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2014年3月12日 (水)

深溝城跡(ふこうず じょうせき 愛知県幸田町)を訪れる(3) - 深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)菩提寺 本光寺(ほんこうじ)(1)

 

  本光寺は1523年(大永3年)に深溝松平家の初代当主である松平忠定が開基した曹洞宗の寺院で、深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)の菩提寺。

また参道沿いにアジサイが見られるアジサイ寺としても有名だそうです。

 

  現在のJR三ヶ根駅周辺が深溝城(ふこうずじょう)の跡で、松平宗家三代目の松平信光の七男忠景の子である松平忠定が大庭氏(大場氏)に替わり城主となり、以降、忠定の子孫は深溝松平氏と呼称されるようになります。

深溝城には第4代目の家忠まで在城し、天正18年(1590年)小田原征伐により関東の後北条氏が滅ぶと徳川家康は関東に移封され、松平家忠もそれに伴い関東へ。

忍城(おしじょう 埼玉県行田市)を本拠に(城主は家康の四男松平忠吉で10万石、忠吉が幼少で忍城は家忠預かり)武蔵国埼玉郡に1万石を与えられます。

松平忠吉が長じると松平家忠は下総国小見川(千葉県香取市)へ移封。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは鳥居元忠らとともに伏見城守備に任ぜられ、関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城し松平家忠は討死。

これ以前にも深溝松平家2代目松平好景は前回の記事でも触れたとおり、松平元康(徳川家康)の三河統一戦のひとつ善明堤の戦いで討死(1561年)。

そして三代目の松平伊忠(まつだいら これただ)は家康初期の主要な戦いに参戦して大いなる武功を挙げるも、天正3年(1575年)の長篠の戦では酒井忠次率いる別働隊に加わり鳶ヶ巣山の攻略に成功後、追撃戦で逆襲を受け討死。

こうして深溝松平家は当主が三代続けて戦死をするという不運に見舞われました。

 

  その後、松平家忠の跡を継いだ5代目松平忠利は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの翌年には深溝(ふこうず)に返り咲き1万石で深溝藩が成立。

忠利はその後三河吉田藩へ3万石に加増されて移封。

忠利の没後、その子の忠房は吉田藩から三河刈谷藩3万石、丹波福知山藩4万5000石を経て寛文9年(1669年)6万5000石で肥前島原藩藩主となり、一時的に宇都宮藩に移封されるも、深溝松平家はその後も島原藩主を務め明治に至りました。

  なお、5代目忠利が慶長17年(1612年)三河吉田藩に移封後に深溝藩は一時廃藩となり、深溝城も廃城、以後の板倉家深溝藩2代は陣屋を政庁としたため、深溝城(ふこうずじょう)の歴史も忠利の時代で終焉となりました。

 

  本光寺参道。アジサイの参道。

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  山門。

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  山門から参道を振り返って。

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  山門横の説明板。

Dsc00110

 

  同じく本光寺の説明板。

Dsc00112

 

  山門から短い石畳の坂を上がります。

Dsc00114

 

  本光寺境内図。

  ここから右手へ行くと東御廟所。

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  本堂前にある梵鐘。

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  本堂と本堂前の梅林。

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  本堂前から梅林の奥には西御廟所があります。

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  第5代当主松平忠利公廟の肖影堂。

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  肖影堂の後ろの願掛け亀へ。

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  願掛け亀のある高台から本堂と梅林。

Dsc00228

  撮影 2014/03/08

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コメント

松平宗家三代目の松平信光の七男忠景の子である松平忠定が大庭氏(大場氏)に替わり城主となり>
最近ではこの系図に疑義が挟まれ、忠景は信光の孫かその子孫で、1523-26年に深溝城に移っていたという説があるそうです。
幸田町教育委員会「深溝本光寺は墳墓の地なり」(www.town.kota.lg.jp/index.cfm/12,23575,c,html/23575/20120817-174339.pdf)
元のページは「島原藩主深溝松平家の文化財調査」(www.town.kota.lg.jp/index.cfm/12,23575,212,html)
またもや系図に疑いですが、どうも近世より前の系図は全面的に見直される必要があるようです。

忍城「のぼうの城」は、まだ東京にいる頃にしきりにテレビで映画を宣伝していました。熊谷には何度か行ったことがありますが、隣りの行田市にまで足の伸ばせなかったのは残念です。離れてしまえば、いろいろ心残りが生じるものですね。

投稿: ddol | 2014年3月14日 (金) 19時42分

ddol さん、リンク先有難う御座いました。
読んでみました。

幸田町のホームページにあったのですね。ddol さんにはその内の一本を紹介してもらった訳ですが、HPのもう一本の方も読んでみましたがなかなか興味深かったです。

系図に疑義があるのはどの大名家にも付き物ですが、松平家にもやはりあるんですね。
深溝城に関しても、系譜上の疑義と絡んでいるのですが、忠定が初代であったかどうかも含めて疑義があるそうです。
松平家宗家も三代目の信光が突然のように安祥(安城)城に進出してきますが、その前の二代がよく分からない。
このあたりは資料を読んだわけでは無いので、何とも言いようがないのですが、信光からの唐突感が不思議です(もちろんこれは完全に推測)。

この間、本光寺行ってみて疑問に思っていたのは、本光寺は陣屋のあった板倉領であったのかどうか、ということでした。
というのも滋賀県米原市柏原にある京極家墓所は、わざわざ播磨(でしたか?)の領地と交換して丸亀藩領として昔の本貫地を得たというのを聞いていましたので、疑問に思っていました。
しかし、その疑問は幸田町のHPにあるもう一つの「菩提寺と廟守~深溝松平家の葬儀事情」を読んで解決しました。

こうして見ると、各大名の菩提寺や家祖等を祀った神社など、一つ一つ見て回るのも面白いです^^

投稿: mino | 2014年3月15日 (土) 07時50分

追記

ddol さん、今記事を書いている途中で思い出しましたが、忍城へは2002年に行きました。

熊谷から電車に乗って行田へ行きましたが、あれ秩父鉄道なんですね。
あの時初めて秩父鉄道がこんな所に来ているんだと気づきました。

その先の東武伊勢崎線?から加須へと言う過程で加須を「かぞ」と呼ぶんだと知りました。
ここから南西方向の騎西にお城風の建物があり、そこまでは調べたのですが、ここはさすがに行かずじまいとなりました。

関東にはまだ行きたいところが一杯あるのですが、なかなか関東は地理感が無く難しいです^^;

投稿: mino | 2014年3月15日 (土) 14時08分

信光からの唐突感が不思議です>
近年系図の見直しをしている人々の動機もこのような疑問だそうです。今まで看過されていた点に目が向くようになったのでしょうね。
論文を何本か読んでみて感じたことですが、系図研究は写本研究に似ています。伝承の系列化、改竄が認められる時にはその意図の解明など、広範な知識が要求される特殊な分野だと思います。続々研究が出ているので、いずれ松平氏の系図も復元されるでしょう。

熊谷から電車に乗って行田へ行きましたが、あれ秩父鉄道なんですね。
あの時初めて秩父鉄道がこんな所に来ているんだと気づきました。>
私もまったく同じ感想を持ちました。方向が違うだろう、と。
行田から通っている人がいて、さきたま古墳群のことはいろいろ教えてくれましたが、忍城の話はありませんでした。『のぼうの城』で有名になったのでしょうね。

投稿: ddol | 2014年3月16日 (日) 20時19分

論文を何本か読んでみて感じたことですが、系図研究は写本研究に似ています。伝承の系列化、改竄が認められる時にはその意図の解明など、広範な知識が要求される特殊な分野だと思います。続々研究が出ているので、いずれ松平氏の系図も復元されるでしょう。
>なるほど。系図の見直しは歴史的事実の見直しとも密接にかかわっていますので研究の成果が待たれますね。

さきたま古墳群
>こちらも多少調べましたが、ここを目的地にして訪れることはまず無いでしょうから、大宮の鉄道博物館と絡めて行くのがベターかなと思ってます^^。

『のぼうの城』
>主人公が地味な人なのでよく小説になったと思ってます。大河では低視聴率間違い無しで絶対出来ないでしょうね^^;

投稿: mino | 2014年3月17日 (月) 00時10分

大宮の鉄道博物館>
これは秋葉にあった交通博物館が移転したものですが、名前を見ると鉄道に特化したようで、船舶や航空機の展示物は処分されてしまったのでしょうね。便のいい場所にあり、それなりに人がはいっていて赤字だとも思えなかったので、移転のニュースを聞いた時は驚きました。閉館は2005年頃だと思いますが、その後も建物はそのままで、取り壊されたのが2011年。今でもなぜ大宮に移したのかは謎です。
弁天町にある大阪の交通科学博物館もこの四月で閉館となります。鉄道ファンが拡大している中、こうした動きは理解に苦しみます。

投稿: ddol | 2014年3月18日 (火) 19時37分

これは秋葉にあった交通博物館が移転したものですが
>ああ、そうだったんですか。
たしかに大宮というのは面白い場所?に作りましたね。
一度は行って見たいと思ってます^^

弁天町にある大阪の交通科学博物館もこの四月で閉館となります。
>そうらしいですね。けっきょく一回も行かなかった。
弁天町の博物館は子供向けの印象があって入りにくくて^^;
大人も入れるコンセプトで代替施設を作って欲しいですね。


名古屋の金城ふ頭にあるリニア鉄道館も飯田線の佐久間レールパークが移転したとも言えますね。

九州では同じような施設が門司港駅に隣接してありますが、そこで大変懐かしいキハ07という気動車を見ました^^・

投稿: mino | 2014年3月19日 (水) 00時35分

>『のぼうの城』で有名になったのでしょうね。
>>主人公が地味な人なのでよく小説になったと思ってます。大河では低視聴率間違い無しで絶対出来ないでしょうね^^;

低視聴率は間違いないけど、おいらとしては関東とか九州の戦国史をやってほしいです。
毎日新聞に載ってたので知ったんやけど、今年は三好長慶没後450年とのこと。
四国、畿内の戦国史(信長以前ね。信長以後は当分やめたら)もやってほしいです^^

投稿: tera | 2014年3月20日 (木) 06時23分

>>関東とか九州の戦国史をやってほしいです。
>>四国、畿内の戦国史(信長以前ね。信長以後は当分やめたら)もやってほしいです^^

>信長以前というのは意外に知りませんね。
私もよく知らない。
まず、どんな武将がどの地域に居て、誰と争っていたかとか言うのが、まったく浮かばない。

以前に摂津有馬氏の動向を記事のために調べましたが、赤松と山名が常に争っていたという事は分かりましたが、時系列がまずはっきりしないし、どの地域に誰が居たかもよく分からない^^;
そういうまとまった文献や本が「図入り」で出版されていたらなあ、と思います。

九州や特に関東の話となるともうこれは言わずもがなです^^;

投稿: mino | 2014年3月20日 (木) 19時35分

>そういうまとまった文献や本が「図入り」で出版されていたらなあ、と思います。
それで、「図入り」でけっこう重宝してるのが、学研の歴史群像シリーズ。例えば、

歴史群像シリーズ12 戦国九州軍記
歴史群像シリーズ14 戦国北条五代

畿内の戦国は、いくつか小説が。たとえば、

宮本昌孝、剣豪将軍義輝、徳間文庫
安部龍太郎、神々に告ぐ、角川文庫

投稿: tera | 2014年3月22日 (土) 05時34分

tera さん、ありがとう^^

期待通りに出して頂きました。
メモしておきます。

安部龍太郎は始めて聞きました^^;

投稿: mino | 2014年3月22日 (土) 06時08分

ご無沙汰しております。tera2です。
昨日は、岐阜にてお世話になりました。

12日ぶりに香川に帰りました。
たぶん天下一クラス…の北京城と
天下統一を目指す岐阜城の連続訪問でした。

北京の城壁はほぼ壊滅で、故宮以外では天安門前の城門だけが残っています。
まぁ、城と街との区別が微妙ではあるんですが。


岐阜城は山の上にあって、下から見上げると美しい城でした。

下の信長居館址も楽しかったです。
居館のCG再現とかして欲しいですね。
常在寺の斎藤道三画像や岐阜大仏も楽しめました。

で、今日ストリートビューでもう一度見てみました。
結構寄れるなぁと驚いて、次は岐阜城…城内が見えるw
さらに展望台の風景が見えるw。
最近の充実っぷりはびっくりです。


昨日話題に出た桑名藩は、寛政の改革の松平定信の直系でした。
水野忠邦とごっちゃにしてすみませんでした。
高須4兄弟の一人なのもご指摘のとおりでした。
松平定信…やっぱりイヤなやつだなぁ。
(wikipedia>桑名藩>久松松平家の時代(第二期))

月曜で行き損ねた博物館関連制覇に、また伺いたいです。
三河の話に割り込んだ形ですみません。

投稿: tera2 | 2014年3月25日 (火) 21時14分

昨日は、岐阜にてお世話になりました。
>いいえ、とんでもありません。
あそこに案内すればよかったとか、後でいろいろ考えると、どうも拙い案内となってしまいました。
もしよければ、またお越しくださいね^^

北京の城壁はほぼ壊滅で、故宮以外では天安門前の城門だけが残っています。
>そうですか。城壁の概念が日本とは異なるので、一概には断言できませんが、街の拡大には城壁は邪魔な存在なんでしょうね。

ストリートビュー
>最近のストリートビューは、よりきめ細やかになっていてびっくりしますね。
本当に小さな路地にまで入り込んでいます。

松平定信…やっぱりイヤなやつだなぁ。
>あっ、そうなんですか?
松平定信については余り知らないのですが、なんかそんなエピソードでもあるんでしょうか?

月曜で行き損ねた博物館関連制覇に、また伺いたいです。
>ええ、気軽に来て下さい^^
こちらは暇を持て余していますので^^;

それから岐阜城は長良川の北側から見ると見栄えが良いのに、月曜にはそれを失念していて、案内できなかった悔いが少し残っています^^;
そういう意味でもまた来て頂いたら、こちらも嬉しいです。

また、tera2さんの都合がよければ、いつか高松で・・^^.


投稿: mino | 2014年3月26日 (水) 09時05分

minoさん
>期待通りに出して頂きました。
先週の「鉄道と旅行」のオフ会?で、もう少しこの話しをしようと思ってたんやけど、忘れてたわ^^;久しぶりの久保惣美術館や松尾寺、楽しい一日でした。

tera2さん。中国にいってたんや。ご無沙汰^^;(雰囲気悪くなってるので、一度連絡してね)

>松平定信…やっぱりイヤなやつだなぁ。
>>あっ、そうなんですか?
>>松平定信については余り知らないのですが、なんかそんなエピソードでもあるんでしょうか?

うんうん、書いてほしいな。まあ、おいらも「イヤなやつ」の印象があるので、コメントしたいです。

投稿: tera | 2014年3月29日 (土) 06時10分

松平定信について、特に詳しいわけでもないのですが…

まず幕府の老中としての定信の業績というと
1.田沼政治の否定
2.寛政異学の禁
そうして、大名としては
3.桑名への領地替えの圧力
があげられるわけですが、
1.がらみのさかうらみとねちっこさだけでもうんざりなのに、2.宗教的な感じもする朱子学礼賛、学問規制、の反面、豊かな土地への国替えをごり押しする辺り、褒められた人物とは思えない。
「この辺、いやな奴だなぁ」、につながります。

政治家が変な信念とコンプレックスをもって学問の世界に口出しするのは、某首長(×2)辺りでうんざりですが、この人は老中就任に自分は賄賂を使っているあたりがさらにいやらしい。

まぁでも、この辺はありきたりな話なので、ここはいつものように香川に絡めて見ます。

松平定信には、ブレーンがいます。いわゆる「寛政の三博士」
佐賀の古賀精里、愛媛(川之江)の尾藤二洲と、香川の柴野栗山です。
柴野栗山は寛政異学の禁の主導者で、業績からいうとわりとヤな奴だと思うのですが、当然地元では人気です。
この人の生まれは、屋島の東向かいの五剣山の麓、八栗でして、山田屋という大きなうどん屋のすぐ近く。ここのうどんはお勧めです。

この人は結局徳島藩に仕えて、さらに定信にスカウトされて幕官となります。
あんまりいない香川の有名人の一人なんで、地元には栗山記念館(http://www2.plala.or.jp/rituzan/rituzan/index.html)
なんてのができてますが、行ったことはありません。
栗山の業績として、「質素倹約、財政を整理して天下の金融をよくする」なんてことが書いてあるので、まぁ、今後も行かないかと。

戦争なんかの大消費がないのに民需を抑制する政策を称賛できる感性は、今時すごいなぁと思います。

投稿: tera2 | 2014年4月 1日 (火) 23時17分

teraさん、tera2さん、遅くなって申し訳ありませんでした。

PCの不調で一昼夜解体作業^^;

久しぶりの久保惣美術館や松尾寺、楽しい一日でした。
>私も久しぶりに楽しかったですよ。
あの後、天王寺MIOでKyonさんと食事をして、全部奢って貰いました^^・

松平定信の話、いずれも、改革者と後世から言われる人は1から2までのような事は普通にやってますね。
当時の為政者の酷さは、特に一揆の始末によく表れていますが、皆同じような物という印象があります。

で、天保の改革の水野忠邦は定信と同じことを、つまり3を実行に移しています。
うろ覚えですが唐津から浜松へ転封したのがそれです。
ただし、彼は失脚すると、失脚者の行き先として多くの先人と同じように山形藩へ飛ばされてしまいます。
山形藩はそういう藩としての位置づけがあったようです。

戦争なんかの大消費がないのに民需を抑制する政策を称賛できる感性は、今時すごいなぁと思います。
>おらが郷土の人は、特に希少価値の郷土人は何でもヨイショされますね^^・

屋島の東向かいの五剣山の麓、八栗でして、山田屋という大きなうどん屋のすぐ近く。ここのうどんはお勧めです。
>これは頭の中にしっかりとメモしておきました。別に大きなうどん屋でなくてもいいんですがね^^

tera2さん、また暇があったらお会いしましょう。
いろいろな話が聞けて楽しいです^^

さて、teraさんは定信をどう見ているんでしょうか?


投稿: mino | 2014年4月 2日 (水) 23時36分

松尾寺のコメントもそうなんやけど、遅くなってしまいました。
娘の岡山移住に関わる雑事が多くて、この春は満足に桜も見れてない^^;
それでも、minoさんの「お花見記事」に触発されて、この週末、堺・妙国寺へ夜桜見物に。
この時期(4月第1週の週末)、堺市は「堺文化財特別公開」というのをやってて、初公開の寺社とかいろんなイベントがあります。

tera2さん
>政治家が変な信念とコンプレックスをもって学問の世界に口出しするのは、某首長(×2)辺りでうんざりですが、

一人はわかるけど、もう一人は誰^^

>柴野栗山
知らんかったわ。香川にいった時には案内してほしいです。

minoさん
>山形藩はそういう藩としての位置づけがあったようです。

そうなんや。面白い。山形藩、調べてみます。

讃岐のうどん屋さん、山田屋はtera2さんに連れて行ってもらいました。美味しかったよ^^

江戸時代の改革。「改革」という名を、誰がつけたんやろ?
身分制秩序を越えていくマーケットの動きに対して、それを手なずけようとする政治家がでると、当然のことながら彼らを潰しにかかる「改革者」(荒井白石からかな)が現れる。これって「反動」なんやないのか。いつも不思議に思うんや。
まあ、そう思うのも「現在から歴史を裁く」考えの一種かも。それなら「改革」と名づけたのは、どういう時代なんやろと。

投稿: tera | 2014年4月 6日 (日) 05時53分

堺・妙国寺
>何年か前、阪堺電車の旅をした際に妙国寺は少し下調べをしましたが、けっきょく時間が無くて大阪住吉の方へ過ぎてしまいました。
堺事件を扱った森鴎外?の小説を読んだことがありますが、切腹の場所が妙国寺だったんですね(後で知った)。

山形藩は面白いですよ。
お城は最上氏の約50万石時代に造られたのに、最上氏の改易の後は領国が現在の山形市ぐらいに縮小されたにもかかわらず、あのどでかい城を維持するのには難渋したのではと。

江戸時代の改革。「改革」という名を、誰がつけたんやろ?
>教育用語なので為政者目線で御用学者が考えたのでは。
まあ、教育、特に公教育は為政者目線で教えるのが普通で、あとは学問の自由と知る権利が守られていれば、真実は探し出すことができるんですけどね。

まあ、そう思うのも「現在から歴史を裁く」考えの一種かも。それなら「改革」と名づけたのは、どういう時代なんやろと。
>なるほど、難しいですね。
ただ、世界は必ずしも事実を尊重しているとは思えず、なにか事実関係にすら政治的な思惑があるというのは、見ていてあまり気分の良い物ではないですね。

投稿: mino | 2014年4月 6日 (日) 16時28分

堺・妙国寺
蘇鉄と桜がライトアップされてた枯山水の庭。見事でしたよ。禅寺かと思ってたんやけど、日蓮宗のお寺でも、こういう庭をつくるんやね。

>堺事件を扱った森鴎外?の小説を読んだことがありますが、切腹の場所が妙国寺だったんですね
うんうん、おいらもその小説を読んだ記憶があるんやけど、どこかの浜で切腹したんやろうと^^;
それと、家康の伊賀越えの起点も妙国寺ということも今回行って思いだしました^^;

最上氏
最上氏に関しては、山形をめぐって伊達と熾烈な争いをやってたイメージと、関ヶ原戦争ではその伊達とともに東軍に属し、上杉と闘ったくらいしか印象がなくて。改易されてたんや^^;

投稿: tera | 2014年4月12日 (土) 07時13分

堺・妙国寺 日蓮宗のお寺でも、こういう庭をつくるんやね。
>確かに蘇鉄はいかにも堺らしいですね^^一回その枯山水行って見たいです。

それと、家康の伊賀越えの起点も妙国寺ということも今回行って思いだしました^^;
>へ~!そうだったんですか。それは知りませんでした。

最上氏
>最上氏の改易は家臣間の争いが跡目争いに絡んでの改易だったと記憶しています。
あと、家臣間の争いで改易されたのが津山の森家。
江戸初期の改易では無嗣子の改易が多いのですが、お家騒動で二代目、三代目が家臣を収められず改易になる場合もかなりあったのでは。

投稿: mino | 2014年4月12日 (土) 17時26分

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