り返ったらこの案内板。

  下から上ってくる人のための案内板ではなく、さらに上の方にお城用の駐車場があるので、その人たちの為の案内板のようです。

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  振り返って分かるように山の上は住宅地となっています。

Dsc06308

 

  案内図の下の方に駐車場が描かれていますが、先ほどの国道155号線の信号のある「青海山団地西」交差点から山上の住宅地に上って行くと行けるようです。

  大野城で手に入れた地図には住宅地内の上り道路の途中に城への案内板があると記されています。

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  上記案内板から上へ。

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  突き当たって、右へ行くと反対側に抜けることができ、左へ行くとすぐトイレと遊具広場。

  こちらには展望台を下から桜を入れて写す撮影ポイントがあります。

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  左へ行きます。

  すぐにトイレと遊具広場があります。

Dsc06312

 

  そして、右に本丸への最後の階段があります。

  展望台も見えますね。

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  門が迎えてくれます。

Dsc06315

 

  大野城模擬天守風展望台。

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  北に大草城跡が望めます。展望台より。

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  撮影 2013/02/03

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コメント

知多の水野、渥美の戸田というイメージがあったんやけど、佐治氏はあまり知らなくて、とても面白かったです。

>斯波氏はこの結果、知多郡と津島を含む海東の地は支配していなかったということになりますね。この事実はある意味面白いです。

斯波が、伊勢湾水運の要所の一つである津島を支配してないということ、びっくりです。それで織田は、ここを狙ったんかな。
それと、一色はけっこう水運関係のいいところを掌握してるのに、いまいちに。得た金で遊びまくってたのかなあ^^これも興味深いです。

投稿: tera | 2013年2月 8日 (金) 06時08分

御免なさい。事実関係に誤りがありました(というか不足)。

海東郡は永享4年(1432年)一色氏から没収されて斯波氏に返されていると述べている人がいました。
他人のブログやホームページを信用するのは危険なんですが、この事実も本当なのかは確認できません。
このあたりは、様々なブログや関係ホームページを参考にしてはいるのですが、何といっても一次資料で検証することは、ほぼ不可能なので・・・。

それで織田は、ここを狙ったんかな。>ここの所、teraさんと同じように私も推測しました。同じ考えで織田の津島獲得を海東郡一色氏支配を根拠として述べているブログがありましたが、海東郡が斯波氏に返されているという事になれば、前提である事実関係が崩れているのでこの考えは成立しませんね。
織田弾正忠家が津島を押さえるのが信長の祖父の信定時代ですから、時代的にはこれが理由とは為りにくいと思われますが・・・。
信秀の生誕が1510年ごろですしね。

信長が勢力を伸ばしてくる以前は佐治、水野は知多半島を二分して戦っています。
九鬼に志摩を追われた千賀氏も佐治の家臣となり、師崎の羽豆崎城の陣代として赴任したのが師崎の千賀氏の始まりで、もともと半島南東部(河和(こうわ)から師崎にかけて)は戸田氏が渥美半島から進出して勢力を扶植した地域で、佐治と戸田は羽豆崎城に共同で陣代を置くことで妥協をしています。
千賀氏は最終的には江戸時代に尾張藩の船手組として1500石で師崎に屋敷を構えて仕えたということです。
このあたりはご存知かもしれませんが。

投稿: mino | 2013年2月 8日 (金) 13時35分

なるほどなあ。伊勢湾関係は中世のホットな地域あることは間違いないので、誰か面白い小説を書いてほしい^^

それで、伊勢加藤氏の話
「源平合戦」の頃の話やけど、伊勢加藤氏は、伊勢平氏の圧力に耐え切れず、伊豆に移住。その後、頼朝の挙兵に加わり山木兼隆(北条政子のフィアンセね)の首をとったことから、有力な鎌倉御家人に。この話も、伊勢湾と関東とのつながりを。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%AF%E5%BB%89

以前書いた、熱田の大商人・加藤家は、この一流を称していて、他にも美濃の「遠山の金さん」とか加藤嘉明・加藤清正も連なるらしいです。

投稿: tera | 2013年2月 9日 (土) 06時55分

なるほど。遠山氏も子孫なんですね。
愛知県では加藤姓が確かに多い気がしますが・・。

以前、teraさんが指摘していたのは熱田の加藤でしたか。
あの時は三河の加藤氏という指摘を受けて少し調べましたが、三河加藤氏→美濃へ、遠山、美濃加藤(光秦系加藤)という結果を得たんですが、その前に伊勢→関東とい流れがあったんですね。


なんとなく、部分部分が繋がっていって、なかなか興味が尽きない話ですね^^。

投稿: mino | 2013年2月 9日 (土) 09時31分

そう云えば、九鬼に追われた水軍衆も関東の水軍として活躍していますね。思い出しました。
なぜに皆関東へ?という気がしますが。

投稿: mino | 2013年2月 9日 (土) 09時34分

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