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2014年2月

2014年2月26日 (水)

史実には無い模擬天守(2) - 館山城(千葉県館山市)

 

  今回の「史実には無い模擬天守」で取り上げたのは千葉県館山市の館山城です。

館山城が前回の尾道城模擬天守と決定的に異なるのは、館山城は過去に実在し、なおかつ天守も存在したであろうお城であったという事実です。

 

  館山城は1580年(天正8年)頃に里見義頼が築城。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて義頼の子の里見義康は東軍に組し、従来の館山城を拠点とした安房一国の9万2000石に加え、常陸国鹿島郡の3万石と合わせて12万2000石の大名となり館山藩が成立。

しかし義康の後を継いだ里見忠義の時代の慶長19年(1614年)、大久保長安事件に連座して改易。

このとき館山藩は廃藩となり館山城は破却処分となり、館山藩の領地は細分化されてしまいます。

その後、天明元年(1781年)田沼意次とともに権勢を振るった旗本稲葉正明が安房・上総国内で3000石の加増を受け従来からの7000石と合わせて1万石の大名に列せられ、ここに館山藩が新たに立藩されます。

稲葉氏による館山藩の政治は陣屋で行なわれ、館山城は里見家の時代に廃城となって以後、再び復活することはありませんでした。

稲葉氏は5代に渡り陣屋時代の館山藩を治め、明治に至りました。

里見時代には天守が存在したということですが、現在の天守は1982年(昭和57年)に犬山城を模して建築された模擬天守で、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)として利用されています。

 

  前日の大垣発の深夜快速の「ムーンライトながら」で東京に朝早く到着。

  東京駅で総武線に乗り換え、君津行き快速で木更津へ(現在でも同じ時刻の快速がある)。

  さらに館山まで1時間ほど。

  館山駅からはバスで15分ぐらいだったでしょうか、徒歩旅行者にとってはバスは欠かせません。

 

  下から見上げた城山の館山城。

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  まだ、開館時間前で散歩や山登りの人々が多数。

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  対岸は三浦半島でしょうか。

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  城山からは富士山が見えます。

  地元の人の話では、今日は良くないという事でした。

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  撮影 2000/01/18

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2014年2月25日 (火)

史実には無い模擬天守(1) - 尾道城(広島県尾道市)

 

  尾道城は1964年(昭和39年)に尾道商工会が建てた天守閣風の建築物で、分類としては限りなく「あやしいお城」です。

2回目以降に取り上げるお城に先立ち、私が所持している写真のうち最もあやしいお城を真っ先にあげて見ました。

尾道は坂道の町、三重塔や多宝塔のある塔の町など観光的に大変魅力のある都市で、私も何回か立ち寄っていますが、最初にこのお城を見つけたときには少々仰天しました。

まず、見た目に建ち方がおかしい。

すぐに怪しい城であることがわかり、その後調べてみて実態が判明しました。

ただ、それでも、なんとなく愛嬌があってこういうお城も大好きです。

現在は廃墟と化しているそうですが、是非大事にして頂きたいです(皮肉ではありません)。

 

  尾道駅前から見える尾道城天守閣風建築物。

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  尾道は坂道の町、塔のある町、お寺の町などとともに文学の香りもする都市であります。

  林芙美子の「放浪記」、正岡子規の俳句「のどやかさ 小山つづきに 塔二つ」は有名ですね。

  他にも志賀直哉旧居、中村憲吉旧居などもあります。

  正岡子規の塔二つの内の一つである天寧寺(てんねいじ)の三重塔。

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  撮影 2010/04/07

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2014年2月21日 (金)

岐阜市梅林公園 梅の開花情報 リンク先 - 2014年度

 

  今年も梅の季節。

岐阜市の梅林公園の梅の開花状況を岐阜市のホームページより。

岐阜市梅林公園の梅開花状況のリンク先。 2014年のもの。

 

  写真は2012年3月15日の梅林公園の写真。

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  撮影 2012/03/15

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2014年2月20日 (木)

現存天守12城(12) - 国宝姫路城(兵庫県姫路市) ユネスコ世界遺産でもある。

 

  現存天守12城の最後は国宝姫路城。

姫路城はユネスコの世界遺産でもあります。

国宝(大小天守と渡櫓等8棟)、国の重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)。

 

  ご存知のように現在姫路城は大天守保存修理事業の最中です。

工事の完了は平成26年度一杯ということだそうです。

ということは普通の言い方をすれば平成27年(2015年)3月末に完了ということ。

したがって今年から来年(2015年)の3月までは天守への登閣は不可となります。

ただ、素屋根の撤去は計画表を見る限り今年(2014年)1月から始まっているので、外観は工事完了前に以外に早く姿を現す可能性がありますね。

今週の姫路城(写真つき)へのリンク

 

  姫路城は戦国時代には黒田氏、後に羽柴氏(豊臣秀吉)が城代として山陽路の拠点とし、山陽路の要の城でありました。

1600年の関ヶ原の戦いの後、姫路城には池田輝政が52万石で入城し、ここに姫路藩が成立します。

そして城郭の大拡張が行なわれ、現在ある姫路城は池田輝政の手によるものです。

 

  その後池田家3代の後、元和3年(1617年)忠勝系の宗家である本多忠政が15万石で入部、本多家3代の後1639年(寛永16年)から親藩の松平(奥平)家が15万石で2代、慶安元年(1648年)からは松平(越前)家が15万石で2代、以後本多家(忠勝系宗家)2代、榊原家4代、松平(越前)家2代。

そして寛延2年(1749年)に雅楽頭酒井家(うたのかみさかいけ)の酒井忠恭(さかい ただずみ)が15万石で入り、以後10代で明治となります。

雅楽頭酒井家(うたのかみさかいけ)は、酒井忠次で有名な左衛門尉酒井家(さえもんのじょうさかいけ)とは別系統で幕府初期の老中、大老であった酒井忠世が有名です。

 

  さて、今回の姫路城の写真は、私の兄に許可を得た兄からの借り物であることをお断りしておきます。

私自身は姫路城へは2度訪れており、最初は数十年前、2回目が90年代。

最初の写真はモノクロの10枚ぐらい、2度目は母の付き添いで城外に待機し、父のみが登城して私の写真は外からの数枚のみで、いずれも掲載に耐えうるものではありませんでした。

そろそろ姫路城へと思案していた矢先に工事が始まってしまい、現在に至るまで納得のいく私の姫路城の写真は無く、今回の措置となりました。

 

  駅前道路からの天守。

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  入り口となる菱の門。

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  西の丸から。

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  天守の下、備前丸。

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  天守から手前に三国堀、菱の門、向こうが西の丸。

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  三の丸広場と駅前通り。

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                                           撮影 2008/04/06

 

  2013年9月8日私の撮影で、駅前から素屋根で覆われた大天守。

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2014年2月18日 (火)

現存天守12城(11) - 備中松山城(岡山県高梁市 たかはしし)

 

高梁市は岡山からJRの伯備線で米子方面に向かう途中にあります。

特急で35分、普通電車で50分少々の所要時間。

 

  車でのお城へのアクセスは、5合目の城見橋公園から8合目のふいご峠までのシャトルバス運行日には城見橋駐車場までしか入ることができず、シャトルバスに乗換えが必要。

ただし、運行日以外はふいご峠(8合目)まで車で登ることができます。

ふいご峠からは天守まで距離にして700m、20分ほど。

 

  徒歩旅行者については駅前からの乗り合いタクシーの利用がお勧めです。

私も当日は乗り合いタクシーを利用しました。

一人でも可ですが1日4往復で往き帰りとも予約が必要です。

片道420円。

シャトルバスと乗り合いタクシーの運行、料金についてはこちらのリンク先を参照して下さい(高梁市観光協会)。乗り合いタクシーの予約先電話番号も掲載されています。

 

  8合目のふいご峠駐車場。

  駐車できるスペースは10台ぐらいでしょうか。

  左手奥に休憩所とトイレが見えます。

  登城道は右手奥から。

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  松山城への遊歩道。

  城名が同じなので愛媛県松山市のお城を伊予松山城、こちらは備中松山城と呼称します。

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  中太鼓丸の櫓台石垣。

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  櫓台から眼下に見える高梁市市街地。

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  大手入り口からの石垣群。

  樹木の左の小さな石柱には大手門とありました。

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  右下の櫓台石垣の対となっている場所が大手門跡と見られます。

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  さらに上へ。

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  石段の左側は現存遺構の「三の平櫓東土塀」。

  国重要文化財に指定されている貴重な遺構です。

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  上から。

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  坂を登ると右側に三の丸の広場。

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  三の丸を後にしてさらに上に。

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  この坂を登りきると二の丸。

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  登りきると本丸の復元櫓群。

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  二の丸にはベンチが備わっていて、休憩には便利です。

  誰もがこの角度で撮影する場所。

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  本丸へ入ります。

  本丸内と天守が有料。入館料は大人300円、小中学生150円。

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  松山城築城は13世紀、大松山に築かれたのが最初。

その後、14世紀に現在の天守がある小松山まで拡張されました。

戦国時代には三村氏が城主で、毛利から織田方についた三村元親は毛利氏と争い、天正3年(1575年)に落城、元親は自刃。

これにより松山城は毛利氏の領有するところと成ります。

 

  1600年の関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は周防・長門二国に減封され、松山城は小堀氏が城番を務めることに。

その後、元和3年(1617年)に池田長幸(いけだ ながよし)が6万3000石で入り備中松山藩が立藩されます。

池田長幸の父は池田輝政の弟の長吉であり、宗家の利隆流(光政流 岡山藩主)や忠雄流(光仲から鳥取藩主)と並ぶ長吉流の2代目。

しかし、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子無くして断絶改易。

さらに寛永19年(1642年)水谷勝隆が5万石で入るも3代目でやはり嗣子無く断絶(元禄6年(1693年))。

 

  その後幕府は検地を行い、元禄8年(1695年)になり、ようやく安藤重博が6万5000石で入部、安藤氏は2代で転封、替わりに石川氏が1代。

延享元年(1744年)その石川総慶が伊勢国亀山藩に転封され、入れ替わりに伊勢国亀山藩から板倉勝澄が5万石で入部。

その後は板倉氏が8代にわたり松山藩主を務め、明治に至ります。

 

  幕末の戊辰戦争では幕府側につき函館まで転戦、敗戦後2万石に減封等の厳しい措置を受けました。

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  天守から本丸内と外の二の丸。

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  天守内部。

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  天守に向かって右にある本丸東御門。

  脇の石段を上がり天守の後ろへ。

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  天守の後ろにある国重文の二重櫓。

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  これで本丸は出て、右側を奥に行きます。

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  先ほどの東御門を外から。

  少し振り返って。

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  搦め手門跡。

  右の石柱には搦手門曲輪とあります。

  ここから大松山の城跡へ行けるそうですが、道が崩れていました。

  石段を左へ。

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  後曲輪の石柱。

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  後曲輪からの二重櫓。

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  帰りの乗り合いタクシーは上りで女性一人が降り、下りは私ともう一人男の人の二人。

  二人とも駅前ではなく「石火矢町ふるさと村」の武家屋敷前で降ろしてもらいました。

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  撮影 2009/10/15

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2014年2月17日 (月)

現存天守12城(10) - 松江城(島根県松江市)

 

  現存天守12城の第10回目は島根県の松江城。

 

  松江を初めて訪れたのは随分昔の1993年。

当時、JRには均一周遊券という周遊切符があり、後にワイド周遊券やミニ周遊券等に改変されていきますが、山陰全体を大阪発着で2万円から3万円ぐらいでしたか、もう値段は忘れてしまいましたが、この周遊券はゾーン内乗り降り自由、特急、急行自由席が乗り放題という切符でした。

大阪から福知山線経由の夜行急行「だいせん」で米子まで行き、米子からは特急、急行(たしか急行「さんべ」だった)、普通を乗り継ぎ萩を訪れ萩で一泊。

あくる日は取って返して、安来(やすぎ)市の清水寺、松江の松江城を訪れ、その後岡山城に寄り道をして大阪に帰ったという思い出があります。

今日の写真は2009年に訪れた2回目の松江。

 

  さて、松江城ですが、築いたのは堀尾氏。

1600年の関が原の戦いで戦功のあった遠江国浜松12万石の堀尾忠氏が隠居料としての越前国府中5万石を得ていた父の堀尾吉晴とともに改めて出雲・隠岐の二ヶ国24万石で月山富田城(がっさんとだじょう)に入部。

忠氏の死後、吉晴の後見の下、忠晴の時、慶長12年(1607年)に現在に見る松江城の築城を開始、吉晴が直前に没した慶長16年(1611年)に完成を見ます。

そして、寛永10年(1633年)には忠晴が嗣子無くして没し、ここに堀尾家は断絶し改易。

堀尾家改易後、寛永11年(1634年)若狭小浜藩から京極忠高が11万3000石から加増されて24万石で松江藩藩主に。

しかし忠高は寛永14年(1637年)に死去、末期養子に甥の高和を立てるも認められず改易。

しかし、京極家の功に報いるために高和は龍野藩6万石で再興、その後丸亀藩に移封されます。

丸亀城の記事でその事には少し触れました。

  京極家の改易後、寛永15年(1638年)に信濃国松本藩より18万6000石で松平直政(越前松平家)が移封されて松江藩主となります。

以降松平家10代で明治に至りました。

松平家7代目藩主の松平不昧公(ふまい こう 松平治郷)は藩財政の立て直しによる財政好転により、かねての趣味であった茶道をよく好み、その結果、松江は京都・奈良・金沢と並ぶ和菓子の名所となり、さらに不昧公の好みは松江に文化的な香りを残しました。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  旧三の丸に島根県庁が収まっています。

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  再建された三棟の櫓の内二階建ての方が南櫓、右側が中櫓。

  奥に天守が見えます。

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  西の方をお堀越しに。

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  大手門を入り、さらに中に入って石段を登り本丸へ向かう途中に見える天守閣。

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  本丸内へ。

  ここで入場料を払います。

  大人550円、小人(小・中学生)280円、外国の方280円(小人140円)。

  「4館共通券」(松江城天守閣、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、武家屋敷)大人1160円、小人(小・中学生)580円。

  「3館共通券」(小泉八雲記念館・小泉八雲旧居・武家屋敷のうち2館と松江城天守閣)大人920円、小人(小・中学生)460円。

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  松江城天守。

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  天守内展示。

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  天守から入り口付近。

  遠くに宍道湖が見えます。

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  天守から左の石垣。

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  本丸の外、南側にある松江郷土館興雲閣。

  明治36年の建築で郷土資料の収集、保存がされています。

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  再び周辺地図。

  北西が搦め手でお堀を渡り北側には旧武家町の塩見縄手があります。

  塩見縄手は日本の道100選に選ばれており、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、武家屋敷等があります。

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  松江護国神社の前から遠くに赤い鳥居の城山稲荷神社。

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  搦め手門跡付近から稲荷橋。

  さらに向こうに見える新橋を渡り、右手が塩見縄手。

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  塩見縄手の道からお堀。

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  塩見縄手の道。

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  赤いバスは当時(2009年)のレイクラインバス。

  松江市内を観光するには松江市交通局の「ぐるっと松江レイクラインバス」が便利でお得。

  私も当日レイクラインバスを利用しました。

  運行頻度は20分毎。

  「レイクライン 1 日乗車券」は大人500円、小人250円。

  レイクラインを含む市営バス全線1日乗車券は900円(小人450円)。

  上記2種の乗車券で「松江城、小泉八雲記念館、武家屋敷、堀川遊覧船、県立美術館、松江歴史館、松江ホーランエンヤ伝承館、小泉八雲旧居、明々庵」が団体割引扱い(個人1人でもと言う意味)の特典があります。

  同じく「宍道湖遊覧船はくちょう号、月照寺」は1割引となります。

松江市交通局ホームページ。

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  武家屋敷。

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  東の方からの塩見縄手。

  左手(南側)はお堀です。

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  「松江藩主松平家墓所」のある月照寺。

  松江観光の最後に寄ってみました。

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  広い境内に歴代藩主の墓所があります。

  またアジサイ寺としても有名とか。

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  撮影 2009/03/31

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2014年2月14日 (金)

現存天守12城(9) - 高知城(高知県高知市)

 

  現存天守12城のうち第9回目は高知城。

 

  高知を初めて訪れたのは1997年の8月下旬でした。

そして2回目は2000年の8月初旬で、この時は時間の都合で高知城へは行かず、竹林寺の五重塔を訪れたのみで帰った記憶があります。

で、今日の記事での写真は3回目に訪れた2006年の12月暮れの写真で、デジタルでの写真。

2006年の旅行では夜行列車を利用してまず松山に着き、その後すぐに南に向かい、内子、伊予大洲、宇和島を経て高知県にその日のうちに入り高知市で一泊。

あくる日朝一番で高知城を訪れ、さらに土佐くろしお鉄道で安芸まで出かけ、安芸城跡や安芸の町を散策、そして、その日のうちに高松へ向かいフェリーの深夜便で関西に帰るという、多少無理筋の旅程でした。

これ以後には高知は訪れておらず、そろそろ訪れてみたいなあと考えています。

 

  さて、関ヶ原の戦いによる長宗我部氏改易に伴い山内一豊が掛川から土佐一国24万2000石で浦戸城に入ると、新たに慶長6年(1601年)から高知城の築城を始め、慶長16年(1611年)2代目の忠義の時代に現在の縄張りが完成しました。

享保12年(1727年)の高知城下の大火では追手門以外の城のほとんどが焼失、現在に残る高知城の建築はこれ以降に再建されたものであるそうです。

したがって現存の天守は焼失以降の延享4年(1747年)に再建されたもの。

高知城の建造物では天守を含む15棟が重要文化財に指定されています。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  追手門。重文指定。

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  城内にある板垣退助の像。

  我が岐阜市の岐阜公園にも板垣退助の像があります。

  かの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の由来である板垣退助遭難事件(岐阜遭難事件ともいう)は岐阜市で遊説中に暴漢に襲われた事件。

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  奥に詰門。

  石段を上がり右手へ行くと二の丸。

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  その石段から東に天守閣。

  朝なのでどうしても逆光となります。

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  本丸内に入って懐徳館(本丸御殿)と天守。

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  天守から三の丸の石垣修復工事を望んで。

  この工事はすでに2010年に完成を見ています。

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  暮れの12月28日という事で、大掃除で忙しい中での拝観となりました。

  拝観料(懐徳館(本丸御殿)と天守)は今年(平成26年、2014年)3月31日までは18歳以上400円、

  4月1日以降は18歳以上420円となります。

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  御殿前の黒鉄門から外へ出て振り返ったところ。

  天守、懐徳館(本丸御殿)、黒鉄門、詰門いずれも重文指定。

  下の写真の塀も現存遺構の重文だそうです。

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  詰門前に戻り、追手門から出ました。

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  撮影 2006/12/28

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2014年2月12日 (水)

現存天守12城(8) - 宇和島城(愛媛県宇和島市)

 

  現存天守12城の第8回目は伊予(愛媛県)の宇和島城。

  宇和島市は愛媛県でも南予といわれる南に位置する都市で、10世紀に乱を起こした藤原純友の根拠地であった日振島(ひぶりしま)が宇和島港から西に約28Kmの宇和海にあります。

初めて宇和島を訪れた際に、市内の喫茶店のマスターに日振島が港から近いと言われて、その時初めて宇和島は畿内からはさすがに遠いと実感したものです。

 

  さて、宇和島城は文禄4年(1595年)に宇和郡7万石で入った藤堂高虎により大改修が加えられ(慶長元年(1596年))、慶長6年(1601年)に完成を見て宇和島城と名付けられ、高虎は今治へ移り宇和島城には城代が置かれました。

慶長13年(1608年)に伊勢津藩より移封されてきた富田信高が10万1900石(12万石とも)で藩主となりここに宇和島藩が成立しました。

その後、慶長18年(1613年)富田信高は改易、翌年の慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男(庶子)である伊達秀宗が10万石で入り、以後9代、明治まで宇和島の地を治めました。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  南から登り、急な階段状の道をとると、苔むした石垣の間を通ります。

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  撮影 1998/07/28

 

  二の丸から本丸への坂から見た天守閣。

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  意外に大きい天守閣。

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  天守から港の方向。

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  以上 撮影 2005/08/10

 

  宇和島駅、予讃線を西側に越えて北西にある和霊神社。

  主祭神は宇和島藩家老 山家公頼(やんべ きんより)。

  公頼は家老として善政を敷き領民に慕われるも、讒言により殺害されてしまいます(和霊騒動)。

  公頼を慕った領民は密かに公頼一族の霊を祀り、その後、公頼の無実が判明すると藩主秀宗は公頼を祀る神社を創建し山頼和霊神社としました(承応2年(1653年))。

  現在の場所に遷座されたのは享保20年(1735年)。

  例祭である和霊大祭では同時に「うわじま牛鬼まつり」が催されることで有名です。

  一時、私は全国の祭りに興味を抱いた時期があり、その時代に「うわじま牛鬼まつり」の事を知りました。

  その関係で和霊神社を思い出し訪れました。

  建築自体は空襲で焼失しており、現在の神社は昭和32年(1957年)の再建です。

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  以上 撮影 1998/07/28

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2014年2月10日 (月)

現存天守12城(7) - 丸亀城(香川県丸亀市) 「石垣の美」

 

  現存天守12城の第7回目は四国讃岐国の丸亀城。

 

  四国を旅行する際によく利用する神戸からのジャンボフェリーの深夜便は高松には朝の5時に到着します。

そして高松駅から四国の様々な目的地、また岡山方面へ出発するのですが、少し時間があれば丸亀のお城を覗いてみることもしばしばで、四国では高松城とともに頻繁に訪れているお城です。

 

 

  現在ある丸亀城の築城は生駒親正が慶長2年(1597年)に高松城の支城として築いたのが始まりで、慶長7年(1602年)にほぼ完成します。

当初は生駒家高松藩の支城であり、丸亀藩が成立したのは生駒家第4代藩主の高俊の時代にお家騒動(生駒騒動)が起き、その生駒家の改易後の寛永18年(1641年)に山崎家治が丸亀城に5万石で入ったのが始まりです。

山崎氏は丸亀城の改修を行い、この時始めて現在ある丸亀城の縄張りとなりました。

そして万治元年(1658年)山崎氏は3代で無嗣断絶の改易、後任には播州竜野から京極高和が6万石で入り、3代目の京極高或(きょうごく たかもち)の時分封し多度津藩1万石が成立、本藩である丸亀藩は5万1000石となります。

なお、現在の丸亀城天守は初代の高和(たかかず)治世の1660年(万治3年)に完成しました。

そして寛文12年(1672年)、2代目の京極高豊(きょうごく たかとよ)の時、播磨の2村と近江の所領の交換を願い出て幕府に許され、その近江の所領の京極氏歴代の菩提寺清滝寺を復興し徳源院と名付け、歴代京極家の墓を集め、三重塔を寄進し整備。

これが現在柏原(かしわばら 現米原市)の清滝の里にある徳源院で、個人的には岐阜から近場であることから季節ごとによく訪れるお寺です。

過去記事の柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(2) - 清瀧神社と徳源院庭園

同じく柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(3) - 京極家墓所と徳源院三重塔の記事。

ちなみに、丸亀の京極家は近江源氏の末裔である京極家を信長、秀吉、家康に仕えて再興した京極高次、高知兄弟のうちの高次流。

 

  駅前からは東方向にある商店街を南に抜けると丸亀城大手門前の道路に出ます。

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  手前から大手二の門、内側の方が大手一の門。

  そして上に天守閣。現存12城のうち最も小さい天守です。

  天守、二の門、一の門いずれも現存遺構で重文に指定されています。

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  山の名前から別名亀山城とも言われているので亀山公園。

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  大手二の門、内側から。

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  大手一の門。

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  大手から一挙に登る道。

  見返り坂と呼ばれています。

  急な登り道で、途中振り返りたくなることからこのように呼ばれているそうです。

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  丸亀城の特色は石垣。

  石垣の美は、特に遠く下から見るとよくわかります。

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  丸亀城からの讃岐富士はまた格別。

  特に朝日の昇る前後は美しく、大好きです。

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  本丸の天守閣。

  初めて丸亀城を訪れたのは1996年の夏。

  丸亀城だけを見るために当時住んでいた大阪から日帰りで出かけました。

  もちろん時間が余った分で高松城へも寄り道をしました。

  まだ高松駅が民衆駅の駅舎だった時代です。

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  本丸からは瀬戸内海が一望できます。

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  当然、瀬戸大橋も見えます。

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  下りはお城の裏口にあたる搦め手(からめて)から。

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  三の丸の井戸。

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  普段の時間は必ず逆光となる讃岐富士。

  したがって丸亀城からの讃岐富士は朝夕がお勧めです。

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  搦め手門跡。外は一般住宅です。

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  搦め手口から東方向のお堀。

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  搦め手門跡から城内の周回道路を左手(西側)に大手の方向へ行くと御殿表門があります。

  旧藩主居館の表門でこちらも現存遺構。

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  大手門方向から振り返って。

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  撮影 2010/09/09

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2014年2月 8日 (土)

現存天守12城(6) - 松山城(愛媛県松山市) 「登り石垣」も見所

 

  現存天守12城の第6回目は愛媛県松山市の松山城。

 

  松山城は1602年(慶長7年)加藤嘉明が築城を開始。

ただ、Wikiや松山市のHPでも完成時がいつであったかは明示されていません。

1627年(寛永4年)加藤嘉明は松山城の完成前に会津若松へ20万石から40万石に加増され移封。

替わりに蒲生忠知が24万石で松山藩主として入部。

蒲生家は本藩である会津藩の蒲生忠郷が嗣子を残さず死去し改易。
しかし、母が徳川家康の娘という配慮から、上山藩主であった弟の忠知が蒲生家を継ぐことを許され松山藩へ転封されました。

しかし、1634年(寛永11年)その蒲生忠知も死去し、ここに蒲生家は断絶となります。

翌年の1635年(寛永12年)桑名から松平定行が15万石で入部、以後15代、松山藩主として続き明治に至ります。

松平定行は定勝系久松松平家の2代目。

久松松平家は徳川家康が母である於大の方の再嫁先の久松俊勝との間の異父弟3人に松平姓を与えたのが始まり。

家康の異父弟である久松松平家には松平康元、勝俊、定勝の三系統があり、三男の定勝系が最も栄え、定勝の6人の男子の内、次男定行は兄の早世により宗家を継ぎ伊予松山藩15万石、三男定綱は桑名藩11万石、五男定房が今治藩3万石とそれぞれの藩祖となり、ほぼ明治までそれぞれの藩を治めました。

他の男子は旗本として子孫に受け継がれ明治に至っています。

そして松山藩の久松松平宗家からは1000石の旗本が分家し、その子孫が元NHKのアナウンサーであった松平定知さん、というのは最近では皆さんもかなり周知の事実です。

過去記事の阿久比町(愛知県)の坂部城跡を訪ねる(3) - 坂部城跡(久松松平家の発祥地)はこちら。

 

  大街道(おおかいどう)電停もしくはバス停から北に行くと松山城ロープウェイ・リフトがあります。

  大人往復500円(小人(小学生)往復250円)、片道はそれぞれ260円、130円です。

  ロープウェイ・リフト同額でどちらを選択しても良い。

  帰りは歩いて下りるも良しです。

  私の場合は往復券を購入して、帰りは大手門跡から黒門道を歩いて下まで下り、片道分がふいとなりました。

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  大手門跡。

  ここから黒門道を下り二の丸から三の丸(堀之内)へ行けます。

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  大手門跡の横から太鼓櫓。

  遠くに天守群のうちの小天守が見えます。

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  太鼓櫓下から戸無門(となしもん)。

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  戸無門から筒井門、太鼓門を経て本丸内に入ります。

  松山城天守と左が小天守。

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  ここからは入場料が必要です。

  入場料金は大人500円、小人(小学生)150円です。

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  天守、小天守等の内部。

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  紫色の部分が重要文化財指定。

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  小天守から天守広場。

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  天守から艮門(うしとらもん)と艮門東続櫓。

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  天守から本丸内。

  桜は残念な状態でした。

  右、手前から馬具櫓、向こう太鼓櫓。

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  天守閣の前にある天神櫓。

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  再び本丸の広場へ出ました。

  元の道を戻り大手門跡へ。

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  大手門跡。

  このあたりで○○○さんという地元のお城好きの方と偶然話を交わし、この後黒門道を下りながら案内して頂きました。

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  黒門道を下ります。

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  二の丸の二之丸史跡庭園の外。

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  二之丸史跡庭園入り口。

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  二の丸から右上に登っている「登り石垣」。

  こちらの南側の登り石垣はほぼ完全に残っていますが、北側は一部分のみ残っているそうです。

  登り石垣は山腹からの敵の侵入を防ぐ石垣で、朝鮮出兵時に倭城築城の際に採られた防備手法。

  彦根城などにも見られるそうです(何度も訪れているが気づかなかった)。

  松山城では○○○さんの案内で教えて頂き、初めて気づきました。

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  三の丸(堀之内)から山麓の二の丸と山上右から太鼓櫓、馬具櫓、天守群。

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  天守群。

  手前右が小天守で天守はその後ろ。手前左は天守群のうちの南隅櫓です。

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  堀之内から出て帰途へ。

  そのまま歩いて大手町の伊予鉄道の平面交差の写真を撮り、その後松山駅へ向かい、17時過ぎの電車で松山を離れました。

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  撮影 2011/04/06

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2014年2月 7日 (金)

現存天守12城(5) - 弘前城 (青森県弘前市) (現存天守、三つの現存櫓、五つの現存門)

 

  さて、2月になり、ココログのアクセス解析が改悪されて(実際には12月から、利用者が一番大切にしている生ログを1月限りで打ち切る)、乗り替えをも視野に入れての研究にかまけて、つい更新が滞りました。

4月頃には生ログを復活させると運営側が発表しているものの、現在ではビジュアル重視の何の役にも立たないアクセス解析となっています。

とはいえ、移転にはダメージが伴い、したがってもう少しスタッフさんの様子を見てみようと決心しました。

更新滞って御免なさい。

 

  現存天守12城の第5回目は青森県の弘前城です。

弘前城は元は大浦氏を称していた津軽氏の居城で、弘前藩初代藩主の津軽為信が関ヶ原の戦い(1600年)以後に築城を開始し(1603年)、2代目津軽信枚(つがる のぶひら)の代の1611年に完成しました。

当初は5層5階の天守が築かれるも寛永4年(1627年)に落雷で焼失。

その後、文化3年(1806年)に樺太、択捉の日本の拠点へのロシアの攻撃があり(文化露寇)、幕府は3000名の軍を蝦夷地に派遣し、津軽藩も100余名を派遣。

津軽藩兵は斜里郡に陣屋を設けるも、越冬の際に72名が死亡するという事件を引き起こします(津軽藩士殉難事件(つがるはんしじゅんなんじけん)1807年)。

この派兵で1808年(文化5年)に、それ以前に蝦夷地警備で7万石に加増されていた石高がさらに10万石に加増され、この際に3階櫓の築造を幕府に願い出て許されます。

これが現在にまで残る弘前城天守です(1811年に完成)。

さらに交代寄合の旗本であった黒石津軽家に6000石を分地し、ここに支藩である黒石藩1万石が成立(文化6年(1809年))。

 

  現在の弘前城には現存天守の他にも三棟の現存櫓、五棟の現存門が存在し、何れも国重文に指定されています。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

Hirosakizu


大きな地図で見る

 

  南側に位置する追手門から入り、北に向かって北門から城外に出る道順をとりました。

  追手門。
 

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  三の丸を北に向かいます。

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  やがてお堀を隔てた二の丸へ。

  お堀越しの右側にある二の丸辰巳櫓(たつみ やぐら)。

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  お堀越しの左側にある二の丸未申櫓(ひつじさる やぐら)。

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  三の丸から二の丸へ南内門を入ります。

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  本丸南東隅にある弘前城天守(御三階櫓とも)。

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  天守内から橋を見下ろして。

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  本丸内側からの天守。

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  本丸西から見える津軽富士(岩木山)。

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  北側から天守。

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  二の丸丑寅櫓(うしとら やぐら)。

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  二の丸東門。

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  三の丸東門。外から。

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  二の丸丑寅櫓(うしとら やぐら)。別方向から。

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  一番北にある北の郭北門(亀甲門)内側から。

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  北の郭北門(亀甲門)外側から。

  お堀を見ながら外に出ます。

  道路の反対側に現役の商家 石場家住宅があります。

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  撮影 2012/09/08

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