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2014年3月

2014年3月31日 (月)

近場の花見2014年 - 新境川堤(岐阜県各務原市)の桜(1)

 

  どこの土地にも、それが大都会であろうが中小市町村であろうが、おらが町の桜の名所というものがあります。

そんな地方の桜の名所である岐阜市の東隣にある各務原市(かかみがはらし)の新境川堤の桜を見てきました。

 

  各務原市(かかみがはらし)は東西に長い市域を持つ人口15万人足らずの都市です。

元々は那加町、蘇原町、鵜沼町と東西に並んでいた三町と稲羽町が1963年に合併して誕生した市でした。

したがって、市の中心部の無い、もしくは定めがたい都市として現在にまで至っているのは成立の経緯から見れば仕方のない事とも言えます。

2004年に川島町が編入されたことにより、市域の南側は木曽川を挟んで愛知県との県境をなしています。

また各務原市は、航空自衛隊の岐阜基地があることで有名で、戦前は陸軍の各務原飛行場があり、隣接の川崎重工では「飛燕」戦闘機などが生産されていました。

 

  さて、新境川ですが、名鉄新那加駅の西に高田橋駅という駅がありますが、その横を流れる川を境川と言います。

境川はたびたび洪水を引き起こし、そのために境川から放水路を分流させるという治水上の必要が生じ、その完成した放水路が境川放水路で、この境川放水路を一般的に新境川と呼ぶようになったという歴史があります。

放水路が造られたのは戦前の話で、その放水路にソメイヨシノを植えたのが現在の新境川堤の桜の初めという事です。

 

  名鉄岐阜駅 各務原線(かかみがはらせん)ホームの5、6番線から出発。

  「市民公園前駅」が下車駅。名鉄岐阜駅からは普通電車で15分足らず。

  「市民公園前駅」は急行通過駅。

  向こうの急行に乗車したために目的駅の一つ手前の新那加駅で待機する羽目となりました。

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  新那加駅で後続の普通電車を待ちます。

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  後続の普通電車がやって来ました。

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  線路脇から新鵜沼、犬山方面を。

  桜は駅から北が中心。

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  正式名称は境川放水路、一般的には新境川と呼ばれる川の両岸に桜並木があります。

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  名鉄電車の各務原線とJR東海の高山線は岐阜から鵜沼まで並行している競合路線。

  太多線経由の岐阜発 多治見行き普通 キハ11の2輌編成。

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  名鉄の「市民公園前駅」から川の東岸を北へ歩いてこの橋で西側へ。

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  遠くに見える赤い橋まで西岸を北へ歩きます。

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  撮影 2014/03/31

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2014年3月29日 (土)

JR四日市駅にて - 2014年3月中旬の日曜日 臨時急行「いせ」に出くわす

 

 

  亀山市にある東海道東海道五十三次の47番目の宿場町である関宿へ向かう途中のJR四日市駅。

  快速「みえ」乗りたさに無理をして、JR四日市駅で長い待ち合わせ時間が発生してしまいました。

JR四日市駅からは津駅までを最短距離で結ぶ伊勢鉄道が発着します。

亀山までの関西本線と津までの伊勢鉄道が運賃計算上において分岐するのは次ぎの河原田駅。

ただ快速「みえ」や特急「ワイドビュー南紀」はすべて伊勢鉄道を経由し、さらに河原田駅を通過するのでJR四日市駅から実質的に伊勢鉄道内に入った感じがします。

また、伊勢鉄道は青春18切符適用外の路線ですので、18切符で快速「みえ」を利用する場合には河原田~津間の運賃が必要となります。

 

  近鉄四日市駅に比べると駅前が寂しいJR四日市駅前。

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  この緑の中央分離帯のある中央通りはJR四日市駅と近鉄四日市駅を直線的に結んでいます。

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  JR四日市駅のホームは1本のみ。

  そのホームの南側にある切り欠きの3番線が伊勢鉄道専用。

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  四日市と津を結ぶ伊勢鉄道は非電化路線です。

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  名古屋方面から接近してくる臨時急行「いせ」キハ85系3両編成。全車指定席。

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  臨時急行「いせ」は明日3月30日が今回の運行の最終日です。

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  名古屋方面からやって来た亀山行き快速313系4両編成。

  JR四日市からは各駅に停車します。

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  撮影 2014/03/16

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2014年3月27日 (木)

名古屋駅にて - 2014年3月中旬の日曜日

 

  今年(2014年)の3月中旬の日曜日、関西本線の電車待ちの際の名古屋駅。

久し振りに紀勢線特急の「ワイドビュー南紀」を見かけました。

この後、目的地に早く着く電車をわざわざやり過ごして無理やりの快速「みえ」で四日市駅まで向かいました。

 

  紀勢線特急「ワイドビュー南紀1号」 キハ85系 紀伊勝浦行き。

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  10、11番線?ホーム南端から「あおなみ線」。

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  先発の区間快速四日市行き 211系。

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  目的地から帰って来た午後の名古屋駅にて。

  快速「みえ15号」鳥羽行きキハ75形と高山線特急「ワイドビューひだ15号」高山行き キハ85系の並び。

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  撮影 2014/03/16

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2014年3月26日 (水)

松尾寺(大阪府和泉市)を訪ねる - 昔は、大阪府でも秘境の地も、今は新興住宅地が間近に

 

  昔は大阪府でも秘境の地のお寺として有名であった松尾寺(まつおでら/まつおのでら/まつおじ)は紅葉の名所として知られていました。

私も、大阪在住時に何度も訪れる計画を練っていましたが、なかなか徒歩旅行者にとっては訪れにくい場所で実現にまで至りませんでした。

しかし計らずも、今回、友人の車で訪れることができましたので幾つかの写真を上げてみます。

ただ、秘境のお寺と言うのは昔の話で、現在は新興住宅地が間近に迫ってきており、本当に昔ながらの雰囲気が残るのはお寺の近くのみという風景でした。

それでも、徒歩旅行者にとっては依然お寺までのアクセスは厳しく、泉北高速鉄道線の終着駅である和泉中央駅からのバスが1日に3本、松尾寺から和泉中央行きバスは4本しかありません(3月末時点での時刻表)。

所要時間は15分で大人260円(3月末時点)。

南海バスホームページ。4月以降はこちらで。

 

  下の現在地とある場所に「松尾寺バス停」があります。

  バス停から松尾寺まで徒歩で10分ぐらい。

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  松尾寺の駐車場から山門への石段を登ります。

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  山門への途中、左側にある首堂(こうべどう)。

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  山門。

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  山門を守るのは金剛力士ではなく右が増長天、左が持国天。

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  境内深く入ります。

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  本堂。

  織田信長による1581年(天正9年)の紀州高野山攻めで諸堂は焼失し、現在の建物は豊臣秀頼の寄進によるもの。

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  三天堂。

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  三天堂の右手にある長諭和尚の碑。

  信長の焼き討ちの際に本尊及び寺宝を持って難を逃れ、いずれも現存することへの功績を称えた碑。

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  不動尊堂。

  この横を行くと春日神社があります。

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  春日神社。

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  拝殿と後ろに本殿。

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  帰り際、山門内右手に寿老神堂、向こう側念仏堂。

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  山門内側から振り返って手前念仏堂、向こう側寿老神堂。

 

  境内を見てみると桜も多いことがわかりました。

  もうすぐの桜の季節に訪れるのも良さそうですね。

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  さて、松尾寺バス停には「くす」の巨木があります。

  樹齢約700年の巨木です。

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  後ろに川があるのですが、そちらに下りると尾崎稲荷大明神があります。

  その手前には白龍大善神。

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  私自身は、最近これだけの巨木を見たことがありません。

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  撮影 2014/03/22

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2014年3月23日 (日)

東海道 関宿(せきしゅく/せきじゅく 三重県亀山市)を散策(3) - 「木崎の町並み」から東追分を経てJR関駅へ戻る

 

  東海道五十三次の47番目の宿場である関宿は東西約1.8Kmにわたり当時の面影を残す町並みが続いています。

 

  JR関駅から北に歩くこと数分で関宿の街道筋に出ますが、そこから左、西方向の地蔵院までが「中町の町並み」、さらに地蔵院から西の西追分(にしのおいわけ)までが「新所の町並み」と呼ばれています。

駅から宿場の街道筋に至ると、最初に西方向に向け西追分まで歩き、その後再び東へ地蔵院まで戻ると高札場跡の手前から北方向に街道から外れ、浄安寺、瑞光寺、延命寺、関神社等を巡って再び街道筋へ戻りました。

そして最後は東へ向かい、「木崎の町並み」を経て東追分(ひがしのおいわけ)まで行き、ここで関宿の散策は終りとしました。

そして、東追分から南側の国道1号線に下り、西方向へ国道沿いを歩いてJR関駅前に至り、2時少し前の列車で亀山、名古屋を経て岐阜へ帰りました。

 

  西追分から地蔵院まで戻り振り返ったところ。

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  もう少し東へ戻り福蔵寺門前。

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  北へ街道筋から外れた場所にある浄安寺山門。

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  さらに東へ向かい瑞光寺へ。

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  瑞光寺山門。

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  瑞光寺本堂。

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  目的地は旧川北本陣の門が山門として移築されている延命寺でしたが、行き過ぎてしまい関神社へ。

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  再び少し西に引き返して延命寺山門。

  旧川北本陣の門が移築され現在は延命寺の山門となっています。

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  本堂は工事中。

  工事中の民家と勘違いをして裏側を通り過ごしてしまいました。

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  延命寺の門前から街道筋に出ると、最初に駅から北上して来た四つ辻でした。

  西の中町の町並み方向。

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  こちらが東へ向かう木崎の町並み。

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  すぐに百五銀行があります。

  現役の銀行です。

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  振り返って。

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  東へ行きます。

  こちらも観光客はめっきり減ります。

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  「御馳走場(ごちそうば)」。

  「関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所(関宿イラスト案内図より)」。

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  さらに東へ。

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  下り坂になります。

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  そして東追分(ひがしのおいわけ)。

  前回も書きましたが追分(おいわけ)とは「街道が左右に分かれる所」の意味。

  それが地名として残っている場所もあります。

  関宿の東追分は左へ東海道、右へ伊勢別街道の分岐点。

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  一里塚。

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  鳥居をくぐり南に下りると国道1号線。

  こうしてみると、関宿全体が少し高みにあることが分かります。

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  南側に下ります。

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  国道1号線を西に向けて歩きJR関駅へ。

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  駅前広場から。

  歩道橋を下りて北に向かうと関宿の街道筋へ至ります。

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  JR関駅駅舎。

  関西本線非電化区間の駅で、列車の運行頻度は上下共に1時間に1本。

  駅に着いたら駅舎内にある観光案内所でまずマップを手に入れましょう。

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  亀山行き普通、キハ120形2輌編成の到着。

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  撮影 2014/03/16

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2014年3月20日 (木)

東海道 関宿(せきしゅく/せきじゅく 三重県亀山市)を散策(2) - 地蔵院、「新所の町並み」から西追分へ

 

  宿場町の雰囲気が大きく残る東海道の関宿(せきしゅく/せきじゅく)。

関宿は東海道五十三次の47番目の宿場で、次の坂下宿を過ぎると難所の一つである鈴鹿峠にさしかかるという位置にあります。

 

  さて、関宿の「中町の町並み」を 西へ歩いて地蔵院まで来ました。

地蔵院からさらに西の町並みを「新所の町並み」と呼んでいますが、地蔵院からは観光客がめっきり減ります。

町並み自体は雰囲気がありますが、もう目玉と言うべき有名な旅籠や寺院もお店も少なく、最後は西追分に至り、そこから引き返しました。

 

  地蔵院本堂。

  本堂、鐘楼、愛染堂の三棟が国重文に指定されています。

  本尊は日本最古の地蔵菩薩だそうです。

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  本堂正面から。

  本堂は元禄13年(1700年)建立。

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  鐘楼。

  寛永21年(1644年)建立。

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  愛染堂。

  寛永7年(1630年)建立。

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  地蔵院、東の外の道路から。

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  地蔵院からさらに西へ向かいます。

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  遠くに鈴鹿山系が見えます。

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  東を振り返って。

  地蔵院から西は「新所の町並み」と呼ばれています。

  観光客をほとんど見なくなります。

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  街道沿いの北側にある観音院。

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  西追分手前にある休憩施設。

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  旧民家を利用した休憩施設のようです。

  座敷に上がり休憩できます。

  トイレも建物とは別に裏側にあります。

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  西追分。

  追分(おいわけ)とは「街道が左右に分かれる所。各地に地名として残る。( goo 辞書より)」

  右が東海道。

  左、車が真ん中に駐車中ですが、大和・伊賀街道。

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  「ひだりハいかやまとみち」とあります。

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  東海道から関宿方向を。

  右手に平行している道路は国道1号線です。

  再び地蔵院まで戻ります。

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  撮影 2014/03/16

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2014年3月18日 (火)

東海道 関宿(せきしゅく/せきじゅく 三重県亀山市)を散策(1) - 関駅前から中町の町並と地蔵院まで

 

  新年の1月から2月にかけての丸2ヶ月間以上の療養(病気と言うより怪我)のため、その期間中に体力がかなり落ちてしまいました。

その体力の状態を見ながらの3月2回目の遠出は三重県の東海道の宿場町である関宿(せきしゅく/せきじゅく)を選びました。

 

  朝の7時半頃に岐阜駅を出発し名古屋、四日市、亀山と乗り継ぎ関西線関駅到着は10時15分頃。

帰りは関駅発13時59分で、亀山、名古屋と乗り継ぎ岐阜にはまだ明るさが残る16時過ぎに帰ってきました。

関宿での滞在時間は3時間半ほどで、そのうち3時間をほぼ歩き通し、ある程度の体力の回復は確認できました。

ただ、体力、気力が本当に万全であれば、さらに伊賀上野駅から伊賀鉄道で上野市に向かい、久し振りの伊賀上野を散策することもできたでしょう。

 

  さて、関宿は東海道五十三次の47番目の宿場です。

次の坂下宿を過ぎると難所の鈴鹿峠にさしかかるという位置にあります。

中仙道では木曽谷を中心に江戸時代の宿場町を髣髴とさせる街並みが幾つも残っていますが、東海道では開発が進み、かっての面影を大きく残している街並みは関宿ぐらいとなってしまいました。

 

  関西本線非電化区間の関駅にて。

  亀山発加茂行き キハ120形2輌編成。

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  国道1号線を跨ぐ歩道橋から関駅駅舎と駅前広場。

  駅ではまず駅内の観光案内所で「イラスト案内図」と「関宿ぶらりマップ」を手にいれます。

  亀山市観光協会のHPにある案内マップがPdfファイルであります。

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  駅前から北へ向かいます。

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  歩いて5分ぐらい行くと東西に伸びる関宿の街並みの四辻へ。

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  江戸方向の東。

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  京方向の西。

  まずこちらの西方向へ歩き西追分まで行ってみます。

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  西に向かい左手に「関まちなみ資料館」。

  「関宿旅籠玉屋歴史資料館」との2館共通券は大人300円、小人200円。

  このあたりは「中町の街並み」と呼ばれています。

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  「関まちなみ資料館」の左向かいにある鶴屋。

  「玉屋、会津屋とともに関を代表する旅籠(はたご)のひとつです。」((関宿イラスト案内図の説明より))

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  町並文化センターと手前に川北本陣跡の碑。

  その手前に写っていませんが山車倉があったようです。

  関の山車(だし)はその立派さから「「これ以上のものはない=精一杯の限度」という意味」で使われる「関の山」の語源となっている。

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  この写真に山車倉が左向こうに写っていました。

  手前は眺関亭(ちょうかんてい)と百六里庭(ひゃくろくりてい)で中に入ります。

  眺関亭からは関宿の家並みが一望できる。

  私は残念ながら気づかず入りませんでした。訪れたら必ず入って見てください。

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  橋爪家の反対側にある「伊藤本陣阯(し)」の碑。

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  上の石碑の反対側にある橋爪家。

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  橋爪家。

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  「関宿旅籠玉屋歴史資料館」。

  関宿を代表する大旅籠のひとつ。

  「関まちなみ資料館」との2館共通券は大人300円、小人200円。

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  高札場跡(関郵便局)前から西の方。

  大屋根が見えますが地蔵院本堂です。

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  玉屋の西隣にある高札場跡(関郵便局)。

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  さらに街道沿いの北側にある福蔵寺。

  「孝女の敵討ち」で知られる「関の小万」の墓があります。

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  本堂。

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  織田信孝の菩提寺として創建されたそうです。

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  関のお万の墓と碑。

  左手に少し見える福蔵寺裏門は旧萩屋脇本陣から移築された遺構。

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  地蔵院手前のいっぷく亭。

  無料の休憩所です。

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  手前から二軒目が鶴屋、玉屋と並ぶ旅籠であった会津屋。

  「もとは山田屋と言い、小万が育ったことで知られています」(関宿イラスト案内図の説明より)。

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  地蔵院まで来ました。

  ここから西の追分までは新所の町並み。

  ここからは観光客の姿が激減します。

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  撮影 2014/03/16

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2014年3月16日 (日)

深溝城跡(ふこうず じょうせき 愛知県幸田町)を訪れる(5) - 深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)菩提寺 本光寺(ほんこうじ)東御廟所、そして駅へもどる

  深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)の菩提寺である本光寺も東御廟所を最後に参拝して三ヶ根駅へ帰りました。

 

 

  東御廟所には6代目の当主である松平忠房公から昭和の19代目当主松平忠諒(ただあき)公までの廟所が存在します。

深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)は一時期を除き江戸時代にはほぼ島原藩藩主であったために、島原と江戸で暮らすこととなりますが、墓所は頑なに深溝(ふこうず)の地にこだわりました。

5代目の松平忠利は関ヶ原の戦いでの戦功による加増を断り関東から深溝城への復帰を家康に願い出て、家康も加増無しの従来の1万石で深溝への移封を許したと言う経緯もあります。

それだけ深溝松平家の故地である深溝へのこだわりには強いものがあったのでしょう。

 

  本光寺境内図。

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  参道から門内に入り坂を少し上がった場所に上の本光寺境内図の看板があります。

  ここから右手すぐに東御廟所への門があります。

  現在は拝観料100円をささやかながら徴収しています。

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  浄財と書かれた箱に100円を入れて石段を登ります。

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  東御廟所の門。

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  第七代の忠雄公の墓所は平成20年(2008年)の豪雨で傾き、

  その復旧工事の前に発掘調査が行なわれ、その大名墓地の様子が明らかになりました。

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  第6代目の忠房公。

  東御廟所は第6代目から19代目までの墓所です。

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  土塀の崩れは1945年の三河地震によるものだそうです。

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  第19代の忠諒(ただあき)公の廟所。

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  忠諒公廟の横から。

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  石段を下り入り口に戻ります。

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  参道からさらに道路まで出ます。

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  道路を写真の右へ行き国道23号線へ出ます。

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  往きは三ヶ根駅から左に国道23号線を歩きましたが、帰りは反対側から三ヶ根駅に帰ってきました。

  看板にあるように本光寺は椿郷としても有名のようですね。

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  三ヶ根駅西口の方へ。西口の前は県道383号線。

  いずれも横断歩道が無く、東口では地下道、西口では歩道橋を利用して道路の反対側に行くしかありません。

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  道路の反対側にある御祖神社。

  後方に見える深溝小学校も含めて一帯が高台となっており、これらも深溝城の跡と言われていますが定かではありません。

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  反対側に三ヶ根駅西口。

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  歩道橋には幸田町深溝(こうたちょうふこうず)とあります。

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  三ヶ根駅にて。豊橋行き普通313系。

  私は下り普通電車を待ちます。

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  撮影 2014/03/08

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2014年3月15日 (土)

深溝城跡(ふこうず じょうせき 愛知県幸田町)を訪れる(4) - 深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)菩提寺 本光寺(ほんこうじ)(2)

 

  深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)の菩提寺である本光寺(ほんこうじ)の西御廟所の続き。

本光寺の開基は初代深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)当主の松平忠定。

深溝城主であった深溝松平家は家康の関東移封に伴い一度は関東へ赴きますが5代目当主である松平忠利の代に深溝城主に返り咲き、ここに深溝藩(ふこうずはん)が1万石で成立します(1601年)。

本光寺はこの忠利の頃に整備された可能性がある(「深溝本光寺は墳墓の地なり」より)そうで、後の寛文8年(1668年)子の6代目忠房の代に島原藩6万5000石の藩主として福知山藩から転封すると、島原にも元禄2年(1689年)に菩提寺として同じく瑞雲山本光寺が開基され、歴代の藩主は深溝(ふこうず 現幸田町)の本光寺に埋葬され、島原の本光寺では葬儀が執り行われたということです。

 

  本光寺境内図。

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  西御廟所の第5代松平忠利公の廟所である肖影堂の左隣が11代忠恕(ただひろ)公の廟所。

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  第10代の松平忠祇(まつだいら ただまさ)の時、一度宇都宮藩に転封され、11代忠恕(ただひろ)が宇都宮藩主を継ぎ、安永2年(1773年)再び島原藩に転封。

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  忠恕(ただひろ)公廟。

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  忠恕(ただひろ)公廟のさらに左側には御先祖堂。

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  深溝松平家の初代から四代までの墓所。

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  さらに左側に6代松平忠房の長男松平好房の「孝子廟」。

  好房は21歳で家督を継ぐ事無く早世(1669年)。

  家督は弟の松平忠倫(まつだいら ただみち)が継いだが暗愚として廃嫡され、松平忠雄(まつだいら ただお)が養子に迎えられた。

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  家臣と思われる墓所のある前の一番奥には内山稲荷。

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  山門を上がりきった本光寺境内図のある場所に戻り、そこから右手へ行くと東御廟所があります。

  その入り口手前、左側には手前から俊光院殿(15代忠精公夫人)、向こう側 天妙院殿(13代忠侯公夫人)の墓所。

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  東御廟所への入り口。拝観料が100円。

  1945年の三河地震による土塀の傷みが激しく、参拝料徴収は当然と言えば当然と思います。

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  撮影2014/03/08

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2014年3月12日 (水)

深溝城跡(ふこうず じょうせき 愛知県幸田町)を訪れる(3) - 深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)菩提寺 本光寺(ほんこうじ)(1)

 

  本光寺は1523年(大永3年)に深溝松平家の初代当主である松平忠定が開基した曹洞宗の寺院で、深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)の菩提寺。

また参道沿いにアジサイが見られるアジサイ寺としても有名だそうです。

 

  現在のJR三ヶ根駅周辺が深溝城(ふこうずじょう)の跡で、松平宗家三代目の松平信光の七男忠景の子である松平忠定が大庭氏(大場氏)に替わり城主となり、以降、忠定の子孫は深溝松平氏と呼称されるようになります。

深溝城には第4代目の家忠まで在城し、天正18年(1590年)小田原征伐により関東の後北条氏が滅ぶと徳川家康は関東に移封され、松平家忠もそれに伴い関東へ。

忍城(おしじょう 埼玉県行田市)を本拠に(城主は家康の四男松平忠吉で10万石、忠吉が幼少で忍城は家忠預かり)武蔵国埼玉郡に1万石を与えられます。

松平忠吉が長じると松平家忠は下総国小見川(千葉県香取市)へ移封。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは鳥居元忠らとともに伏見城守備に任ぜられ、関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城し松平家忠は討死。

これ以前にも深溝松平家2代目松平好景は前回の記事でも触れたとおり、松平元康(徳川家康)の三河統一戦のひとつ善明堤の戦いで討死(1561年)。

そして三代目の松平伊忠(まつだいら これただ)は家康初期の主要な戦いに参戦して大いなる武功を挙げるも、天正3年(1575年)の長篠の戦では酒井忠次率いる別働隊に加わり鳶ヶ巣山の攻略に成功後、追撃戦で逆襲を受け討死。

こうして深溝松平家は当主が三代続けて戦死をするという不運に見舞われました。

 

  その後、松平家忠の跡を継いだ5代目松平忠利は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの翌年には深溝(ふこうず)に返り咲き1万石で深溝藩が成立。

忠利はその後三河吉田藩へ3万石に加増されて移封。

忠利の没後、その子の忠房は吉田藩から三河刈谷藩3万石、丹波福知山藩4万5000石を経て寛文9年(1669年)6万5000石で肥前島原藩藩主となり、一時的に宇都宮藩に移封されるも、深溝松平家はその後も島原藩主を務め明治に至りました。

  なお、5代目忠利が慶長17年(1612年)三河吉田藩に移封後に深溝藩は一時廃藩となり、深溝城も廃城、以後の板倉家深溝藩2代は陣屋を政庁としたため、深溝城(ふこうずじょう)の歴史も忠利の時代で終焉となりました。

 

  本光寺参道。アジサイの参道。

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  山門。

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  山門から参道を振り返って。

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  山門横の説明板。

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  同じく本光寺の説明板。

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  山門から短い石畳の坂を上がります。

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  本光寺境内図。

  ここから右手へ行くと東御廟所。

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  本堂前にある梵鐘。

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  本堂と本堂前の梅林。

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  本堂前から梅林の奥には西御廟所があります。

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  第5代当主松平忠利公廟の肖影堂。

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  肖影堂の後ろの願掛け亀へ。

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  願掛け亀のある高台から本堂と梅林。

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  撮影 2014/03/08

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2014年3月10日 (月)

深溝城跡(ふこうず じょうせき 愛知県幸田町)を訪れる(2) - 「幸田町郷土資料館」から 深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)菩提寺の 本光寺へ

 

  深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)の祖である松平忠定の夫人が開基である三光院の門前に出て左に道を取ると幸田町郷土資料館があります。

残念ながら時間が早かったのか開館していませんでした。

資料館の敷地一帯にはどういう訳か60年代を中心とした自衛隊の兵器等が展示されており、多少興味が湧き、少し見て回り時間を費やしました。

ただ、資料館は見ておくべきでした。入館料は無料です。

 

  そして、再び資料館の前の道路を行くと、この日の最大の見所とも言うべき深溝松平家の菩提寺である本光寺があります。

初代から昭和まで19代の当主の廟が並んでいるのは壮観とも言うべき様でした。

中心となる東御廟所には6代から19代まで。

西御廟所は初代から5代目までの墓所となっていました。

今日はその本光寺の門前までの様子。

 

  三光寺からすぐに幸田町郷土資料館。

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  資料館建物前にはKM-2 型航空機。

  海上自衛隊のパイロット初級訓練用。

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  その後ろには蒸気機関車主動輪。

  D51-611号のものとか。

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  資料館入り口付近。

  小高い場所にあるのが分かります。

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  潜水艦(おやしお)錨、スクリュー。

  昭和35年から昭和51年まで使用された。

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  右105mm軽りゅう弾砲。左 105mm無反動砲。

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  小さなヘリコプターがケージの中に展示。

  破損があり危険とみなしての措置と見えます。

  ケージが邪魔で写せませんでした。

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  F-86F戦闘機。

  50年代から80年代まで(1962年から次期主力のF104Jが順次導入)の航空自衛隊の主力戦闘機。

  これはよく覚えています。

  全天候型のF-86Dも採用されていました。

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  近くで見ると今ではけっこうチャチに見えるのが不思議です。

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  郷土資料館を後にして本光寺へ向かいます。

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  階段が見えますがここからは入れず、一旦右下の門前まで坂を下ります。

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  駐車場にある当寺の文化財の説明板。

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  横からも入れますが手順を踏んで参道を経て入ります。

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  門まではあじさいの参道。

  当寺はあじさい寺、そして椿の寺、小規模ながら梅林もありました。

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  本光寺境内図。

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  撮影 2014/03/08

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2014年3月 9日 (日)

深溝城跡(ふこうず じょうせき 愛知県幸田町)を訪れる(1) - 深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)発祥の地

 

  深溝城(ふこうずじょう)は大場氏(大庭氏とも)により13世紀から14世紀に築城されたとされ(諸説ある)、15世紀から16世紀の初め(諸説あるのでこの書き方)に松平信光または松平忠定がこれを奪い(これも諸説あり)、以後松平家の居城となります。

これが深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)で、傍系としての松平家の呼称となりました。

上記の松平信光は宗家の三代目で(徳川家康は九代目)、その七男の忠景のさらに次男が上の松平忠定で、深溝松平家の初代となります。

 

  JR東海道線の三ヶ根駅(さんがねえき)と国道23号線を挟んだ丘陵地帯が深溝城(ふこうずじょう)の城域とされますが、現在では城跡の遺構が全く残っておらず、ただその様子を推し量るのみしかありません。

 

  深溝城からほぼ真西には吉良氏の吉良義昭の居城である東条城があり、松平元康(徳川家康)の三河統一戦では深溝城(ふこうずじょう)は松平方の最前線となり、深溝松平家は元康の家臣として先頭に立ち吉良家と戦っています。

永禄4年(1561年)4月の善明堤の戦い(ぜんみょうつつみのたたかい)では深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)二代目の当主である好景自らも戦死するという大惨敗。

しかし、同じ年の9月に元康軍は藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)で吉良家の家老で吉良家を支えていた富永忠元を討ち取ることに成功し、これにより吉良義昭は東条城を明け渡し降伏(Wiki参照改)。

その後の永禄5年(1562年)の三河一向一揆で吉良義昭は一揆と結び再び挙兵、しかし東条城は落城させられ義昭は三河から退去、最後は摂津国芥川で死去したといわれる(Wiki参照改)。

ただし吉良氏自身は兄の義安が家督の相続を認められ、東条吉良家、西条吉良家を再び統一して三河吉良家は徳川家の家臣として存続し、江戸時代の吉良義央(上野介)の時代の元禄赤穂事件で改易されるまで徳川家に仕えました(後に再興)。

 

  深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)のその後は次回の記事で簡略に述べます。

一つ述べるとすれば深溝松平家(ふこうず まつだいらけ)の宗家は九州の肥前島原藩6万5000石の藩主として明治を迎えます。

 

  東海道線三ヶ根駅周辺が深溝(ふこうず)城跡。

  城山、丸の内の地名が残る部分は工場用地で、外に深溝(ふこうず)城跡の碑が立てられています。

 

  岐阜から米原発浜松行き特別快速に乗車し出発。

  岡崎で豊橋行き普通に乗り換え三つ目の駅が三ヶ根駅。

  三ヶ根駅の次の次の駅が蒲郡駅という位置です。

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  東口の方に出ます。

  東口駅前広場の前は国道23号線。

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  駅から国道23号線に出ると左手の方向に歩きます。

  駅前広場からの地下道を国道の向こう側に渡るのがベターです。

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  信号のある交差点の深溝中池田交差点の次の道(下の写真)を右に取ります。

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  この道を奥に入っていきます。

  突き当たりで右手に湾曲しながら道路は方向を変えます。

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  その婉曲部分に「深溝城址 愛知懸」と彫られた碑があります。

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  (株)三協の工場用地が城跡とされています。

  陣屋時代の深溝陣屋の図が残っているそうですが、城跡としては確かな場所はこのあたりのみ。

  深溝城跡の全容は明らかになっていません。

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  Googleマップの三協幸田工場の南の道路が婉曲を描いている部分に深溝城址の碑があります。

  それをさらに行くとこの辻に来ます。

  向こうに三光院があります。

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  三光院門前。

  右に道を取ると幸田町郷土資料館。

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  三光院は深溝松平忠定の夫人が開基とあります。

  もし、機会があれば北西の方向にある長満寺も訪れてみてください。

  長満寺は深溝松平家の前の城主大場氏(大庭氏とも)が開基のお寺で討ち取られた大庭次郎左エ門の墓があるそうです。

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  三光院門前あたりから城山、丸の内方向を。

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  三光院本堂。

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  門内から。

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  門前の三叉路を振り返って。

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  幸田町郷土資料館前にやってきました。

  時間が早かったのか、まだ開館前でした。

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  郷土資料館前から駅方向。

  駅を挟んで向こう側の高台の白い建物が深溝小学校。

  あのあたりも城跡の一部と言われていますが、確かではありません。

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  撮影 2014/03/08

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2014年3月 6日 (木)

史実には無い模擬天守(5) - 知多大野城(愛知県常滑市)

 

  知多大野城は知多半島の中部、伊勢湾側にあります。

知多大野城は佐治氏四代100年間の居城。

前回に織田長益がこの地を与えられ大草城を築城し大野城は廃城、と書きましたが、佐治氏四代目の佐治一成は小牧・長久手の戦い後に大野城退去との記述も別にあります。

織田長益が大草城未完のまま摂津へ所領買えとなった時期も小牧・長久手の戦いの後なのですが、どちらが正しいのでしょうか。

 

  さて、今回の主題はそちらの方では無く、史実には無い模擬天守が大野城にあるという事ですから、その話題に。

大草城址から南に見える小高い山の上にある大野城址は名鉄常滑線とほぼ並行している国道155号線に出るところから始まります。

車の人は北からですと堀田交差点から東に入ると山裾に駐車場があり、そこから登山道があります。

私の場合は徒歩旅行者ですので、名鉄西ノ口駅から155号線に出て南へ歩き、その国道沿いにある「CSK葬祭青海瑞雲殿」の裏手の細い道から登りました。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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大きな地図で見る

 

  名鉄常滑線西ノ口駅。

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  国道155号線沿いにある「CSK葬祭青海瑞雲殿」とその駐車場。

  わずかに大野城模擬天守が見えます。

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  建物の裏の細い道を登ります。

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  「CSK葬祭青海瑞雲殿」を振り返ったところ。

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  登って行くと城山の後背地に造成された住宅街にたどり着きます。

  ここからどうするの?と振り返ると鋭角的に城山公園への道がありました。

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  模擬門から入り、模擬天守とその門。

  展望台も兼ねています。

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  本丸は猫の額ほどの広さ。

  天守と相対して一段高いところに佐治神社があります。

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  佐治神社。

  祠のような神社でした。

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  右の石像は佐治一成(与九郎)。

  中央が佐治神社。左が一色社。

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  模擬天守内へ。

  後に将軍秀忠の正室となる江(ごう 他にも様々な呼び方あり)の最初の嫁ぎ先は佐治一成(与九郎)でした。

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  伊勢湾が見渡せます。

  天守のある部分は比高30mぐらいですから、容易に登れる高さです。

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  向こうに見える木々の茂る丘が大草城址。

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  南側の下から見上げた大野城模擬天守。

  右手の枯れ模様の木は桜。

  桜の時、ここは撮影スポットの一つです。

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  帰りは北側に下りました。

  北側にある城山公園駐車場。

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  撮影 2013/02/03

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2014年3月 2日 (日)

史実には無い模擬天守(4) - 大草城(愛知県知多市) 未完のまま廃城

 

  大草城は愛知県知多半島の西側、伊勢湾沿いにある城跡です。

 

  天正2年(1574年)大野城主であった佐治信方が長島一向一揆との戦いで戦死。

子の佐治一成幼少ということで大野城は織田信長の弟である織田長益(有楽斎)に与えられます。

しかし、大野城は山城故の水利が悪いという事で、大野城から北方に1kmから1,5kmほどの距離にある大草に築城を開始。

その後、信長亡き後の秀吉時代、長益は小牧・長久手の戦い(天正12年(1584年))後に摂津に所領替えとなり、大草城は完成する事無く廃城となりました。

江戸時代には尾張藩家老山澄氏に当地が5000石で与えられ、以後当家に大草城の管理をまかせ、城址が保全されました(Wiki等参照)。

 

  現在もお堀や土塁等がよく保存されており、全体が公園化されています。

本丸跡には天守閣風の展望台が建てられ、これが一つのアクセントとなっています。

南には山の上にある大野城の、やはり天守閣風の展望台を望むことができます。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図

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  最寄の駅の名鉄電車大野町駅にて。

  大野町駅は南隣の常滑市に属します。

  大草城跡は知多市。

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  田園の中から大草城跡。

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  本丸内にある天守閣風展望台。

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  城内の土塁がよく残っています。

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  北側のお堀。

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  展望台の階段を登って見ました。

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  もう、海が近い。

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  南の方向、少し東よりに見える大野城の天守閣風展望台。

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  本丸の展望台。

  その横を下りて大野城跡へ向かいました。

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  撮影 2013/02/03

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2014年3月 1日 (土)

史実には無い模擬天守(3) - 千葉城(千葉県千葉市)

 

  「史実には無い模擬天守」の3回目は千葉城。

前回の記事の館山城を訪れた後、千葉へ戻り、最寄の駅である本千葉駅で下車をして懸垂式のモノレールを横目に見ながら千葉城にたどり着いた思い出があります。

10年以上前の2000年のことで、記憶が曖昧なところもありますが、千葉城を見てすぐに東京へ向かい、そのまま東海道線を乗り継ぎ岐阜の実家まで帰ったのではないかと思われます。

これが1月18日のことで、同じ1月の20日には清洲城と津城を訪れているので、こちらは大阪へ帰る途中に立ち寄ったのでしょう。

当時の冬の「青春18切符」の有効期限は1月20日まででしたので、これを利用しての旅行だったようです(もう良く覚えていない)。

 

  さて、模擬城としての現在の千葉城は、別名亥鼻城(いのはなじょう)と言われる千葉氏のお城跡の一画に建設された千葉市立郷土博物館です。

当時は亥鼻城(いのはなじょう)の存在も知らず、ただ立派な天守閣風のお城があると言うことを耳にして訪れただけで、一帯を散策することも無く帰ってしまい、今から思えば残念なことをしました。

 

  さて、千葉氏の起源は古く、その支族も多く、全国的に分布しています。

個人的に私の住んでいる岐阜市に関して言うと、旧岐阜市周辺には江戸時代には多くの旗本領がありました。

そのうち千葉氏の流れを汲むという金田氏2家の領地があったのを資料で読んで興味を持ったことがあります。

金田氏は関東から何らかの理由で三河に移り、そこから松平氏の下で働き(家康の三代前からの家臣と言われているそうです)、旗本として江戸時代から明治に至った、という話を調べてみて分かりました。

このように千葉氏の全国的な広がりは大きく、一度文献に当たって見るのも面白いですね。

千葉一族。についてのブログのリンク先。

かなり、系図も含めて詳しいブログです。金田氏も見えます。

ただ、関東に疎い私どもにはなかなか難しい。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

  黄色い「外郭部Ⅰ」の左に色違いの部分がありますが、その「Ⅲの部分」に模擬天守があります。

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  大変立派な風格さえある模擬天守。

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  撮影 2000/01/18

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