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2013年10月16日 (水)

知多半島 「野間大坊(のまだいぼう)」を訪れ「名鉄のハイキング」に巻き込まれる(2) - 野間駅から「名鉄のハイキング」のハイカーと共にする(1) 磔の松から密蔵院

 

 

  さて、記事タイトルが大変長くなってしまいましたが、要するに「名鉄のハイキング」が催されていることを知らず、同じ駅で同じ目的場所(この場合 野間大坊)に、私がたまたま乗り合わせて来てしまったという事情です。

しかし、こういった鉄道各社が催している「ハイキング」は、普通の旅行者が知らない旧跡などをハイキングコースに盛り込んでいますから、大変便利ではあるのです。

 

  今回の「名鉄のハイキング」は目玉が「野間大坊(のまだいぼう)」で、それに当地で最後を遂げた源義朝(源頼朝の父で義朝は平治の乱(1160年)で敗れて当地に敗走してきた)関連の旧跡や近くのお寺等を組み合わせたコースが設定されていました。

歩く距離は6Kmぐらいの難易度が最も低いコース設定だったようです。

 

  野間大坊までは他のハイカーと共に歩きましたが、野間大坊からは元来た道を引き返し、野間駅から内海駅へと向かいました。

 

  河和線(こうわせん)から知多新線が分岐する富貴(ふき)駅にて。

  知多新線内海行き急行で野間駅へ向かいました。

Dsc01633

 

  知多半島西側に横断して伊勢湾。

Dsc01635

 

  野間駅に到着。

  一つ前の知多奥田駅がハイキングの帰りの駅で、そこで初めて「名鉄ハイキング」に巻き込まれたことに気づきました。

  日曜日とは言え、ハイキング姿の客が多いなあ、とは思いましたが。

Dsc01637_2

 

  乗車してきた急行は終点の内海駅へ。

  知多新線は1時間に3本の運行で、内わけは特急1本、急行1本、普通1本。

  知多新線内はすべて各駅停車となります。

Dsc01638

 

  無人駅ですが駅員さんも動員されて案内。

Dsc01641_2

Dsc01643

 

  右側の道路ではなくてあぜ道を歩いて行きます。

  チョッと感心しました。

Dsc01648

 

  野間大坊のある集落の中へ。

  行く先々に「名鉄のハイキング」の案内があります。

Dsc01649

 

  野間大坊駐車場のスタッフさん。

  ここがスタート受付地点です。

  地図だけちゃっかり頂きました。

Dsc01650_2

 

  すぐ先の十字路の右が野間大坊ですが、左へ道をとります。

  向こうにお寺の屋根が見えますが、左手から丘陵をつたってお寺に下りるコースです。

Dsc01732

 

  丘陵の左手方向。

Dsc01731

 

  ここから丘陵に登ります。

Dsc01651

Dsc01652

 

  これが「磔の松」。

  ハイキングを共にしなければ気づかず、野間大坊だけを見て帰ったと思います。

Dsc01653

 

  「磔の松」

 

  「天下を統一した源頼朝は建久元年上洛の途中野間に立ち寄り

  父義朝を殺した長田忠致景致父子を捕え

  この松にて磔(棒つきの刑)に処したと伝えられている

  以来当松は墓標の代わりとなっている」

        と記されています。

Dsc01655

Dsc01656

Dsc01657

 

  丘陵の道を行きます。

Dsc01661

 

  下に密蔵院の屋根が見えて、ここから階段で下ります。

  スタート受付地点から密蔵院までは600m。

  野間駅からスタート受付地点まで900mだそうです。

Dsc01662

 

  階段を下りると境内の中に下ります。

  これは一旦外へ出て、正面入り口の門。

Dsc01671

  撮影 2013/10/13

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コメント

>「天下を統一した源頼朝は建久元年上洛の途中野間に立ち寄り 父義朝を殺した長田忠致景致父子を捕え この松にて磔(棒つきの刑)に処したと伝えられている

すでにどこかでコメントしたかもしれないけどれも、江戸時代初期までの武士は、ひたすら冥い。とりわけ河内源氏系の暗さは格別なイメージがあります。呪術を担った宮廷武士は別として、暴力を生業としたほかの武士集団も似たり寄ったりやったんやろうけどね。
河内源氏は、「公的」感覚が著しく乏しく、ひたすら私怨の報復と他者の虐殺。一方で、他者への非道所業に対する同族間のリスクヘッジもできなくて、蛸が自分の足を食らうごとく親兄弟一族間の殺しあう。

元木泰雄、河内源氏、中公新書
野口実、武家の棟梁の条件、中央新書

小説では、
高橋直樹、霊鬼頼朝、文春文庫
高橋直樹、鎌倉擾乱、文春文庫

それでも、武士政権は「正史」を意識したか、「愚管抄」や「太平記」「明徳記」(微妙)を書くんやけど、それ以降は、中華の影響(古代における政権の正統性の根拠=文字による政権の正統性)をかなぐりすて、ひたすら暴力と美意識に。
おいらも戦国時代は好きなんやけど、多くの日本人のお気に入りが戦国なのは、なんでやろと思ったりもします^^;

ところが、それまでの暴力性を「体面」として抑え込み、江戸初期以降の武士は「士大夫」になっていく。「公的」感覚がしだいに強まり、暴力性は薄まったというか、自死による責任を担保し、ひたすら内面化する。

次の転機は幕末で、「書生」が国家天下を論じ、それなりの影響力(物理的にも精神的にも)を持てた時代。このラインは、明治から1970年代の学生運動の終焉まで続き、ひょっとするとオウムの自爆で止めを刺されたかという感じがします。

「書生」が国家天下を論じることが許された最後の時代を体験できたのかもしれませんね。

投稿: tera | 2013年10月21日 (月) 06時44分

とりわけ河内源氏系の暗さは格別なイメージがあります。
<なるほど。私も頼朝の暗さは異常だと思いました。
江戸期以前の武士に関しては分りませんが、鎌倉時代の北条家の他家への執拗な攻撃も鎌倉時代前期を暗くしていますね。

「書生」が国家天下を論じることが許された最後の時代を体験できたのかもしれませんね。
<う~ん、なるほどね。
そうすると、今の状況はどう捉えることができるんでしょうか?なかなか面白いですね。

投稿: mino | 2013年10月21日 (月) 18時56分

>鎌倉時代の北条家の他家への執拗な攻撃も鎌倉時代前期を暗くしていますね。
うんうん、同感や。前期は凄惨の一言で、霜月騒動なんかも含めて後半もけっこう暗い。
マーケットでいうとトレンドフォロー。弱みを見せるとよってたかってやられてしまう。一方、厚みのあるマーケットでは、「みんなが売る時がチャンス」と考える逆張り派もいるので、それなりに「均衡点」への回復もあるのやけれども。
鎌倉は、ひたすら「溺れた犬は棒で叩け」の感じがします^^;

>そうすると、今の状況はどう捉えることができるんでしょうか?
う~ん、どうなんやろね。
おいらが教えてる学生さんたちは、おとなしい子が多くて、礼儀も正しくて。
ただ、最近わりと多い質問の一つは「戦争になったら年金の保険料なんか払っても意味がなくなるのでは」。う~ん、「戦争」を意識してるんやと思う一方で、これは「天下国家を憂うる」ということなんかなあ。

投稿: tera | 2013年10月22日 (火) 05時43分

前期は凄惨の一言で、霜月騒動なんかも含めて後半もけっこう暗い。
>この凄惨さは日本だけではなくて、東洋も西洋もかなり酷いとは思うのですが、どうなんでしょうね?
鎌倉の小さくて陰湿なのとは少し違うかな?

宮城谷昌光さんの三国志を読んでると、まあ~よく人が死ぬ^^;

「天下国家を憂うる」
>でも、帰着が年金支払っても無駄云々ですから・・何と言ってよいやら^^;。

投稿: mino | 2013年10月22日 (火) 15時47分

>この凄惨さは日本だけではなくて、東洋も西洋もかなり酷いとは思うのですが、どうなんでしょうね?
なるほど!
このあたりの事情に詳しいddolさんやtera2さんに、教えてもらいたいね。

投稿: tera | 2013年10月23日 (水) 04時46分

このあたりの事情に詳しいddolさんやtera2さんに、教えてもらいたいね。
>ホントですね^^・事実関係すら余り知らないので・・。

投稿: mino | 2013年10月23日 (水) 20時20分

間があいてしまって申し訳ありません。
teraさん。いつも文献紹介ありがとうごさいます。

この数日間、元木泰雄「頼義と頼清 -河内源氏の分岐点-」(『立命館文学』 180号 (1960年))の出処を求めてサーフしていましたが、結局わからずじまいでした。著者が公開を取り消したのではないかと思われます。
この論文は、源頼信の子である頼義と頼清の経歴を分析し、早くに昇進して貴族社会で認められた弟頼清ではなく兄頼義が嫡流となったのは、頼義が「武門としての名声」を獲得し、強訴や反乱が頻発した社会の要求に答えたことであると結論付けています。
そして、頼義が桓武平氏嫡流の平直方の娘と結婚して、相模守に就任すると同時に直方の鎌倉の屋敷や相模の所領を継承したことをもって、「河内源氏を東国における夷狄討伐を担当する武門として確立させる時期」と述べています。

なるほど。私も頼朝の暗さは異常だと思いました。>
昔、頼朝の墓が家のそばだったこともあり、若干弁護しておきます。
古い話で記憶も正確かどうかあやしいですが、江戸・明治の文献に表れる頼朝像の研究を読んだことがあります。尊王思想とともに頼朝は残忍で冷酷な人物として描かれはじめ、明治期にそのイメージが定着した。これは院に侍った政治音痴、義経のイメージアップを伴って天皇制イデオロギーを支えたのだ、という内容だったと思います。
まあ物語に登場する清盛も効果のために歪曲されたりするのですから、イメージの土ならし作業の一つなのでしょう。
ただ、義経はそれ以前から悲劇的に描かれたりしているので、大幅な留保が必要かも知れません。

西欧の初期中世では、メロヴィング朝に対する後世のイメージがこれに該当します。トゥールのグレゴリウス『フランク史』にはメロヴィング王家の陰謀・暗殺の日々が記録され、猟奇好きの好物です。これもカロリングの王権簒奪を正当化するものだとされています。
バイキングの後は各地の王権が安定するので、それほど陰惨な記録はないでしょう。
凄惨さという意味では、手足を切り落として厠の代わりに使うとか、中国の記録にかなうものはないのではないでしょうか。個人的には『三国志演義』はぞっとします。

河内源氏や「凄惨さ」ということからは離れますが、
笠谷和比古「徳川家康の源氏改姓問題」(『日本研究』第16集 (1997年))(shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/582/1/nk16002.pdf)
という論文があります。
源氏改姓が「家康の征夷大将軍への志向」の表れであり、「豊臣関白政権の下に徳川将軍制を内包するような形での、権力の二重構造的な国制を構想していくものであったと推測される」との結論で、「源」姓が大きな権威を持っていたことを論証しています。
ただこの論文では「権力の二重構造的な国制」の説明が弱いように感じました。

投稿: ddol | 2013年10月24日 (木) 19時48分

ddolさん
頼義と頼清の話し。元木さんの「河内源氏」もそういう話やったわ。

>尊王思想とともに頼朝は残忍で冷酷な人物として描かれはじめ、明治期にそのイメージが定着した。これは院に侍った政治音痴、義経のイメージアップを伴って天皇制イデオロギーを支えたのだ、という内容だったと思います。

なるほど。明治以降、そういう操作が進んだんやなあ。
でもね、河内源氏の元の源経基から暗いよ^^;
頼義、義家・義光親子もね。
頼朝の所業(他者も同族・親子兄弟に対しても)。蛸が自分の足を食らって誰も残らないという感が強いわ。

頼朝と義経のイメージの最初は、「愚管抄」やろね。そのあたり北条のうまさと暗さは格別。

義経は、評価できない武将の一人なんやけど、当時の政治情勢の下で「政治音痴」といってしまうのは、少し酷な感じもするわ。京と鎌倉、まだこの時点ではどちらに転ぶかはわからない。

>個人的には『三国志演義』はぞっとします。
うんうん、「水滸伝」も凄惨やね。人肉を平気で喰らいよるし^^;

投稿: tera | 2013年10月25日 (金) 06時07分

ddolさん、 teraさん、どちらも読んでいないので、何とも申し上げられませんが、歴史は創られる可能性があるというのは心に留めておきたいです。

ddolさん、メロビング王朝はそんな一面があったんですね。

中国は何でもありの凄惨さ。歴史に関しては中国はある種の怖さがありますね。。

投稿: mino | 2013年10月25日 (金) 18時29分

前回のコメントの続きです。

>笠谷和比古、・・・権力の二重構造的な国制を構想
笠谷さんは、日本の主従関係は近世においても絶対的なものではなく主君は「神輿」みたいなもんや、という話しだったという記憶が。
儒教思想が建て前でしか流通しなかった(科挙すらやらん)日本では、その通りやなあと。

>権力の二重構造的な国制
家康は、「武家の棟梁」=源家を詐称しないと権力確立の建て前を得られないと思ったんやろうね。これは、信長も秀吉も同じやったと思います。だから権力奪取後は、宮廷の権威を厳しく抑制しようとする(「蜘蛛の糸」を切るがごとく、後に続く同じような構想を抱こうとする輩を許さない)。

でもとても不思議に思うのは、いつのまにか天皇家の権威が回復し、その意向を忖度しないと政府の政治方針を決められなくなく(幕末)。何が転機やったんやろか?

投稿: tera | 2013年10月26日 (土) 06時00分

遅くなりました。

>権力の二重構造的な国制
>なるほどね。面白いですね。

何が転機やったんやろか?
>ひょっとしたらですが、幕府を相対化する権力が表れたことではないでしょうか?

投稿: mino | 2013年10月28日 (月) 15時10分

私も遅くなりました。

笠谷さんは、日本の主従関係は近世においても絶対的なものではなく主君は「神輿」みたいなもんや、という話しだったという記憶が。>
秀吉は家康を利用価値があるので黙認したという記述だったので理解できなかったのですが、そういう背景があるのですね。

正史>
中国では易姓革命とセットであったという点で、日本とは大きな違いですね。王朝の史書というのは中国だけではないでしょうか。そもそも日本には「王朝」という観念があったのでしょうか。

明るい暗いということでは、太宰の「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という言葉が思い浮かびます。そういう意味では大阪は危ない。

投稿: ddol | 2013年10月28日 (月) 19時10分

そういう意味では大阪は危ない。
>う~む、そうですか。爛熟し頽廃しきった明るさという意味でしょうか。なるほどね。

投稿: mino | 2013年10月29日 (火) 15時43分

爛熟し頽廃しきった明るさという意味でしょうか。なるほどね。>
東京などと比較して活発で元気だという意味です。特にお年寄りが元気で、杖をついている人がほとんどいないのには驚きます。あと、小売店が頑張っている所なども明るく感じさせるのでしょう。現在の東京はこの逆だと思ってください。

投稿: ddol | 2013年10月29日 (火) 19時57分

現在の東京はこの逆だと思ってください。
>なるほど。なかなか東京のことは分らなくて・・・。
大阪も離れてから数年経ち、街の様子もすっかり忘れてしまいました^^;

投稿: mino | 2013年10月30日 (水) 16時01分

minoさん
>何が転機やったんやろか?
>>ひょっとしたらですが、幕府を相対化する権力が表れたことではないでしょうか?

相対化する権力が現れたのは、どの時点やと思います?

>太宰の「アカルサハ、ホロビノ姿」
なるほど、それがあったなあ。『実朝』か^^

記憶にある太宰のこのフレーズは、戦争を期待し熱狂的に支持する多くの人々=社会全体の奇妙な「明るさ」に対してやったんやないかな。

この時期の太宰は、故郷からも実家からも疎まれているとの意識が強い。実生活では、勘当された実家の支援(生活費やら心中事件なんかの後始末も)に頼らざるをえない。津軽の言葉の「オズカス」状態なんや。一方、小説家としてそれなりに成功してるという自負もあり故郷に錦の御旗をたてたいんやけど、そのために切望した賞もとれず。『津軽』の頃やね。
生活の暗さや閉塞感。一点突破全面展開しえるのは、戦争。という人々の希いと太宰のそれがシンクロした感じがします。でも、太宰はインテリやから、醒めて(他者から自分をみてしまう性癖)が「アカルサ」か、というのは少し酷かな^^

捨ててきたはずの故郷と捨てられない望郷。漱石、啄木、太宰、寺山修司など。継承したのは誰なんやろうか。

投稿: tera | 2013年11月 3日 (日) 05時15分

相対化する権力が現れたのは、どの時点やと思います?
<かなり専門的になると思うので、私の知識ではよく判りません^^;

ただ、歴史的にみて幕末だけではありませんね。
鎌倉末期の状況などもよく似ているのでは。

投稿: mino | 2013年11月 3日 (日) 17時00分

かなり専門的になると思うので、私の知識ではよく判りません^^;>
鎌倉末期の状況などもよく似ているのでは。>
同感です。

記憶にある太宰のこのフレーズは、戦争を期待し熱狂的に支持する多くの人々=社会全体の奇妙な「明るさ」に対してやったんやないかな。>
おっしゃる通りでした。そういう意味も含めて、東から見るとやはり大阪は「アカルイ」と感じます。東京は今も五輪に大反対だそうです。

漱石、啄木、太宰、寺山修司など。継承したのは誰なんやろうか。>
啄木と寺山はまったく知りませんが、なんか太宰ファンと寺山ファンは仲がいいことが多かったような印象です。

どうでもいい話ですが、今日の「モヤさま」は太宰の三鷹を扱っていて、それとなく太宰にちなんだ場所が登場していました。よく見知った場所でもテレビを通して見るとまったく違った風に見えるものですね。

投稿: ddol | 2013年11月 3日 (日) 20時30分

東京は今も五輪に大反対だそうです。
>そうなんですか?五輪、面白いと思うんですが。
2002年のワールドカップは凄く良かったし。

前回の東京オリンピックは国威発揚の部分が大きかったのですが、今回は2002年のワールドカップと同じように楽しめるオリンピックになると思いますよ。


「モヤさま」>サマーズがまだ売れる前、同じような企画の街歩きを名古屋のTV局でやってましたね。
かなりいい加減な番組でしたけど。

太宰は三鷹あたりに住んでいたのですか?


ご免なさい、少し趣旨から外れたことばかりで^^;

投稿: mino | 2013年11月 3日 (日) 22時28分

そうなんですか?五輪、面白いと思うんですが。>
東京でなければみなさん賛成だと思います。東京で何かやるときは規制が半端なく、日常生活に影響します。東京マラソンですら閉口しているのに、五輪となると・・・。それと、東日本ならではの事情もあって、今でも大反対が多いのでしょう。

サマーズがまだ売れる前、同じような企画の街歩きを名古屋のTV局でやってましたね。>
バカルディの頃ですか。知りませんでした。これを東京に持ち込んだわけですね。
東京にいた頃はそれほどでもなかったのですが、大阪に来てからは懐かしくてほぼ毎回見るようになりました。

太宰は三鷹あたりに住んでいたのですか?>
JR三鷹駅のすぐそばに住んでいて、入水したのも駅近くの玉川上水で、お墓も駅の南の禅林寺にあります。三鷹市のHPに「太宰治と三鷹」(www.city.mitaka.tokyo.jp/dazai/dazaitomitaka/index.html)というコーナーがあって解説してくれています。

随分話しがそれてしまいましたが、前に紹介した元木泰雄さんの論文のありかがわかりました。
www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/motoki.pdf
グーグルは当初の方が使い勝手がよかったように思います。今は勝手に訳して検索されてしまうので、いちいち検索語を除外しなければなりません。

投稿: ddol | 2013年11月 5日 (火) 19時32分

東京の人はオリンピック反対とは知らんかったわ。
大阪も名古屋もオリンピックを逃してしまったので、少しうらやましい^^

でもそれなら、なんで五輪賛成の知事さんに投票したんやろ?

国や地域(府県とか)で争うゲームには、全く興味を持てないんやけど、おいらの仕事でいえば東京招致は嬉しかったです^^
1964とは違う意味での国威発揚にならないことを願ってます。

>>相対化する権力が現れたのは、どの時点やと思います?
>ただ、歴史的にみて幕末だけではありませんね。鎌倉末期の状況などもよく似ているのでは。
>同感です。

鎌倉時代は、まだまだ王家と武家の権力が並立してたイメージが。相対化するにたる絶対的な権力が確立されてない、と思うんや。このあたり、できればもう少し教えてもらいたいです。

投稿: tera | 2013年11月 6日 (水) 05時31分

ddolさん、リンク先ありがとう^^

現在、ブログ内カテゴリを新しく作り変える作業で忙しく、返答が遅れました。
まだまだ作業は続行中です。

teraさん、

鎌倉時代は、まだまだ王家と武家の権力が並立してたイメージが
>とは言え、承久の乱では三人の上皇を流刑にしたりと、武家の権力(鎌倉幕府)が王家のそれを上回っていたとは考えられないのでしょうか。
また、鎌倉幕府がすべての武家を御家人として掌握していなかったということもあり、それが鎌倉幕府の権力の弱さと見なされているのだと思いますが、このあたりの研究は知りたいところですね。


投稿: mino | 2013年11月 7日 (木) 17時55分

>とは言え、承久の乱では三人の上皇を流刑にしたりと、武家の権力(鎌倉幕府)が王家のそれを上回っていたとは考えられないのでしょうか。

うんうん、王家の処断や継承に関して画期的やね。また、武力から権力を見るとその通りと思います。
でも、社会秩序はまだまだ律令が基本で、御成敗式目も無茶をしていろいろ問題を引き起こす御家人に対して、それを教えるという性格が強かったという記憶が。
国家を代表する外交権の帰属も微妙な時期やし、王家は少なくとも西国においては立法権も徴税権も保持してるいる。軍事的な動員力も消滅したとはいえない(軍事的冒険は、後醍醐まで差し控えるけどね^^)。

これは、徳川政権の「禁中並」以降とはかなり異なって感じがするんや。徳川で、武家政権は完成型をつくったはずやのに、いつのまにか外交すら天皇家の意向を忖度しないとできなくなる。その不思議さを納得させてくれるお話がなくてのコメントです。

投稿: tera | 2013年11月 8日 (金) 06時37分

その不思議さを納得させてくれるお話がなくてのコメントです。
>なるほどね。そういう事ですか。

teraさんは、これに関しての心当たりみたいなものはあるのですか?

なかなか、権力と権威の話は難しいですね。

投稿: mino | 2013年11月 8日 (金) 18時07分

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