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2015年1月12日 (月)

新年旅行 2015年1月(5) - 倉敷美観地区の町並み散策(3) 本町、東町の町並み

 

  倉敷アイビースクエアへ入れなかった事は前回述べましたが、そのアイビースクエアの西側と北側(正確ではないが)の通りが美観地区の本町、さらにその東が東町の町並みです。

倉敷川両岸の美観地区の東側の裏通りを南から北に向かい、突き当たって右、東へ向かうと阿智神社があり、さらに東に歩いて行くと東町に入り楠戸家住宅があります。

大体このあたりが東の端となり引き返すことになりました。

今回もほぼ町並みのみの様子です。

 

  倉敷川の美観地区の南端から東に向かい本町の裏通りに入ります。

  下の写真の手前のなまこ壁の建物からなまこ壁二軒目と三軒目の間が「倉敷デニムストリート」で一番奥に星野仙一記念館があります。

Dsc07200

 

  すぐ南は大通りで高砂橋が倉敷川沿いの美観地区最南端。

  東に向かい北に上がる通りに入ります。

Dsc07328

 

  北に向かう倉敷川東の裏通りでこのあたりも本町。

  通りの東側が倉敷アイビースクエア。

  スクエアへの西の入り口があるはずですが見逃してしまいました。

  北に鶴形山が迫ります。

Dsc07201

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  北に向かって左側にある「桃太郎からくり博物館」。

  大人600円、学生(高・中・小)400円、幼児(5歳以上)100円。

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Dsc07204

 

  レンガ造りの建物が倉敷アイビースクエアの外側。

  この辺りは倉敷代官所跡でそこに倉敷紡績所が建てられ、その跡が倉敷アイビースクエアとなりました。

  「倉敷アイビースクエア」は倉紡記念館や児島虎次郎記念館、アイビー学館、オルゴールミュゼ・メタセコイアなどの文化施設、そして工房・売店、レストラン、宿泊施設などからなり倉紡跡地の再開発から生まれた複合施設です。

  倉敷アイビースクエアのホームページ。

Dsc07205

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  本町の南北の通りから東西の通りにぶつかります。

Dsc07212

 

  右手、東に向かいます。

  西に行くと旧大原家住宅の北側のあたりに出ます。

  取り敢えず東へ。

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Dsc07217

 

  鶴形山の山頂にある阿智神社への登り口。

  車も登れるので交通量が結構あります。

Dsc07218

 

  阿智神社は後にしてさらに東へ。

Dsc07219

Dsc07221

 

  観光客は少なくなってきます。

Dsc07224

 

  そろそろ南北の通りを越えると東町という手前にある祠。

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  上には小さな神社。

Dsc07239

 

  通りを一本越え東町の楠戸家住宅。

  市重文。

Dsc07232

 

  一本越えた通りの方を振り返って。

 

  楠戸家は新田開発による綿花の栽培を受けて紺屋を営んだそうです。

  現在の建物は明治期の建築。

Dsc07233

 

  東町の通り。

Dsc07236

 

  ここから引き返します。

Dsc07237

  撮影 2015/01/05

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コメント

「マッサン」のロケは、倉敷なんや!

福知山の記事は、昔の話かと思ってました。この正月とは^^;
福知山経由で倉敷とは。ちょっと変わったルートやね。

投稿: tera | 2015年1月14日 (水) 05時11分

多分「マッサン」のロケだったと思います^^;

ちょっと変わったルートやね。
>たしかに^^。播但線ではその混み具合でひどい目にあいました。

倉敷の次は大雨の中をtera2さんの車で巡ったミュージアム、資料館巡りです。
大雨の中でしたがtera2さんのおかげで大変楽しく旅ができました^^。

投稿: mino | 2015年1月14日 (水) 21時57分

>倉敷の次は大雨の中をtera2さんの車で巡ったミュージアム、資料館巡りです。
>大雨の中でしたがtera2さんのおかげで大変楽しく旅ができました^^。
なるほど。大雨は残念やけど、そういう時でしかできない旅行を楽しめたんやね^^

徳川政権では、四国の戦国大名のほぼすべてが生き残れない。他の地域と比べても過酷な処分な感じがするんやけど、なんでなんやろ。

投稿: tera | 2015年1月15日 (木) 05時57分

徳川政権では、四国の戦国大名のほぼすべてが生き残れない。他の地域と比べても過酷な処分な感じがするんやけど、なんでなんやろ。
>この話題は前にもありましたね。大名として残ったのは来島(久留島)家のみって。

いろいろ考えてみたのですが、基本的に徳川政権ではなく豊臣政権のときの四国の措置(四国国分(しこくくにわけ))が原因ではと思うのですがどうでしょうか?
四国のうち唯一戦国大名として残ったのは土佐の長宗我部家のみ(来島は別として)。
阿波、讃岐は準畿内(三好の例がある)と考えられ腹心を置きたいので阿波は蜂須賀家、讃岐は仙石秀久ら、そして伊予は小早川隆景らの毛利勢で固められ四国土着の武家は没落。
したがって徳川政権時には長宗我部が西軍に属して全滅する以前にもはや四国の土着の大名はほぼいなくなっていたと言うことではないのでしょうか。

豊臣政権下では十河存保が大名に徳川政権下では三好政勝系統が旗本で生き残りますが十河存保は九州攻めで(戸次川の戦い)戦死、以後存続を認められず改易。
三好は10代ぐらい続いたことは確認できるのですが私の検索能力ではもうひとつ判らない。

このあたりは地元のtera2さん、「四国国分」あたりはddolさんがいれば・・^^;

投稿: mino | 2015年1月15日 (木) 20時58分

まずは讃岐の領主についてですが、
京兆家分裂まで :細川(家臣)
長宗我部侵攻まで:細川家臣+十河(三好)
豊臣侵攻まで  :長宗我部+十河
九州統一まで  :豊臣(仙石、尾藤)+十 河
生駒騒動まで  :生駒
1842~   :松平

と、移行します。
細川家臣としては、
安富氏(東讃守護代)
香川氏(西讃守護代)
奈良氏、香川氏
を初めとする諸氏となります。
大雑把に、分裂、三好の勢力伸長、長宗我部侵攻の過程で、ほぼ全滅します。

生駒氏は、2万ないし3万石の領地をもちながら、戸次川の戦いで生駒存保が討ち死にした後、嫡子が幼いため、新たに高松に入った生駒親正に簒奪され、その後毒殺されたと言われています。これは秀吉の意志ではなかったようです。

四国全体では、細かい諸家を省くと、
阿波:細川→三好
土佐:細川→一条
伊予:河野、村上
細川京兆家が内部分裂、長宗我部により、一条、河野が断絶し、三好が衰退、十河が上記のように断絶して、長宗我部が関が原、大坂で滅亡。村上は能島、因島は毛利家に伝え、来島村上氏だけがかろうじて大名として残ることになります。転封されますが…。
断然古いのは河野氏で、源平合戦で反平家で旗揚げし、これの討伐中で兵力が移動中であったことが、屋島の戦いの敗因とされています。

投稿: tera2 | 2015年1月16日 (金) 21時20分

生駒氏は、2万ないし3万石の領地をもちながら

十河氏は、2万ないし3万石の領地をもちながら

投稿: tera2 | 2015年1月16日 (金) 21時22分

なるほど。ありがとうございました。

秀吉侵攻前に長宗我部の侵攻で全滅していたという事ですね。
九州のケースとはだいぶ異なるのかもしれないですね。

そういえば丸亀に入部した尾藤氏を忘れていました。

投稿: mino | 2015年1月17日 (土) 22時31分

四国・中国関係は、和田竜の小説「村上海賊の娘」が大ヒット。瀬戸内は、「官兵衛」「杉文」。「マッサン」も含め、トレンドになってる感じが^^

>いろいろ考えてみたのですが、基本的に徳川政権ではなく豊臣政権のときの四国の措置(四国国分(しこくくにわけ))が原因ではと思うのですがどうでしょうか?
>四国のうち唯一戦国大名として残ったのは土佐の長宗我部家のみ(来島は別として)。
> 阿波、讃岐は準畿内

なるほど、秀吉の大坂政権では、「準畿内」の四国はややこしかったんやろね。

四国が長宗我部によって制圧されたように、戦国時代の最終局面で九州は島津が、東北では伊達がいきなり席巻しだす。

島津   伝統的勢力 西軍 お家問題微妙
伊達   伝統的勢力 東軍 お家問題あり
長宗我部 新興勢力  西軍 お家問題多い

と色分けすると、長宗我部は、「準畿内」で新興勢力、西軍、お家問題(秀吉の死と元親の死が重なった)ことで残れなかったのかな。

四国で長宗我部氏の侵攻で生き残ったのは、河野氏。

藤田達生、秀吉と海賊大名、中公新書

は、河野氏の再評価をしてた記憶があり、面白かった印象が。この本は、一昨年、四国旅行の前に読みました。
四国を旅して思ったのは、三好氏は、こんな田舎から出て畿内を制圧したのかということ(大阪・堺の人は「三好幕府」といってます^^)。もう一つは、河野氏関係の遺跡でした。

投稿: tera | 2015年1月18日 (日) 05時38分

「坂の上の雲」の中で、秋山兄弟が「祖先は伊予水軍」と話す場面があったような。「のぼさん」の正岡氏は、河野氏の有力家臣です。

投稿: tera | 2015年1月19日 (月) 05時43分

teraさん、遅くなって御免なさい^^;

四国長宗我部、九州島津、奥州伊達、関東北条、そしてもし最後まで中国毛利が頑張っていたら、秀吉、家康もうかうかできなかったかも。
もちろん、それぞれの時系列が違うので実現は困難だったかもですが。

「のぼさん」の正岡氏は河野氏の有力家臣だったんですか?へ~そうだったんだ、という事実ですね。
河野氏は越智氏の流れをくむ名族なので系統が絶えなかったらせめて旗本として家康が拾い上げたかも知れないですね。
四国出身の旗本は「私が調べた限り」では三好を除いてほぼいないようですしね。

投稿: mino | 2015年1月19日 (月) 17時52分

長宗我部の侵攻で四国が統一されたかについては、実は説が分かれるところです。讃岐では、虎丸城、伊予で湯築城、阿波では土佐泊城が攻略されなかったという説があります。でも通説はやっぱり四国統一が終わってる。うちは最後まで独立を保ったん…という各地の矜持が言わせてるような気がしないでもない。
虎丸城も、肝心の十河存保も弟で十河城を守っていた存之も大坂に逃げてるし、湯築城からも、長宗我部関連の遺物が出てる。土佐泊城に至っては、当時本当にあったかどうかもわからない。
この中で、河野氏に関しては、時間的な微妙さがあって、降伏したとすると、1985年前半に河野氏降伏、6月に羽柴軍侵攻開始、8月上旬に長宗我部降伏、8月中旬に河野氏降伏と続きます。河野氏は毛利の庇護下にあって、おそらく一時的に広島側に逃げてる。でも四国攻めでの長宗我部の伊予からの退却後に湯築城を占拠して、さらに毛利の包囲にあって降伏開城しています。こういう反応をするんで、早くから羽柴側について所領安堵されている十河と違って、所領を没収されて、当主の通直は2年後に無嗣のまま病没、河野家は断絶します。
まぁ、十河兄弟もその前年に戸次川で討死、嫡男の千松丸も生駒の簒奪にあった上に3年後に夭死するんですが。
十河兄弟のどちらかが生きていても、関が原でどちらについたかによってどうなってたかはわかりませんし。

投稿: tera2 | 2015年1月19日 (月) 21時40分

さらに三好氏ですが、もともと河内源氏系小笠原氏が鎌倉時代に阿波守護となり、この末裔。なので小笠原氏の三階菱に五つ釘抜を加えたものが家紋です。本拠地は今の三好市ですが、ここは結構讃岐との縁が深い。徳島市に出るよりも琴平経由で丸亀に出た方がすっと近いので、いまでもこの辺の人は香川に買い物に来ます。で、この三好氏が仕えることになったのが、室町時代細川京兆家を立てる細川頼之。細川家は最初に阿波守護になるので、阿波の大名とされやすいですが、三河生まれで大抵京都で過ごしています。この頼之が足利義満の時代に政変で京を追われ、それ以後細川家の四国の在所は香川の宇多津なんで、三好から出てくるのは割と近かったりします。後に京兆家分裂によって阿波の大名となる三好家ですが、まず出てきたのは、北側向いてだったかもしれません。

投稿: tera2 | 2015年1月19日 (月) 23時17分

>でも通説はやっぱり四国統一が終わってる。うちは最後まで独立を保ったん…という各地の矜持が言わせてるような気がしないでもない。

^^。でも、ご当地の人にとってはあんまりな言い方やなあ。

先に紹介した藤田達生さんの著書「秀吉と海賊大名」では、けっこう詳しく「通説」を批判してた印象が。

>湯築城からも、長宗我部関連の遺物が出てる。土佐泊城に至っては、

確か瓦の話だったか、それらも検討されてた記憶が。
印象やら記憶やらで申し訳ないけど^^;、時間があれば一読してね。

>ここは結構讃岐との縁が深い。徳島市に出るよりも琴平経由で丸亀に出た方がすっと近い
>まず出てきたのは、北側向いてだったかもしれません。

なるほどなあ、これは面白い。こういう地理感は、さすがやね。
でも、当時の交通事情を考えると、やはり吉野川経由で徳島市から堺に行くのは自然やないの?三好氏所縁の藍住町もあるし。

「堺幕府」の話の続き
本郷和人さんが、「幕府」という言葉は江戸時代につくられたもので、明治以降に歴史用語になったという話をなんかで言ってて、なるほど「堺幕府」も一応の条件をそろえたのかも、「各地の矜持が言わせてる」だけでもないのかと思いました^^

>「のぼさん」の正岡氏は河野氏の有力家臣だったんですか?へ~そうだったんだ、という事実ですね。

へ~そうだったんだの続きです^^。河野氏関係では一遍上人が。讃岐は大師様やし、法然は岡山の人。四国・中国には、高名な宗教者がいるね。

投稿: tera | 2015年1月20日 (火) 05時48分

中公新書なんですね。読んでみます。>秀吉と海賊大名

>当時の交通事情を考えると、やはり吉野川経由で徳島市から堺に

ですね~。阿波細川家から細川京兆家に移った之長は香西氏と仲が悪く、そのころからは普通に吉野川ルートを使ってると思います。堺公方(堺幕府)は孫の代の元長(長慶の父)の頃なので、まだ三好の本拠地は三好市近辺です。長慶も三好市生まれ(芝生城:三好市三野町芝生→のち摂津へ)。三好の讃岐支配は、長慶の弟一存からなんで、当時の三好氏は吉野川ルートしかない。

この頃、堺公方義維は細川晴元に裏切られ阿波公方(平島公方:阿南市那珂川町)へとジョブチェンジしますが、問題は、このヒト将軍になってない…。さらに現職の将軍が居る…。まぁ、息子は14代義栄なので、ちょっとは救いがあります。今でも阿南市には道の駅公方の郷なかがわ、ってのがあるくらいなんですが、さすがに阿波幕府とは誰も言わない。15代は別系統の義昭に奪われ、子孫は江戸後期まで阿波にあって京都に移り、今も存続しています。堺幕府、ってのも公文書発給してるから幕府、ってのも言えなくもなくはないんでしょうが、まぁ、なんちゃって感もつきまとうんですよね…。

ちなみに、このなんちゃって感は香川にもあって、三種の神器と天皇の所在地だったんで、牟礼・屋島は日本の首都だったんだと主張するひとがたまにいますwww(実際は行在所)

投稿: tera2 | 2015年1月20日 (火) 21時17分

ちなみに、讃岐五大師、ってのもありまして、今まで大師号を授かった22人のうち、讃岐から五人の大師がでています。

弘法大師空海、道興大師実恵(初代東寺長者)、法光大師真雅(空海の弟、貞観寺開基)、智証大師円珍(空海の甥、延暦寺第5代座主、三井寺開山)および理源大師聖宝(醍醐寺開山)。みんな平安時代の人だったりします。

円珍の生家跡の金倉寺は、遍路寺ながら天台宗なのはそんな理由が…。

投稿: tera2 | 2015年1月20日 (火) 21時40分

「堺幕府」
>まぁ、なんちゃって感もつきまとうんですよね…。

うんうん、その通りなんやけど、当時の泉州・堺の世界史的位置からみても三好氏がここを根拠地としたのは偉い。三好は、中世的秩序と近世の結節点の氏族というイメージがあってね。おいらの歴史関心は、どの時代でも「グレート・ゲーム」なんや^^

藤田達生さんの本では、「安土幕府」と「鞆幕府」との対抗関係で中国・四国情勢を説明してます(紹介した責任ということで読みなおし中^^;)。
織田政権の中国・四国地方に対する外交戦略。丹羽・明智系と秀吉=宇喜多系を対抗軸としてこの地域を解釈してたことに、きっと面白いとの記憶が残ったんだと思います。

投稿: tera | 2015年1月21日 (水) 05時21分

「幕府」という言葉は江戸時代につくられたもので
>面白いやり取りでついコメント入れ損ないましたが、幕府については三国志で蜀の丞相である諸葛亮が出師し、諸葛亮の所在を宮城谷昌光さんの「三国志」で幕府と表現しています。

また宮城谷さんは幕府の用語は中国戦国時代に表れたと述べています。したがって当時の知識人は幕府という言葉の存在は知っていたのでしょう。

ただ、teraさんの言う様に幕府という言葉を使用したのは江戸時代ということなんでしょうね。


河野氏関係では一遍上人が。讃岐は大師様やし、法然は岡山の人。四国・中国には、高名な宗教者がいるね
>おお、そうだったんですね。また、ひとつ知識が・・。

そういえば四国の大名は戸次川の戦いでは仙石秀久のせいで皆一様に迷惑を被っていますね。
後を継いだ尾藤氏もへまして、以後浮かび上がれず^^;

三好氏の話ですが、吉野川沿いって現在ではすごく辺鄙な場所ですが、南海フェリーで2時間ほどの距離が徳島~和歌山間。
和泉や紀伊と四国なんて目の先でむしろ後背地が海の向こうであるのは逆に強みになっていたのでしょうか?
 

投稿: mino | 2015年1月21日 (水) 17時08分

>また宮城谷さんは幕府の用語は中国戦国時代に表れたと述べています。したがって当時の知識人は幕府という言葉の存在は知っていたのでしょう。

そうなんや!
「三国志」は、読んでないんや。宮城谷さんは、毎日新聞で現在長期連載中の「劉邦」を読んでます。なんか丸くなったなとの感じがあるんけど、面白いです。

仙石氏は、漫画「センゴク」でブレイクしたけれども、美濃出自の中でもいろんな意味で面白い氏族やね。

>三好氏の話ですが、吉野川沿いって現在ではすごく辺鄙な場所ですが、南海フェリーで2時間ほどの距離が徳島~和歌山間。

四国にわたる橋は、明石大橋か瀬戸大橋ルートのどちらかが優先されたことはわかるけど、2番手は東名から三重・和歌山をぬけて徳島(さらに九州)へ渡る橋やないかと思うんや。太平洋ベルト地帯の混雑高速自動車道を迂回するルートの整備は、この国にそれなりの利益をもたらした可能性があるし、四国の成長という点でもこっちの方が大きい感じがしてね。

ひたすら税金を「地方」へばらまく党の中で、三重・和歌山・四国・大分の政治家よりも中国地方の政治家が優勢だったということかな。

投稿: tera | 2015年1月26日 (月) 05時41分

秀吉と海賊大名、現在読んでいます。
が、この人の論、なんかもやもや感が残ります。
謎とき本能寺の変、江戸時代の設計者、と読んだことがありますが、論旨のつながりが悪い…というか、本能寺の黒幕は足利義昭だった、とか、まず結論ありきで説得が強引じゃやないでしょうか?いろんな人から反論されてるのも無理ない気が。

肝心の、河野が最後まで降伏しなかったかどうかですが、正直、降伏していないという説もありだと思います。
でも、この人の説明は微妙におかしい。

p101からp109までがその部分でしょうが、この人はまず、四国統一がなったという通説が、3つの理由からなっているとする。1.南予で河野が劣勢だった。2.毛利軍が松山、今治近辺で戦っている。3.土佐物語に記述がある。

これに対してそれぞれ反論してます。まあ、通説を反証しようというので当然なわけですが。

まず、1.長曾我部の松山侵攻の前提であって、四国統一の理由にはならない。そもそも3つの理由として挙げるのがおかしい。
2.の反証で、毛利が敵対していたのは長曾我部でなく、来島氏である、なぜなら、今治に拠点をもっていたのは来島氏である。と反論する。しかし、肝心の松山(河野氏本拠)への侵攻については説明せず飛ばしてしまう。
3.については、同時代のものでなく、文献として潤色が多い、とする。まぁ、そうなんでしょう。

さらに、新説として、湯築城から、長曾我部で作られた瓦と同じ型で作られた瓦がでた、ので、長曾我部の侵攻があったという説を挙げる。これは愛媛県埋蔵文化財センターの中野良一氏の説です。これに対して、「遺物の年代観から政治史研究を行うという方法は可能であろうか(略)ピンポイントでの年代決定が可能だとは寡聞にして聞かない。」と切り捨てる。

しかし、遺物の年代観で史的研究を行うのは、ごく普通のことではないのか、土佐長曾我部で作られた瓦と同范(同じ型)であるということは、ピンポイントの(少なくとも長曾我部隆盛期だという)年代決定が可能ではないか、と思えてしまいます。

さらに湯築城からでた「土州様」の墨書がある土器について、「しかし新説のようにそれを「紛れもなく長曾我部氏のことである」と断言することには賛同しかねる。」と返す。

まぁ、断言することには賛同しかねます。しかし、以上の論拠から、「天正十三年春に河野氏が長曾我部氏に降伏したとする通説は成立しないことが、あらためて明白となった。」とくくるのは、どうなんだろう…。

瓦と土器は、どちらかというと長曾我部の湯築城征服があったという証で、「それだけで征服を証明するには十分でないから、湯築城は落ちていないのは明白」、という論理はおかしいんじゃないか。
普通に考えると、四国統一の断定はできないが、遺物の出土はその傍証となりうる、というあたりが妥当ではないかなぁ。

ちなみに藤田氏も愛媛県人です。

投稿: tera2 | 2015年1月28日 (水) 00時24分

teraさん、tera2さん、御免なさい。

家庭の事情で滞ってしまいました。
更新も滞っていますが、少しずつ進めていきたいと思ってます。

以前に湯築城を訪れた際に発掘調査現場と発掘品の展示室を見学してきましたが、その時に長宗我部氏との関係という問題意識があればもう少し詳しく見てきたのに・・・^^;
長宗我部氏が四国を統一されてたかどうかという問題は最近出て来た話ですよね。
こういう論争では在野、もしくは小説家の人々は大胆な仮説を提議して論争を前に進めます。一方学会は手堅い。両者がかみ合えば大きな成果を得られるのですが・・。

teraさん、和歌山から徳島、四国から九州へのルートは私も大きな大事なルートだと考えています。
しかし、その前提として日本の経済が復活し、それもダイナミックに復活しなければ話が立ち消えになる、もしくは百年単位で遅延するかもしれないですね。
瀬戸内三橋も最初は夢のような話でしたが、すべて建設されてしまった。
それだけ政治、経済にまだダイナミックさがあったということでしょうね。

teraさん、tera2さん 続きがあればお願いします^^

投稿: mino | 2015年1月29日 (木) 09時01分

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