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2013年8月23日 (金)

山形市内観光から その後(7) - 諏訪高島城(長野県諏訪市)(1) 上諏訪駅で最後の寄り道

 

  小淵沢駅始発の松本行きで塩尻へ向かう途中、最後の寄り道として上諏訪駅で途中下車、諏訪高島城を訪れました。

高島城へは以前にも訪れたことはあるのですが、久し振りに、と思い立ち下車しました。

 

  いつもの「余湖くんのお城のページ」からの引用図。リンク先はこちら。

Takasimajyo

 

  そして、GoogleMAPからの地図をリンクしてみました。

  駅前から諏訪1丁目の交差点を右へ折れました。

  黄色の道路ではなく駅からみてもう一つ手前の道路をお城に向かいました。

  +を押して拡大して見て下さい。


大きな地図で見る

 

  上諏訪駅構内にて。

Dsc00843

 

  表の東側へ出て、南方向に歩いて振り返ったところ。

Dsc00844

 

  すぐに踏み切りを渡ります。

Dsc00845

 

  渡り終えてすぐに遮断機が下り、EF64機関車が単機で駆け抜けていきました。

Dsc00846

 

  夏祭りの準備でしょうか、大きな提灯が並んでいます。

Dsc00849

 

  横道の商店街。

  帰りは向こう側からこちらを見ながら通り過ぎました。

Dsc00852

 

  高島城縄手の碑。

 

  高島城を築いた日根野氏は代々美濃斎藤家の家臣で、高吉の父弘就(ひろなり)は最後まで斎藤龍興に従い、織田信長に抵抗して稲葉山城落城後は浪人。

後、弘就(ひろなり)以下一族は今川氏真(うじざね)に仕えるも今川氏が滅び再び浪人。

以後、浅井長政に仕え、後、長島一向一揆に参加、長島が落ちた後、近江に住し、やっとその後に信長に降り、1575年の越前一向一揆では織田方として越前に攻め込んでいます。

実は、こんな風に見て来たように書いていますが、日根野家って一体稲葉山城落城後はどうしていたんだろうと、かなり前から気になっていた武将でした。

しかし、今回のこの碑で久し振りに日根野氏の名前を発見して、改めてWikiを参照にしている次第です。

 

  日根野高吉は秀吉の小田原攻めで功があり、諏訪高島に3万8千石(諸説あり)を拝領。

高島城を7年かけて築城しています。

日根野氏は高吉の子の吉明(下野壬生1万2000石)の代で嗣子無く、大名としての日根野氏は断絶(1656年)。

しかしながら、一族は旗本として存続したということです。(Wikiから参照)

  大阪の人は分かると思いますが和泉の日根(野)が発祥といいます。

美濃本田(ほんでん)城が本拠と言われていますが、現在の瑞穂市で樽見鉄道美江寺駅の東南東2kmぐらい、糸貫川畔の西側に城跡があります。

Dsc00853

 

  この広い通りは右に折れて細くなります。

Dsc00854

 

  さらに左に折れ、 一本目の小さな川を渡る頃にある説明板。

Dsc00856

 

  信州・諏訪の味噌蔵・丸高蔵。

Dsc00857

Dsc00858

 

  振り返って。

Dsc00860

 

  諏訪高島城天守。

  コンクリートですが、天守があるか無いかでは雲泥の差。

Dsc00861

  撮影 2013/07/21

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コメント

日根野弘就>
少し前に読んだ伊勢大湊に関する論文で触れられていました。
弘就は「日禰野」と自署しています。本貫についてはminoさんの記述通り九条家日根野荘というのが通説ですが、『新選美濃誌』は美濃石津郡五町村出身としています。
wikiには「弘就は大湊に船を出させて足弱衆(女や子供)などを運ばせていた」とありますが、「9月20日付けの塙直政の書状」の原文は「将又、日禰野、足弱を相送候舟の事さたのかきり曲事、無是非候、舟主共に急与可有御成敗旨」とあり、大湊衆が弘就と「足弱」を送ったことになっています。つまり、弘就は大湊に命令を出すような関係ではなかったということで、wikiの記述は大湊の自立性を過小評価していることになります。
細かいことですが、補足です。

投稿: ddol | 2013年8月24日 (土) 19時28分

日根野弘就とは、またマイナーな^^;おいらがこの武将を知ったのは、以前紹介した(かな^^;)作家、岩井三四二さんの小説。「逆ろうて候」(講談社文庫)。

この小説を読むまで、日野根氏は姉川の闘いに出てた記憶しかなくて、浅井の武将だと思ってました。斉藤家の家臣だったり、今川に仕えたり、長嶋一向一揆に関係したり、なんと徳川政権まで生き延びるんや。

岩井三四二三の小説。物語として面白いかと問われると、・・・^^;
でもね、主人公はとてもマイナーなんやけど、面白い人たちなんや。それに、美濃、尾張、三河、近江、伊勢の武将や土豪の話が多い。岐阜出身の小説家です。

投稿: tera | 2013年8月25日 (日) 04時22分

ddolさん、Wikiは確かに個人の主張や考えも混在していますから、取り扱いには慎重さが必要と実感しています。
例えば同じ事案に対して、異なる項目で比べてみると、その事実ですら異なっている場面があったりしますからね。
日根野氏は渡来系とも言われていますね。
しかし、大名の系図って殆どが江戸時代に作成されたもので、信頼できないとも言われていますし。。


teraさん、すっごいマイナーな武将ですけど、子は曲がりなりにも大名なんですよね^^;。
でも、大名になってることも知らなかったしなあ・・・。

岩井三四二三の小説。<アマゾンでは多くが中古本しか無いんですよね。

タイトルはどれも面白そうですが、誰が主人公なのかが分からない^^;
知ってる範囲でいいですから、もしよければ、暇なときでいいですから教えてくださいね^^。

投稿: mino | 2013年8月25日 (日) 18時40分

う~ん、めちゃマイナーやで。日根野弘就は、有名なほうや^^;

比較的有名人がでてくるのから紹介すると「あるじは信長」。信長に仕えた家臣たちの悲喜こもごもの話です。この短編集の主人公は、津島神社の神主や茶坊主とか。その中では、佐々兄弟が一番有名人かなあ^^;
岩井三四二三さんの作風がなんとなくわかる作品やと思うんやけど、文庫になってから読んでもいいかと。

美濃関係では、「村を助くは誰ぞ」。中島郡在住の土豪、伊佐治太郎右衛門。道三の馬廻り衆、長谷川新右衛門。厚見郡平田西荘の大百姓、次郎衛門など。研究者か地元の人以外は、まず知らないです^^;

他では、「一所懸命」の主人公は、道三vs義龍の時代の福光右京亮。あるいは、長島一向一揆を描いた「十楽の夢」の坂田弥三郎。

対抗馬は、だいぶん前のminoさんの奥琵琶湖・菅浦記事関係で、「月ノ浦惣庄公事置書」。これもマイナー^^;

投稿: tera | 2013年8月26日 (月) 06時08分

× 岩井三四二三
○ 岩井三四二
みなさん、結構コピペなんですね。

Wikiは確かに個人の主張や考えも混在していますから、取り扱いには慎重さが必要と実感しています。>
wikiに限らず、日本では専門家が積極的に発信する環境ではないので、誤記・誤解などが多いですね。

前回書き忘れましたが、一応論文名を記しておきます。
小島広次「伊勢大湊と小田政権」(『日本歴史』第372号 (1979年))
手元にあったものですから古いです。

投稿: ddol | 2013年8月26日 (月) 19時50分

お二人とも返事遅れて御免なさい。


teraさん、本当にめちゃマイナーですね。全員知らん!!

まあ、小説家って史書のたった一行の事実から、それを膨らまして一本の小説を書いてしまいますからね^^;

さっそくの紹介、ありがとうございます^^。


ddolさん、ddol←これもコピペです。いちいち打ち込むのが面倒くさくて^^;

Wikiは実に便利ですけど、それに安住してしまうのも良くないということですね。

論文名、ありがとう御座います。
昔の蔵書は引越しの際に殆ど売るか捨ててしまって、ほんの一部しか残っていません。
今思えば勿体無いことをしましたが、成り行き上仕方がなかったかなあ。。とも思っています。


投稿: mino | 2013年8月28日 (水) 07時35分

ddol←これもコピペです。いちいち打ち込むのが面倒くさくて^^;>
感覚の問題ですが、私はキーボード族で昔からマウスが苦手です。マウスに手を持って行くより打ち込んだ方が手っ取り早いという古い人間で、今でもキャラクタベースのコマンドを多用します。

昔の蔵書は引越しの際に殆ど売るか捨ててしまって、ほんの一部しか残っていません。>
今思えば勿体無いことをしましたが、成り行き上仕方がなかったかなあ。。とも思っています。>
もう歴史に関係することはないだろうと歴史の書物はほとんど処分してしまい、私も実家に送ってあったものが少し残っているくらいです。minoさんのブログを拝見するようになって後悔していますが、あったらあったで邪魔なので納得しています。
現在は'Repository'という形で論文を公開してくれている方が増えているので、昔よりは随分よくなっていると思います。
また中世史家の保立道久さんがブログでいろいろ発言してくれていて面白いです。
「保立道久の研究雑記」(hotatelog.cocolog-nifty.com)

投稿: ddol | 2013年8月28日 (水) 19時35分

うんうん、おいらもほぼコピーや。三四二さんと打ったつもりが「三四二三」になってたんやなあ。ごめんね^^;

岩井さんの小説は、資料・文献を多用しすぎるので直木賞がとれないという話もあるわ。それに、物語として面白いかは別やで^^;
歴史小説家は、現在の文献(歴史学の水準)という制約条件のもとで、どれだけ面白い話をかけるかということやからなあ。

WIKIに誤りがあるのは当たり前。そのベースとなってる研究者の論文も、同じやろ。
WIKIで変やと思うときは、WIKIの他の記事で指摘するし、論文でおかしいと思うときは、やはり他の論文でやればいいんやないかな。

投稿: tera | 2013年8月29日 (木) 05時13分

ddolさん、インターネットで情報を得るという意味では便利になりましたが、本からの知識というのは少し意味合いが異なるとは思うのですよね。

teraさん、

WIKIに誤りがあるのは当たり前。そのベースとなってる研究者の論文も、同じやろ。
WIKIで変やと思うときは、WIKIの他の記事で指摘するし、論文でおかしいと思うときは、やはり他の論文でやればいいんやないかな。
<まさに仰る通りです^^。

投稿: mino | 2013年8月29日 (木) 17時46分

インターネットで情報を得るという意味では便利になりましたが、本からの知識というのは少し意味合いが異なるとは思うのですよね。>
ネットでは長文が掲載しずらいので、どうしても凝縮された文章か略記になってしまい、論文のように思考の過程や筋道を追う楽しみがありません。書物には各部との調和や違和を感じながら全体を追いかけるという思考ゲームのような楽しみがありました。媒体によって読み方や感じ方が変わってくるのは音楽なんかと同じなんでしょうね。

wikiは分野や項目によってばらつきがあり、「マイナー」な項目はネットではwiki以外に頼る情報源がないことが多いですね。英語以外の西欧語圏ではwikiの比重は低いような印象があり、英語からの(抄)訳がとにかく多いです。ちなみにラテン語版は遊び心一杯で面白いです。

最後に諏訪高島城に少し関係する論文です。
陳春霞「城下町と伝馬役に関する一考察 -信濃国上諏訪町を素材として-」(『言語・地域文化研究』(東京外国語大学大学院) 第16号 (2010年))
repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/63919/2/lacs016027.pdf
伝馬役を論じる前に高島城について触れられていて、地図も掲載されています。

投稿: ddol | 2013年8月30日 (金) 19時18分

書物には各部との調和や違和を感じながら全体を追いかけるという思考ゲームのような楽しみがありました。
>なるほど。それでも、時代は変わるで、気にしない人々もいるんでしょうね。

最初に中国語があってチョッとびっくり。

伝馬役までの部分を読みましたが、村人が町人に包摂されていく部分に関しては新鮮な着眼点でした。
いい忘れましたが、高島城は別名浮城ともいい、図にもあるように周りが湖水で囲まれているんですね。

それから、諏訪氏が武田家に落とされたのは上原城でした、思い出しました^^・
いつも貴重な論文を捜しだして頂いて感謝しています^^。

投稿: mino | 2013年8月31日 (土) 19時53分

先週末、高知にいってました、岡豊城跡にある県立歴史民俗資料館。長宗我部氏関係の展示があって、面白かったです。「おかとよ」ではなく「おこう」と読むんや^^;

>インターネットで情報を得るという意味では便利になりましたが、本からの知識というのは少し意味合いが異なるとは思うのですよね。

たしかにね。本や論文は、物理的にも編集者や校閲者がチェックしてくれるからなあ(彼ら彼女らから教えらることも多いし)。
それに論文は、読者像がはっきりしてて(つまりその分野の研究者)、書く方もそれを意識するからうかつなことは書けない。身分やキャリアを意識するからね^^

一方、WIKIを含めネットの情報は、誤字・誤読がいっぱい^^;誰に対して発信してるのかが多様やし、それで地位や職が脅かされることもないので、内容は散漫やね。

でもね、たとえば20年前の研究者が編纂した「○○事典」とWIKIを比べると、どちらが優秀なんやろ。不特定多数がチェックする世界は、それはそれで凄まじい。

>論文のように思考の過程や筋道を追う楽しみがありません。

うんうん、確かにそうやわ。
おいらの場合、論文の結論とその根拠(出典や数字とか)だけしか見ない癖がついてしまって。いかんなあ^^;

投稿: tera | 2013年9月 5日 (木) 06時33分

おお~、岡豊城跡へ行って来たのですか。羨ましい。

徒歩旅行者にとっては、はなかなか行きにくい場所にありますからね。

長宗我部も高知に城を築きたかったようですが、治水、灌漑技術が無く、断念して岡豊城にという話を山内土佐入部と関連付けて何かで読んだか聞いたかした覚えがあります。

Wiki、ブログと専門家の書く文章で全く異なるのは、専門家の論文には命が(学者生命という)かかっていますから、真剣味が違いますよね^^。

投稿: mino | 2013年9月 5日 (木) 13時49分

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