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2014年1月

2014年1月29日 (水)

現存天守12城(4) - 国宝 松本城(長野県松本市)

 

 

  現存天守12城のうち4回目は信州松本市の国宝 松本城。

 

  戦国時代の16世紀初めに井川館(松本市)を拠点としていた信濃守護家小笠原氏は林城(松本市)を築城、その支城として深志城を築き、これが松本城の前身。

小笠原長棟(おがさわら ながむね)の時、分立していた小笠原氏を統一し、林城を拠点として小笠原氏の最盛期を迎えます。

しかし、子の長時の時に武田信玄に攻められ小笠原氏は没落、信玄は林城を破棄し深志城を拠点として松本平を支配します。

その後、天正10年(1582年)武田氏滅亡後、小笠原貞慶(おがさわら さだよし 長時の子)が徳川家康の家臣として旧領を回復して深志城を松本城と改名。

天正18年(1590年)北条氏滅亡後の家康の関東移封に伴い小笠原氏も移封。

後には石川数正、2代目康長。

康長の時関ヶ原の戦い(1600年)で康長は東軍側につき家康から本領安堵される。

しかし、大久保長安事件で改易。

後に再び小笠原家が8万石で入り小笠原秀政(小笠原貞慶の嫡男)、忠真と2代続き忠真が播磨明石藩へ加増移封。

そして、後には戸田(松平)家が7万石で2代、その後松平(越前)直政7万石、堀田正盛が10万石、寛永19年(1642年)水野家が7万石で入り6代、最後に再び戸田(松平)家が享保10年(1725年)に6万石で入り9代で明治を迎えました。

 

  明治になり天守閣が競売にかけられるも地元の有力者に買い戻され、その尽力の結果、現在の国宝 松本城があることに感謝。

 

  天守の建造年にはいくつかの説がありますが、いずれにしても1600年前後、遅くても1615年説までのようです。

 

  いつもの余湖くんのホームページからの引用図。

Matumototyo

 

  南西側からの天守閣。

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  北西側から。

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  西から。

 

  この1999年の旅行は大変な強行軍で1日目に松本城、諏訪高島城、諏訪大社を訪れ上田で一泊。

  上田城は朝の内に寄り、さらに長野から北上し高田城を訪れ新潟から新発田へ、新発田で一泊。

  帰りは新発田城、長岡の模擬城(長岡城とは場所も城も別物)を訪れ、後は一挙に長野、松本、中津川、名古屋、岐阜まで帰るという強行軍でした。

  そして、岐阜の実家から当時の住所である大阪へあくる日に帰るという、今ではもう体力的に無理だろうと言う大旅行でした。

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  黒門。

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  黒門から入りました。

  当時の拝観料は忘れました。

 

  現在(2014年1月末)の松本城天守(本丸庭園内)観覧料(松本市立博物館との共通券)は大人600円(小、中学生300円)。

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  本丸庭園からの天守閣。

  天気があまり良くなくて残念でした。

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  残念ながら内部の写真はありません。

  内部を撮影したコンパクトカメラを紛失(盗難の疑いが強い)し、その後の旅行が気まずくなった苦い思い出があります。

  写真すべてがフィルムカメラによる撮影で、それをスキャンしてデジタル化しました。
  スキャンの過程で画質が落ちました。

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  撮影 1999/07/27

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2014年1月26日 (日)

現存天守12城(3) - 国宝 彦根城(滋賀県彦根市)

 

  慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の家臣である井伊直政は戦功として高崎12万石から18万石に加増され石田三成の居城であった佐和山城に入城します。

しかし、井伊直政は関ヶ原の戦いでの傷が元で死去(慶長7年(1602年))。

そして、嫡男直継の代に佐和山城に替わる彦根城の築城を開始し(慶長8年(1603年))、慶長11年(1606年)に完成します。

しかし直継は病弱で大坂の陣には弟の直孝を参陣させることとなり、これを理由に上野安中藩に3万石を分地という形で移封。

替わりに大坂の陣での活躍を認められた直孝が慶長20年(1615年)15万石で家督を継ぎ、第2代藩主となります(直継は彦根藩主としては認められなかった)。

以後、井伊家は16代にわたり(再封された藩主が二人存するために14代とも)明治まで移封もなく彦根藩藩主を務めます。

井伊家は譜代大名の筆頭格として大老を輩出し、幕末には日米修好通商条約の締結、安政の大獄を敢行し、その結果桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼(いい なおすけ)がいます。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

Hikonezu

 

  彦根駅から見える彦根城天守閣。

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  駅前にある藩祖井伊直政の像。

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  駅前通を彦根城へ向かう途中、通りの左側にある石屋さんの石造り「ひこにゃん」。

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  二の丸佐和口多聞櫓と天守閣。

  訪れたのは桜の季節。

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  表門。

  かって表御殿が存した場所に彦根城博物館があります。

 

  彦根城&玄宮園入場券600円(小、中学生200円)、玄宮園のみは200円(小、中学生100円)、彦根城博物館500円(小、中学生250円)。

  彦根城(玄宮園含む)&彦根城博物館セット券1000円(小、中学生350円)。

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  この日は表門からではなく、南に迂回して大手門から入りました。

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  この坂を登ります。

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  表門から石段を登っても、大手門から登っても、天秤櫓に架かる橋の下で合流します。

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  天秤櫓と橋。

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  国宝 彦根城天守閣。

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  搦め手の黒門の出入り口。

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  玄宮園からの天守閣。

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  同じく玄宮園から。

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  撮影 2010/04/08

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2014年1月25日 (土)

現存天守12城(2) - 国宝 犬山城(愛知県犬山市)


 

  現存天守12城の内の第2回目は愛知県犬山市の国宝犬山城。

  犬山城を巡る攻防は戦国時代に幾度も繰り広げられていますが、現在の地に城が築城されて以後の最初のハイライトは、織田信長が今川義元の尾張侵攻に勝利した後に犬山城主織田信清と戦った際の攻防戦で、結果は信長が犬山城を奪取して、ここに信長の尾張統一戦が最終的に完成します(永禄7年(1564年))。

ちなみに信清は信長の従兄弟にあたり、永禄元年(1558年)の浮野の戦い・岩倉城攻略(永禄2年(1559年))では信長方として尾張上四郡の守護代家であった織田伊勢守家を破りこれを追放しています。

信長はこれにより、先の天文24年(1555年)に尾張下四郡の守護代家の織田大和守家を滅ぼしたのに続き上四郡をも併せて尾張統一に成功します。

しかし、信長と信清との間での領地配分が定まらないまま今川義元の尾張侵攻があり(永禄3年(1560年)桶狭間の戦い等)、それが戦後に対立が再燃し、犬山城奪取と信清追放となりました。

 

  織田信長の美濃への侵攻はまず中美濃から東美濃への攻略から始まり、犬山城はその拠点となり、重要な位置を占めました。

犬山城を奪取した翌年には信長は小牧山城に居城を移し、永禄10年(1567年)には稲葉山城を落とし美濃を得ます。

そして、信長は地名を岐阜と改め岐阜城へと居城を移転(この時小牧山城は廃城)。

 

  以降の犬山城の攻防では天正12年(1584年)の羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)との小牧・長久手の戦いの前哨戦で美濃大垣城主であった池田恒興が犬山城を攻め信雄方から奪い取っています。

また、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))では、やはり前哨戦として岐阜城攻めと共に犬山城も東軍の標的とされるも開城という形で決着がつきました。

 

  慶長6年(1601年)徳川家康の四男松平忠吉が尾張国清洲城52万石に封ぜられると付家老に命ぜられた小笠原吉次が犬山城主。

そして、忠吉没すると慶長12年(1607年)徳川義直が甲斐25万石から47万2344石で尾張藩主として封ぜられ、付け家老として平岩親吉が犬山城に12万3000石で入り、義直が幼く駿府に在府のまま、平岩親吉が藩政を主導します。

しかし、慶長15年(1610年)に始まった名古屋城築城中の慶長16年(1611年)名古屋城二の丸御殿で平岩親吉は死去。

1616年(元和2年)藩主徳川義直が名古屋城に入った翌年、3万4000石の大名であった成瀬正成(なるせ まさなり)が家康に乞われ尾張藩付家老として3万5000石で犬山城主となり、以後明治まで9代にわたり犬山城主を務めました。

成瀬正成の治下元和3年(1617年)ごろに犬山城は現在の姿となった、ということです。

 

  春の犬山城。犬山橋から。

                                                                                          撮影 2012/03/20

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  5月の犬山城。犬山橋から。

                                                                                            撮影 2011/05/31

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  名鉄犬山駅にて。

  北尾張の名鉄のターミナル駅3面6線。

  犬山線、広見線、小牧線、各務原線等の車両が発着します。

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  駅舎。西口。

  バスは東口へ、明治村等へは東口バス乗り場へ。

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  古い町並みが残る市内。

  犬山城へは犬山駅、もしくは犬山遊園駅下車。いずれも徒歩で15分から20分ぐらい。

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  模擬門。

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  国宝犬山城天守閣。

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  天守閣から東に見える木曽川上流方向と犬山橋。

  左側が岐阜県各務原市(かかみははらし)、右側が愛知県犬山市。

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  以上 撮影 2008/01/06

 

  2月夕方の犬山城。

                                                                                              撮影 2013/02/13

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2014年1月22日 (水)

現存天守12城(1) - 丸岡城 (福井県坂井市)

 

  丸岡城が築城されたのは1576年(天正4年)、築城主は柴田勝家の甥である柴田勝豊。

本能寺の変(1582年(天正10年))後の清洲会議で勝豊は近江長浜へ移り、以後城主は変遷し、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))の後に越前一国の福井藩67万石を家康の次男の結城秀康(越前松平家)が立藩、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6000石で入ります。

慶長12年(1607年)秀康の死で嫡男松平忠直が越前を相続。

しかし、1612年(慶長17年)の越前騒動により今村盛次は連座し失脚。

幕府は旗本であった本多成重(ほんだ なりしげ)を松平忠直の附家老とし丸岡城に4万石で入れ、成重は忠直をよく補佐します。

しかし、忠直は大坂の陣(1614年、1615年)での武功を将軍に認められなかったことに不満を持ち、幕府へ反抗的態度を示すようになり、その結果、元和9年(1623年)忠直は乱行を理由に大分へ配流。

後任には越後高田藩の藩主であった弟の松平忠昌(結城秀康の次男)が50万石で福井藩主となります。

この忠昌の福井藩相続では越前国の内に四つの藩が新たに設けられ、本多成重(ほんだ なりしげ)は寛永元年(1624年)に丸岡藩4万7000石の大名として新たに取り立てられ、ここに丸岡藩が成立します。

 

  ちなみに本多成重(ほんだ なりしげ)の父は鬼作左(おにさくざ)と称された本多重次(ほんだ しげつぐ)。

三河時代から家康に仕え、主に行政面で活躍し、法にたいして厳格であったためにこのように呼称されました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いの際に陣中から妻に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙が日本一短い手紙として有名となりました。

幼名が「お仙」こと仙千代であった嫡子本多成重(なりしげ)が丸岡藩初代藩主という縁で平成5年(1993年)から丸岡町(現坂井市丸岡町)では「日本で1番短い手紙」を募集しています。

 

  丸岡城へは車かバスの利用が便利。

  バスは福井駅前から京福バス丸岡線 「本丸岡」行きで本丸岡下車。

  所要は約35分。運賃大人640円。1時間に3本運行されています。

  本丸岡バス停からお城へは北東へ約500~600mぐらい。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

Maruokatyo

 

  現地の丸岡城の概要図。

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  「日本一短い手紙」より名付けられた「一筆啓上茶屋」。

  付近には飲食店は見当たらず(私が見た限りですが)、お城見物の拠点。

  駐車場も広く取られています。

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  訪れたのは桜の季節。

  朝早くの到着でお城も茶屋も閉まってました。

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  建物は歴史民俗資料館。

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  丸岡城天守閣。

  1934年(昭和9年)には国宝(旧法による)に指定。

  しかし、1948年(昭和23年)の福井地震で倒壊。

  1955年には元通りに組みなおし修復。

  その前、1950年に国重文に指定。現在も国重文。

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  天守の石造りのしゃちほこ。

  地震により損壊しています。

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  屋根の瓦も石造り。

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  天守閣最上階の内部。

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  鬼瓦(おにがわら)も石造り。

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  急な階段。

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  本多家第4代目の藩主 本多重益(ほんだ しげます)の時、本人の藩主としての素養や家臣の争いなどで改易(元禄8年(1695年))。

  元禄8年(1695年)越後糸魚川藩から有馬清純(ありま きよすみ)が5万石で入封。

  有馬清純(ありま きよすみ)は、いわゆる肥前有馬氏の系統で、戦国時代には島原半島を領有していたキリシタン大名有馬晴信の曾孫にあたります。

  丸岡藩は本多家が4万3000石で4代、有馬家5万石で8代続き明治維新となります。

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  撮影 2012/04/15

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2014年1月20日 (月)

天守閣の無い天守台 (8) - 赤穂城(兵庫県赤穂市) 忠臣蔵で有名

 

  天守閣の無い天守台の8回目。

今回は赤穂浪士討ち入りの忠臣蔵で有名な播州の赤穂城。

赤穂藩は元和元年(1615年)、播磨国姫路藩52万石の池田輝政が5男の政綱に3万5000石を分地し立藩されたのが始まり。

赤穂藩池田家は2代目で改易(1645年)、ついで同年常陸国笠間藩から浅野長直が5万3000石で赤穂に入部。

そして元禄14年(1701年)第3代藩主浅野長矩(あさの ながのり)は城中での吉良義央(きら よしひさ/よしなか)に対する刃傷(にんじょう)沙汰で切腹、浅野家は改易となります。

後に赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあり、この事件を題材とした「仮名手本忠臣蔵」が歌舞伎や文楽で演目として演じられました。

これがいわゆる「忠臣蔵」で、今日まで映画やTV劇等で多くの作品が生み出されています。

 

  赤穂藩は浅野家改易の後永井家1代(3万2000石 1701年~1706年)を挟んで備中西江原藩より森長直が2万石で入部、以後明治まで森家13代(1706年~1871年)が165年間赤穂藩主を務めました。

 

  忠臣蔵で有名な浅野家は本家が42万6000石の広島藩浅野家。

浅野家は豊臣政権の中枢となる浅野長政から家運を開き、長政の長男である幸長は徳川家康に近付き関ヶ原の戦いでは東軍として本戦に参加。

戦後甲斐国から紀伊国和歌山37万6千石に転封。

これが和歌山藩の成立となりました。

慶長18年(1613年)に幸長死去、子に男子が無く弟の長晟(ながあきら)が家督を継ぎ、長晟(ながあきら)は冬、夏の大坂の陣(1614年、1615年)に参戦、そして元和5年(1619年)福島正則改易を受けて安芸国広島42万石に加増転封。

以後浅野本家は12代にわたり明治まで広島藩を治めました。

 

  また、浅野長政の3男長重は長政の隠居料を相続して真壁藩主、後に笠間藩主(5万3500石)、子の長直のとき赤穂へ転封となり、これが赤穂浅野家となります。

長直は赤穂に入ると旧城の南に現在見る赤穂城を13年かけて築城、城下町の造営、塩田の奨励と整備等を行ないます。

 

  また赤穂で特筆すべきは、池田氏の時代、城下の地下水が塩分を含んでいるため、上流の千種川から真水を引き、城下に上水道を整備したことです(1614年(慶長19年)~1616年(元和2年))。

その総延長は約30kmと言われており、当時(17世紀初頭前後)の備後国の福山水道(1622年)、江戸神田上水(1590年完成)と共に日本三大旧上水道と称されています。

 

  赤穂城大手門と大手隅櫓。

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  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  現地の城跡案内図。

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  本丸表門の二の門から内部の一の門を望んで。

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  本丸門の古写真つき説明板。

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  一の門から本丸に入って左手奥にある天守台。

  江戸時代を通じて天守閣が築かたことはありませんでした。

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  天守台から本丸内と本丸門の一の門。

  御殿の間取りが地面に記されています。

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  天守台の様子。

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  天守台別角度から。

  城自体が石高に見合わないような大きさです。

  したがって天守閣が築かれなかったのは金銭的な問題であったという意見と

  幕府を慮った(おもんばかった)という意見があります。

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  撮影 2010/08/21

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2014年1月17日 (金)

天守閣の無い天守台 (7) - 神戸城 (かんべじょう 三重県鈴鹿市)

 

  天守閣のない天守台の7回目。

今回は三重県鈴鹿市の神戸(かんべ)城跡。

鈴鹿市は神戸(かんべ)の旧城下町や海沿いの港町の白子(しろこ)、軍の飛行場があった平田、市の西端には東海道の旧宿場町であった石薬師宿と庄野宿を抱える広い市域が特徴です。

FIが開催される鈴鹿サーキットは有名ですね。

 

  さて、神戸城跡は伊勢鉄道鈴鹿駅から西へ1km余り、近鉄鈴鹿線の鈴鹿市駅から南西にやはり1kmほどの位置にあります。

 

  神戸城は神戸氏4代目の神戸具盛(かんべ とももり)が天文年間(1532年 - 1555年)に築城し本拠としました。

しかし、織田信長軍の伊勢侵攻が始まると、永禄11年(1568)神戸具盛は信長の3男信孝を養子として受け入れることで和睦。

こうして神戸家当主となった神戸(織田)信孝は神戸城を修築し、五重の天守を築いたとされています。

本能寺の変(1582年)後、信孝は岐阜城へ移り、その後城主はたびたび交代しますが、関ヶ原の戦い(1600年)後に一柳直盛が5万石で入城し、ここに神戸藩(かんべはん)が成立します。

寛永13年(1636年)に一柳直盛が6万8000石に加増され伊予西条藩に移封されると1651年まで天領となり城の主要部分は破却(天守はすでに1595年に桑名城へ移築されていた)。

慶安4年(1651年)からは石川家が入り神戸藩が復活(Wiki 「神戸城」の項では1650年と記述されている)、石川家が三代続いてのち享保17年(1732年)に本多忠統(ただむね)が1万石で入封(Wiki 「神戸城」の項では2万石とされている)、延享2年(1745年)には5000石を加増され、以後本多家7代で明治を迎えます。

このあたり、Wikiの「神戸城」の項と「神戸藩」の項では細かいところで相違があり、どちらが正しいかは保留とします。

ちなみに、本多忠統(ほんだただむね)は、城を大修築して神戸城を復興させました。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

Kanbetyo


大きな地図で見る

 

  伊勢鉄道鈴鹿駅の東側。

  名古屋からJRの快速「みえ」で来ました。

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  伊勢鉄道と近鉄鈴鹿線が鈴鹿駅の北で立体交差をします。

  近鉄鈴鹿線平田町発伊勢若松行き普通。

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  神戸の古い町並み。西へ歩いて行きます。

  常夜灯が見えます。

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  この常夜灯は意外に新しかった記憶があります(再建?)。

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  宗休寺前の道を左に折れ県立神戸高校前へ。

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  そして神戸高校に沿って再び西に行くと左手に城跡があります。

  神戸高校の敷地が神戸城の二の丸跡。

 

  神戸城本丸の天守台。

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  本丸広場から。

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  野面積み(のづらづみ)の石垣。

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  天守台の上から本丸広場。

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  近鉄鈴鹿線 鈴鹿市駅駅舎。

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  鈴鹿線始終着駅である近鉄名古屋線 伊勢若松駅へ向かいました。

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  撮影 2010/03/11

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2014年1月16日 (木)

天守閣の無い天守台 (6) - 米子城(鳥取県米子市) 池田氏鳥取藩の支城 城代荒尾氏

 

  天守閣の無い天守台の6回目は鳥取藩領の支城である米子城。

鳥取藩は池田氏の光仲系、一方岡山藩の池田氏は光政系というどちらも美濃池田氏系の大藩です。

 

  信長に仕えた池田恒興の次男である輝政は徳川家康との小牧長久手の戦い(天正12年(1584年))では豊臣方として戦い、父恒興、兄元助を失うも、後には家康に近付き娘婿となり、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))でも徳川方として参戦し、戦後には戦功として播磨姫路で52万石を与えられます。

輝政は11男3女をもうけ、長男が利隆、次男が忠継、三男が忠雄(ただかつ)。

利隆は輝政の死後の姫路藩を継ぎ、一方忠継は岡山藩主、忠雄(ただかつ)が淡路洲本藩主を務め、忠継が没すると忠雄が岡山藩主となり、忠雄が没すると(寛永9年(1632年)没)嫡子の光仲が継ぎます。

この時、輝政(慶長18年(1613年)没)の長男の姫路藩主利隆の死後(元和2年(1616年)没)に藩主を継いだ光政は、幼いという理由から、それ以前に鳥取藩に移封されていました(元和3年(1617年))。

今回も光仲が幼少ゆえに、要衝の地である岡山を治めるには任が重いという理由で岡山藩から鳥取藩へ、鳥取藩主であった光政が岡山藩へという領地替え(寛永9年(1632年))が行なわれました。

こうして光政系が岡山藩主、光仲系が鳥取藩主として明治まで治めることとなりました。

 

池田家の分家筋である光仲系の鳥取藩は因幡、伯耆両国で32万5000石の大藩でした。

その内伯耆国の米子城は家老の荒尾氏(荒尾但馬家)が寛永9年(1632年)から城代として、いわゆる「自分手政治(じぶんてせいじ 藩主から統治を任される)」をもって統治し、同じように伯耆国の倉吉も荒尾志摩家に江戸期を通じて委任統治されました。

 

  ちなみに荒尾氏は尾張知多郡の出身、荒尾氏の娘(善応院)が池田恒興に嫁いで池田輝政をもうけているので、初代米子城代の荒尾成利は輝政の従兄弟にあたります。

 

  いつもの「余湖くんのお城のページ」から引用の図。

  右が北。

Yonagotyo

 

  前日萩の町を巡って米子で一泊。

  午前中に米子城跡に登り、昼頃には米子を離れ伯備線で岡山方面へ向かいました。

 

  米子城跡から大山。

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  これが米子城本丸の天守台。

  四層五重の天守閣がそびえていたそうです。

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  天守台には大きな礎石が幾つもあります。

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  本丸から中海。

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  下から見上げた天守台。

  三段の石垣のうち一番上が天守台の石垣。

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  北にある内膳丸へ行ってみました。

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  内膳丸。

  端に東屋があるのみで展望も利かない郭跡でした。

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  米子駅にて。キハ126系。

  両運転席があり単行運転ができる車両は121系。

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  米子駅にて。境線の境港行き普通。

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  撮影 2009/08/27

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2014年1月12日 (日)

天守閣の無い天守台 (5) - 二俣城(ふたまたじょう 静岡県浜松市天竜区)

 

  二俣城の築城は戦国時代初期に今川氏によって築かれたとされています。

その後、徳川家康の遠江進出に伴い徳川家支配の城となります。

しかし、武田家との確執が激しくなると、徳川、武田両軍の攻防戦の前線となり、元亀3年(1572年)10月武田信玄が遠江に侵攻。

この侵攻で二俣城は落城、武田軍はさらに南下し三方ヶ原の戦い(同年12月)で徳川家康の迎撃を退け、以来二俣城は武田方の前線基地となります。

そして、武田信玄はこの侵攻時に陣没し、武田家は勝頼が継いだことは皆さんご存知の通り。

その後、武田勝頼は遠江の東の要である高天神城をも落とし(1574年)、家康の本拠の浜松城を北と東から圧迫することとなります。

しかし、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで織田・徳川連合軍が勝利を収めると状況は一変。

家康は鳥羽山城など二俣城に対する付け城を築いて攻撃するも、守将の依田信蕃(よだのぶしげ)以下城兵の奮戦で容易に落ちず、やっと天正3年(1575年)12月に城兵の安全な退去を条件に開城という形で二俣城を得ることに成功します。

家康は再び徳川方となった二俣城には重臣の大久保忠世(おおくぼ ただよ)を置き、以後武田方のたびたびの攻撃にも落城することはありませんでした。

 

  時代は飛び豊臣秀吉政権下、後北条氏滅亡による天正18年(1590年)の徳川家康関東移封に伴い二俣城は浜松城に入った堀尾吉晴支配の支城となり、さらに慶長5年(1600年)堀尾吉晴の出雲転封で廃城となりました。

 

  ちなみに徳川軍の猛攻をよく防いだ依田信蕃(よだのぶしげ)は武田家滅亡後に徳川家の家臣となり、その子孫は芦田姓で福井藩の重臣となります。


大きな地図で見る

 

  遠州鉄道西鹿島駅にて。

  新浜松駅から終着の西鹿島駅までは所要30分少々で運賃460円。

  12分間隔での運行。

  天竜浜名湖鉄道に乗り換え。

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  天浜線の西鹿島駅にて。

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  すぐに天竜川を鉄橋で渡ります。

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  西鹿島駅から次の二俣本町駅で下車。

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  浜松市天竜区二俣地区の案内図。

  鉄道ファンにとっては興味が尽きない天竜二俣駅など、
  半日~1日ぐらいで散策するのも面白そうな地区です。

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  いつもの「余湖くんのお城のページ」から拝借。

  二俣城の図。

Hutamatazu

 

  本丸内に残る天守台。

  二俣城は家康の長男の松平信康が武田家との内通の疑いで織田信長の命で切腹させられた場所。

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  野面積み(のづらづみ)による石垣の天守台。

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  二の丸の城山稲荷神社。

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  撮影 2009/01/07

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2014年1月 9日 (木)

天守閣の無い天守台 (4) - 岩国城(山口県岩国市)

 

  天守閣の無い天守台の第4回目。

今回は吉川家(きっかわけ)の岩国城。

岩国藩については本家毛利家から支藩の届出が無く、毛利家では家臣扱いでしたが、幕府からは外様大名格の扱いで参勤交代も義務付けらていたにもかかわらず「伺候席は定められておらず、従五位下の叙位もなかったため、守名乗りもできないという(Wikiより)」宙ぶらりんの状態で明治を迎えることになります。

この岩国藩としての資格が認められるのは大政奉還後の新政府によってでした(1868年)。

したがって初代藩主は吉川元春から数えて(広家は三代目)第14代目の経幹(つねまさ)の時。

このような状態となったのはひとえに関ヶ原の戦いで当主の吉川広家(きっかわ ひろいえ)が東軍に内応して吉川軍の後方部隊も巻き込み戦闘に参加できなくしたことで、毛利本家の怒りを招いたことが原因でした。

しかし、内応が毛利家本体の安堵という条件であったことから、後の戦後処理で毛利家が120万5000石から約37万石に減封されたことを考えれば、吉川広家は騙されたということもできますが、これは後の祭り。

 

 

  岩国駅前にて。

  錦帯橋へはバスで20分ほど。

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  さて、岩国城というと錦帯橋と一体となった絵柄で有名です。

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                                                                           以上 撮影 2011/01/05

以下 撮影 1998/08/27

 

  しかし、天守閣の無い天守台が存在します。

  この天守台が本来のもので、平成7年(1995年)に発掘復元されました。

  それ以前には石がごろごろしている、という状態であったそうです。

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  こちらの天守閣は1962年(昭和37年)建築の復興天守。

  本来の天守台では天守閣が下からは見えず、観光的に見栄えの良い現在の場所に建築されました。

  こうして現在のお城と錦帯橋一体の絵柄が定着したわけですね。

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  天守閣からの眺望。

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  「元和の一国一城令」(1615年)によりお城は廃城となり、地上の「お土居」と呼ばれた陣屋が政庁となりました。

  「お土居」内に建てられた旧藩時代の櫓を模した錦雲閣とお堀。

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2014年1月 8日 (水)

天守閣の無い天守台 (3) - 小諸城(長野県小諸市)、松代城(長野県長野市松代町)

 

  天守閣の無い天守台の第三回目。

かって天守閣が存在したかどうかにかかわらず、現在は天守台が残っているが天守閣は無いという意味での「天守閣の無い天守台」がテーマです。

小諸城は2004年8月初旬に、松代城は2007年8月初旬に上田城と共に訪れました。

 

  小諸城は戦国時代に武田信玄によって東信濃経営のために現在の縄張りの城郭として整えられました。

小諸藩の藩祖は豊臣秀吉の家臣であった仙石秀久であり、小諸城主時代の関ヶ原の戦い(1600年)で東軍に属し、戦後本領安堵され、ここに小諸藩が5万石で成立しました。

その後仙石家2代、甲府藩預かり支配、久松松平家1代、信濃松本藩預かり支配、青山家1代、酒井家1代、西尾家1代、大給(おぎゅう)松平家2代を経て、最終的に1702年牧野家が1万5000石で入封し、以後明治維新まで牧野家が10代にわたり治めました。

現在の小諸城址は「懐古園」と名付けられた城址公園となっています。

 

  また松代城は、かっては川中島の戦いで重要な役割を担った武田方の海津城であり、後に松代と改名されました。

川中島藩時代には森家1代、長沢松平家1代、松代藩時代には越前松平家1代、酒井家1代を経て、1622年上田藩から真田信之(さなだ のぶゆき)が10万石で移封され、以後10代にわたり明治維新まで真田家が治めました。

西軍に組した父真田昌幸、次男の真田信繁(真田幸村)とは異なり、信之は東軍に属したため明治まで大名として存続しました。

 

  小諸城天守台。

  仙石秀久の時代に三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)落雷により焼失。

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  現存する三の門。

  懐古園の入り口となっています。

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                                                                          以上 撮影 2004/08/03

 

以下 撮影 2007/08/02

 

  松代城 北西櫓台。

  天守台としての位置付けはされていませんが、天守台に準ずるものとして(実際に天守であっても櫓だとする藩も見受けられた)。

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  海津城址の碑。

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  今は無き長野電鉄の屋代線電車。

  屋代駅にて。

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2014年1月 6日 (月)

新年の岐阜城(岐阜県岐阜市) 2014年1月2日 - 生憎(あいにく)の曇り空

 

  新年の1月2日、バスに乗り岐阜公園入り口と岐阜駅を往復してみました。

駅からのバスは伊奈波神社(いなばじんじゃ)へ向かう初詣客が多く満員で座ることは出来ない状態でした。

伊奈波神社最寄のバス停である「伊奈波通り」では、私も一瞬降りてみようかと思いましたが、ここはやり過ごし、次の次の「本町一丁目」バス停で降車。

 

  本町一丁目バス停付近からの岐阜城。

  駅からの「長良橋通り」はこの辺りでは東西方向となります。

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  東へ歩くと、斎藤道三以後斎藤氏三代の菩提寺である常在寺。

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  公園入り口近くにある岐阜大仏。

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  お寺の正式名は黄檗宗金鳳山正法寺。

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  公園の入り口にある岐阜市歴史博物館

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  その公園入り口からの岐阜城。

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  岐阜駅前に戻り織田信長像と金華橋通り。

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  撮影 2014/01/02

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2014年1月 1日 (水)

謹賀新年 2014年元旦 今年もよろしくお願いします - 讃岐富士の夜明け

    

 

  謹賀新年 2014年元旦     

                           今年もよろしくお願いします。

 

  丸亀城(香川県丸亀市)からの讃岐富士の夜明け。(全写真既出。)

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  丸亀城天守。

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  2009年1月、この日は箸蔵寺(はしくらじ)を訪れました。

  土讃線箸蔵駅付近。

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  同じく土讃線箸蔵駅付近。

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  撮影 2009/01/17

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