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2013年4月27日 (土)

遠江 横須賀城跡を訪れる(1)2013年3月下旬 - 静岡県掛川市

 

  3月の下旬に日帰りの桜旅行として掛川城を訪れましたが、その後、掛川駅から袋井駅へ西に戻り、袋井駅前からバスで横須賀城跡を訪れました。

横須賀城は徳川家康が武田方の高天神城に対する備えとして築城された六ケ所の付城のうちで中心的な役割を担い、家康が大須賀康高に命じて築城させた城です。

 

  1560年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると子の氏真が跡を継ぐも、その領地である駿河、遠江、三河は徳川家康と武田信玄に挟撃されて次々と失地し、1568年には武田軍の駿河侵攻で駿府を落とされ、最後の拠点である朝比奈泰朝が城主であった掛川城に逃げるも、翌年1569年には掛川城を徳川家康の家臣石川家成に明け渡し、掛川城主朝比奈泰朝等とともに小田原に退去して、ここに戦国大名としての今川氏は滅亡しました。

 

  徳川家と武田家は今川領侵攻では遠江と駿河の境界である大井川を境に分割することを約束していたものの、その後はいわゆる手切れ状態となり、遠江は徳川・武田の角逐の場となります。
武田信玄は1571年には高天神城を攻めるも落ちず、ここはすぐに撤退しています。

そして1572年に武田信玄は三河、遠江に大挙侵攻、家康方の城は次々と寝返り、もしくは落城して止どめは三方ヶ原の戦いでの徳川方の大敗北で、遠江の大半が武田領となり、翌年まで信玄の侵攻は続きました。

しかし、1573年には信玄の病により武田軍の侵攻は止み、信玄は病死、徳川方は奪われた城を回復します。

その後、武田家は勝頼の時代となり、1574年に遠江の要衝である高天神城を攻め、信長、家康の援軍の無いなか、ついに城主小笠原氏助は開城して武田家に臣従、大須賀康高らは浜松に逃されました。

当時の家康の本拠地である浜松まで約30kmの高天神城が武田方となったことは徳川方にとっては大変な脅威となりました。

 

  のちの1575年に武田勝頼は長篠の戦で信長・家康連合軍に敗北してその武威が落ち、家康は高天神城への備えと攻撃のために付城を築いて、上で述べたように横須賀城を大須賀康高に築かせ(1578年)、ついに1580年に家康は高天神城を攻め、城代の旧今川家臣であった岡部元信が激しく抗戦するも勝頼の援軍の無い中、翌1581年には岡部以下討ち死にで落城。

高天神城は落城後に廃城とされ、東海道沿いの掛川城と海路沿いの横須賀城がこの地域の軍事拠点となり、横須賀城主の大須賀康高は横須賀党と呼ばれる武士団を率いて、こののち家康の戦いには常に先鋒として参軍しました。

 

  この横須賀党は大須賀家が断絶して後、紀州徳川家の付家老である安藤家の与力(安藤家に力を貸す、つまり安藤家とは同格)として(田辺与力 安藤氏は紀伊田辺城城主)紀伊に赴きます。

しかし、1855年に与力身分であった横須賀党を安藤家の家臣とすることに決まるとこれに反発して浪人となるも、6年を経て長保寺住職海弁僧正の尽力により紀伊藩直臣としての再仕官が叶い、松阪城の城番として松阪に屋敷を与えられ、それが現在も松阪市に残る御城番屋敷です。

御城番屋敷は、現在ではそのうちの主屋2棟が重要文化財に指定され、松阪城跡とともに江戸時代の面影を残す観光スポットとなっています。

 

  袋井駅前。

  横須賀城跡へは袋井駅前から秋葉バスサービス(静岡鉄道の子会社)秋葉中遠線で横須賀車庫前行き、もしくは大東支所行きで所要20分、七軒町バス停か西田町バス停下車。

  袋井駅前~七軒町 450円。ほぼ1時間に2本運行されています。

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  七軒町バス停で降車して去っていくバス。

  左の草地が外堀跡です。

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  本丸跡にある横須賀城跡の模型。

  上の写真の草地が外堀跡、道路が下の模型の中土居道。

  模型では中土居道の外が入江となっていますが、1707年(宝永4年)の宝永大地震で入江が隆起して干上がり、以後、湊としての機能が失われてしまいました。

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  現在では海岸線までは2~2.5Kmぐらいの場所に城跡があります。

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  中央に赤色の文字が見えますがここから西の丸に上ります。

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  西の方角には二の丸が見えます。

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  左の階段から西の丸へ。

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  西の丸。

  垣根の向こうが本丸。

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  西の丸から復元された玉石垣を。

  珍しい造りの石垣で天竜川から運ばれた玉石でつくられていたそうです。

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  撮影 2013/03/26

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コメント

ものすごく遅れたコメントです^^:
というのは、横須賀党の話がでてきたので、中村豊秀氏の「幕末武士の失業と再就職」(中公新書)を読み直してたからなんや。最近、難しい本は、寝る前の睡眠薬代わりにしか読めないので、えらく時間がかかってしまいました^^;

ひょっとして、minoさんはこの本を読んでるんかな。こんなマイナーな話を知ってるとは、びっくりです^^
横須賀党はとてもラッキーで、幕末のどさくさと西条藩や徳川慶喜等が絡む中央政権と紀州藩権力の動揺をついて、帰参がかなうんやね。
横須賀党の子孫は、田辺でも和歌山でもなく、松阪に一番たくさん残ってられるとのこと。松阪のあのあたりはいいなあ。でも、う~ん、和歌山ゆかりの人ではないminoさんが、こんな話を^^

またまた関係ない話しやけど、紀州藩付家老の「新宮藩」。辻原登「許されざる者」(集英社文庫)という小説があります。大逆事件で処刑された大石誠之助らしき人物が主人公で、明治という時代を司馬遼太郎とは少し違った観点で描いていて、面白かったです。

投稿: tera | 2013年6月 3日 (月) 06時27分

minoさんはこの本を読んでるんかな。
<いいえ、全然知りませんでした^^;

横須賀党は松阪の観光名所である御城番屋敷を訪れて初めて知りました。
現在も数家の子孫がお住まいだそうです。
松阪城とともに御城番屋敷は三回ほど訪れていて、最近は横須賀党についての歴史がパネルで展示されています。
松阪城と御城番屋敷の記事を書く際にWikiやその他のインターネットの資料で横須賀党の歴史や再仕官を果たして松阪の御城番屋敷にやってきた過程を知ることができました。
紀州徳川家の菩提寺である長保寺(ここも3回ほど訪れています)の住職の斡旋で再仕官できたこともそれらで知りました。

また横須賀党の成り立ちもユニークで、横須賀城主の大須賀康高の家臣というよりも数人の与力とその他の浪人を康高に与えて横須賀城を守らせたことが横須賀党の始まりだそうです。
康高には譜代の家臣がいなかったか少なかったという事情があったと推測できますね。

このあたりのことは中村豊秀氏の「幕末武士の失業と再就職」(中公新書)に書かれているんですか?

横須賀城は摂津有馬氏の出世城でもありますから、大変関心があって一度訪れたいと思っていました。


実はこの記事は2回で完結なのですが、もう一つの続きの記事が遅くなってしまって、上げる機会を失ってしまいました^^:

またまた関係ない話しやけど、紀州藩付家老の「新宮藩」。辻原登「許されざる者」(集英社文庫)という小説
<実は付家老についてはかなり関心があります。
犬山の成瀬氏や紀伊田辺の安藤氏、新宮の水野氏の藩内における権限などはもう少し調べてみたいなあと・・・。
紀州藩の知識は皆無ですが、犬山の成瀬氏は尾張藩領である木曽谷を代官の山村氏を通じてかなりの裁量をもっていたようです。

あっ、大逆事件の話で時代が異なるんですね、関係ないというのはそちらですね^^;


話が戻りますが
>幕末のどさくさと西条藩や徳川慶喜等が絡む中央政権と紀州藩権力の動揺をついて、帰参がかなうんやね。<
このあたりは詳しくは知らなくて、初めて知りました^^


久しぶりにteraさんに本を紹介して貰ったので、ストックしてあるメモ帳に追加しておきます(^^。

投稿: mino | 2013年6月 3日 (月) 23時25分

>このあたりのことは中村豊秀氏の「幕末武士の失業と再就職」(中公新書)に書かれているんですか?
いや、あまり書いてはいないんや^^;
横須賀党に関しては、その出自も含めて資料を見つけられなかったとのこと。この本は、もっぱら田辺からの出奔と紀州藩への再就職を、詳細に記したものなんや。

ただ、与力という立ち位置がこの騒動の第一の背景とのこと。横須賀党は、紀州藩に直属する身分であり、安藤家の家来ではない。一方、安藤家は、その家来の禄高より多く与えているわりには何もしないのに偉そうにしとる。二百数十年にわたる両者の軋轢と鬱屈があったようです。

幕末の攘夷=海防の要請から、職制を統一し軍制を再編成したい安藤家。それは横須賀党にとって、権現様以来の身分を奪われることに。また、将軍家継承問題で、一橋派に対する南紀派(付家老の安藤や水野)が優位にたち、横須賀党は伝来の証文を出し反駁するも認められず、退去=浪人に。
その後、桜田門~徳川慶喜の権力掌握で、慶喜派の西条藩とつながる横須賀党は、再就職がかなう。
おまけがついてて、秩禄処分後の「武家の商法」で、横須賀党はまた苦境にたたされるんやけどね^^;

幕末のことを考えると、権力闘争の中では、なにがだれが「改革派」か「守旧派」なんか、ようわからんわ、というのがおいらの感想です^^;これは現在の政治情勢もね。

>実は付家老についてはかなり関心があります。
うんうん、おいらも関心大やで^^

投稿: tera | 2013年6月 9日 (日) 05時01分

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