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2014年1月 9日 (木)

天守閣の無い天守台 (4) - 岩国城(山口県岩国市)

 

  天守閣の無い天守台の第4回目。

今回は吉川家(きっかわけ)の岩国城。

岩国藩については本家毛利家から支藩の届出が無く、毛利家では家臣扱いでしたが、幕府からは外様大名格の扱いで参勤交代も義務付けらていたにもかかわらず「伺候席は定められておらず、従五位下の叙位もなかったため、守名乗りもできないという(Wikiより)」宙ぶらりんの状態で明治を迎えることになります。

この岩国藩としての資格が認められるのは大政奉還後の新政府によってでした(1868年)。

したがって初代藩主は吉川元春から数えて(広家は三代目)第14代目の経幹(つねまさ)の時。

このような状態となったのはひとえに関ヶ原の戦いで当主の吉川広家(きっかわ ひろいえ)が東軍に内応して吉川軍の後方部隊も巻き込み戦闘に参加できなくしたことで、毛利本家の怒りを招いたことが原因でした。

しかし、内応が毛利家本体の安堵という条件であったことから、後の戦後処理で毛利家が120万5000石から約37万石に減封されたことを考えれば、吉川広家は騙されたということもできますが、これは後の祭り。

 

 

  岩国駅前にて。

  錦帯橋へはバスで20分ほど。

Dsc01084

 

  さて、岩国城というと錦帯橋と一体となった絵柄で有名です。

Dsc01092

Dsc01089_2

                                                                           以上 撮影 2011/01/05

以下 撮影 1998/08/27

 

  しかし、天守閣の無い天守台が存在します。

  この天守台が本来のもので、平成7年(1995年)に発掘復元されました。

  それ以前には石がごろごろしている、という状態であったそうです。

Img329

Img339

 

  こちらの天守閣は1962年(昭和37年)建築の復興天守。

  本来の天守台では天守閣が下からは見えず、観光的に見栄えの良い現在の場所に建築されました。

  こうして現在のお城と錦帯橋一体の絵柄が定着したわけですね。

Img338

 

  天守閣からの眺望。

Img335

 

  「元和の一国一城令」(1615年)によりお城は廃城となり、地上の「お土居」と呼ばれた陣屋が政庁となりました。

  「お土居」内に建てられた旧藩時代の櫓を模した錦雲閣とお堀。

Img326

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コメント

岩国城、萩城
吉川経幹は、幕末の「活動家」の中で、とても面白い人物やと思ってます。本藩、岩国、幕府の歴史的に微妙な関係を象徴した殿さんやね。

長州藩は、なんでやねんと思う慎重さ(戦国、織田との攻防戦や関ヶ原等)と、そこまでやるかの過激さ(幕末、下関戦争や禁門の変等)をあわせもつ、非常にボラティリティが大きい藩というイメージが。
それに、官僚臭い(いい意味も悪い意味でも)。一方、過激に突出することで時代を転回させていく。う~ん、むずいお国柄や^^

投稿: tera | 2014年1月21日 (火) 05時36分

吉川経幹
>なるほどね。チラとWikiを見ましたが、吉川家って関ヶ原も長州征伐でも本家のための斡旋に動いているのですね。
彼が幕末に及んでやっと岩国藩初代藩主となる話は知っていましたが、関ヶ原の件で何百年も本家に疎まれていたと言うのが、少々可愛そうな吉川家、という思いです。

長州藩
>これも面白い見方ですね。そう言われてみればそうなのかも。
現代でも山口は少し毛並みの違う県という感じがある。あれだけ首相を輩出しながら、全く発展していない辺境県というイメージがあります^^;。

投稿: mino | 2014年1月22日 (水) 05時55分

>少々可愛そうな吉川家
たしかにね^^;
両川といわれたという吉川と小早川。処し方が両極端やけど、それぞれ毛利本家の存続に奔走したんやろなと思います。
一方、自家の家名を残すという点では、隆景のような優秀な殿様を擁した小早川はだめで、残せたのは吉川。

このテーマの小説は、いけると思うんや^^

投稿: tera | 2014年1月26日 (日) 06時45分

一方、自家の家名を残すという点では、隆景のような優秀な殿様を擁した小早川はだめで、残せたのは吉川。
>まあ、そうですね。
小早川秀秋を木下家から養子に入れさせられた時点で、隆景は本家を守ったのですから、それはそれで本望だったのではと思いますが、あのような結果になるとは思いもしなかったでしょうね。

隆景自身も小早川家を乗っ取った訳ですから、非情の時代ともいえますね。

ただ、家臣は有力な家から養子が来たりするとむしろ喜んだとか・・・。なんとも、ですね。

投稿: mino | 2014年1月27日 (月) 03時25分

>あのような結果になるとは思いもしなかったでしょうね。
うんうん、いま話題の小泉元首相の「人生には、~まさかという坂」やね^^

>ただ、家臣は有力な家から養子が来たりするとむしろ喜んだとか
家臣は、殿様個人に付属するのではなく、「家」やからね。殿様がどうしようもないと、家臣は「押込」もするし。
子ども(男子)が優秀とはかぎらないからなあ。商家もそうやけど、主家の存続ということでは、むしろ「優秀」な養子をとりたいと思ってたんやないかな。

朱子学で「武士道」を創ろうとしたんやけど、武家の現実はリアルで、けっこう「中世的」。一方で、「仁・義」の逆襲も幕末に噴出するし。

投稿: tera | 2014年1月27日 (月) 04時46分

朱子学で「武士道」を創ろうとしたんやけど、武家の現実はリアルで、けっこう「中世的」。
>特に朱子学では「血統」というのは重要視されますね。
日本では自分の子供が、特に職業世襲の場合には、能力が無いと見ると廃嫡してまで養子を迎えることもありますしね。

何を隠そう、うちも祖父が養子です。
したがって、祖父からは以前の人とは血縁関係がありません。
実子は放蕩息子で、親族会議で勘当となり放逐されたと聞いてます。
ただ、曾祖母が祖父の叔母さんにあたるそうです。曾祖母の写っている写真が我が家の最も古い写真です。

投稿: mino | 2014年1月28日 (火) 00時51分

>何を隠そう、うちも祖父が養子です。
>ただ、曾祖母が祖父の叔母さんにあたるそうです。
え~、そうなんや。
うちの母方の実家も養子。おふくろの父、おいらの祖父がそうです。minoさんと同じく、一族から迎えたらしいけど。家意識の強かった母は、養子の父親を「あの人」といってました^^;「家」は、とても濃密ないろいろな関係があるようで、難しい。

でも、その母の影響をうけて、「歴史」というものに興味をもったのかもしれないです。

投稿: tera | 2014年1月30日 (木) 06時14分

うちの母方の実家も養子。おふくろの父、おいらの祖父がそうです。
>そうなんだ。こうして見ると、養子って結構一般的なんですね。

政界なんかの閨閥や江戸時代の将軍家、大名、旗本等の間の閨閥形成でも婚姻以外にも養子の役割は大きかったんでしょうね。

「家」
>現代人にはチト疎ましいです。

でも、その母の影響をうけて、「歴史」というものに興味をもったのかもしれないです。
>なるほど。家族、特に両親の影響は大きいですよね。

投稿: mino | 2014年1月31日 (金) 14時37分

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