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2013年3月16日 (土)

山家(やまが)城址(谷氏13代の山家藩)を訪れる(1) - 京都府綾部市

 

  現在は綾部市に属する山家藩谷氏1万石の山家城址を訪れました。

現在の綾部市は旧丹波国何鹿郡(いかるがぐん)の大部分を占め、江戸時代の綾部藩(九鬼家2万石)、旗本藤懸家上林(かんばやし)領(4千余石)、そしてこの日訪れた山家藩(谷家1万石)から成っています。

 

  山家藩祖の谷 衛友(たに もりとも)の父である谷 衛好(たに もりよし)は美濃の斎藤道三、龍興に仕え、美濃斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えました。

その後、信長に中国方面の司令官である羽柴秀吉の与力を命ぜられ、その三木城攻めの際、子の衛友(もりとも)とともに三木城に対する付城を守っているところを別所勢に攻撃され父の谷衛好(たに もりよし)は討ち死に。

ここに家督は衛友(もりとも)が継ぎます。

 

  本能寺での信長の死後(1582年)、さらに明智光秀の死後の1582年に衛友(もりとも)は山家に1万6千石で封ぜられます。

その後は豊臣秀吉に従い賤ヶ岳の戦い(天正11年1583年)、小牧・長久手の戦い(天正12年1584年)、小田原征伐(天正18年1590年)、朝鮮出兵等主要な戦いに参加しました。

 

  そして、秀吉亡き後の1600年の関が原の戦いでは西軍に属して福知山城主小野木重勝、上林(かんばやし)の藤懸永勝、丹波亀山城主前田茂勝(前田玄以の子)ら丹波、但馬を中心とした諸大名の1万5千の兵とともに谷 衛友(もりとも)は細川 幽斎 / 細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい / ほそかわ ふじたか)が籠城する丹後田辺城(現在の西舞鶴 田辺城の守備兵は細川忠興が本体を率いて家康軍に参加していて500ぐらいだった)を攻撃。

しかし、藤懸は細川とは旧知で、谷も細川は歌道の師匠で戦う意思を見せず逆に徳川家の本多正純と通じていたといわれています。

田辺城の戦いは、朝廷が歌道の奥義を託された古今伝授の継承者である細川幽斎の討ち死にを恐れて斡旋に乗り出し、細川幽斎は勅命ということで開城して、戦いは局地的には西軍の勝利となりました。

この戦いは大津城の京極高次の籠城戦と同じく本戦から兵力を割かせたという意味で、1万5千の兵力を田辺城に釘付けにさせ、開城は関が原の本戦の二日前でした。

戦後(田辺城の戦い)、谷衛友(もりとも)は小野木(福知山城主)を攻撃して東軍に内応し、関が原の戦いのあと、細川や本多正純の仲介で谷衛友(もりとも)は本領を安堵され、ここに谷家山家藩(山家藩)1万6千石が成立します。

こうして谷氏は13代、明治維新まで山家藩を治めました。

 

  ちなみに上林(かんばやし)の藤懸氏も後には(子の永重から)旗本(4000石余)として上林領を安堵された形で(関が原の戦い時は1万3千石を領していた)明治まで上林領を治めます。

山家藩主2代目の衛政(もりまさ)の代に弟三人(梅迫谷氏1500石、上杉谷氏2500石、十倉谷氏2000石)に6000石が分知され、それぞれは旗本に列し、以後、本家の山家藩(やまがはん)は1万石の大名として明治に到ります。

 

  前日に所用があり、福知山で一泊して午前中に福知山発園部行き普通223系で山家駅に到着。

  山家駅では1分停車のようで、写真を撮る事ができました。

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  駅前にあった「やまが散策マップ」。

  後ろに道路が見えますが左へ行くと山家橋、右へ行くと吊り橋の上原(かんばら)橋。

  山家城址へは吊り橋の上原橋の方へ行きます。

  山家橋の先には国道27号線との山家交差点から上林(かんばやし)から福井県小浜市に向かう府道1号線が分かれ、その付近に東山の古い町並や東山公園があります。

  帰りは山家交差点から山家橋を渡って山家駅に帰りましたが、東山は訪れませんでした。

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  簡素な山家駅(やまがえき)駅舎。

  無人であることはもちろん自動発券機もありません。

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  吊り橋の手前まで来ました。

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  上原(かんばら)橋。下は由良川です。

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  由良川に合流する上林川(かんばやしがわ)には国道27号線の肥後橋が架かっています。

  細川忠興が田辺から豊前に移封され、山家領内を通過する際に橋を上林川に架け、後に細川家は肥後の大名となったことから、この橋を地元の人が肥後橋と呼ぶようになったそうです。

  もちろん、現在のこの橋ではなく昔の名前を残したという事なのでしょう。

  細川家は洪水等での肥後橋の被害に対しては谷家を資金的に援助をしたということです。

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  由良川は丹波国の大河で丹波高地に源を発して南丹市から綾部市、福知山市を経て宮津市と舞鶴市の境界をなして若狭湾に注ぎます。

  下の写真は下流方向を。小さく山家大橋が見えます。

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  国道27号線の北側に来ました。

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  吊り橋の前に階段があります。

  徒歩旅行者にとっての山家城址への近道です。

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  上原(かんばら)橋を上から。

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  坂道を振り返ったところ。

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  坂道途中には石垣が残っています。

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  やがて、道路に。

  車の人は東側から迂回してここに登ってきます。

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  山家城址公園にある観梅苑の梅と山家陣屋の模擬陣屋門。

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  観梅苑の梅。

  東屋(あずまや)形式の休憩所が中央にあります。

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  模擬陣屋門の右手に伊也神社への上り口があります。

  この上の山が山家(やまが)城(甲ヶ峯城)跡で、関ヶ原の戦いの後に本領安堵を得て、山城を廃して山麓に陣屋を設けました。

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  山家藩模擬陣屋門。

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  撮影 2013/03/15

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