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2016年5月 5日 (木)

河内飛鳥(大阪府)を歩く2016年5月(3) - 河内源氏三代(源頼信、源頼義、源義家)の墓所(1)源頼義の墓

 

  後の鎌倉幕府に繋がる源氏が河内源氏です。

源氏は臣籍降下の際に名乗る氏の一つで、多くの天皇の治世に多くの皇族が臣籍降下し源氏を名乗りました。

河内源氏はそのうちの一つである清和源氏の一つの氏です。

清和源氏では他には一時勢力を争った摂津源氏もそのうちの一つで、河内源氏は子孫から鎌倉将軍を輩出したことから武家棟梁の家柄とされています。

清和天皇の子孫からは新田氏、足利氏、武田氏、佐竹氏、細川氏、今川氏、土岐氏、南部氏など多くの武家が輩出しています。

源氏についての概略のみ述べましたが、平氏(例えば桓武平氏など)についても同じく臣籍降下から武家となっていった人々もいます。

 

  壺井八幡宮から真南への道路。

  壺井八幡宮から真南への道路を行くと、途中に源頼義の墓はこちらと左を指した案内板があります。

  その通り、川べりの住宅地を道なりに歩いて行くと通法寺跡の門前に出ました。

  壺井八幡宮から10分ぐらいです。

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  河内源氏の菩提寺であった通法寺跡。

  明治元年に廃仏毀釈により廃寺とされたのは残念。

  境内に河内源氏2代目の源頼義の墓があります。

  墓標や柵は明治末のものだそうで、石灯籠は元禄年間に柳沢吉保らから寄進されたもの(Wiki参照)だそうです。

Dsc05602

 

  大正時代(大正八年)に建てられたと思われる通法寺址の碑が門前にあります。

Dsc05604

 

  源頼義(みなもと の よりよし)の墓所。

 

  父の頼信とともに平忠常の乱(長元3年(1030年))の追討に加わり抜群の活躍をすると、それが縁で、相模守在任中に平忠常の乱鎮定に失敗した平直方は娘を源頼義に嫁がせ、鎌倉の邸宅、所領、郎党などを譲ります(Wikiなど改変)。

ちなみにこの二人の間には八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光が生まれています。

源頼義は歴史教科書的には前九年の役(1051年 - 1062年)の活躍の方が有名です。

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  源頼義(みなもとのよりよし)の墓

 

  源頼義は父頼信、母修理命婦(しゅりのみょうぶ)の長男として生まれた。

平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていた。

永承六年(1051)「俘囚の長」である安倍頼良(あべのよりよし のち頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。

一旦は頼時を従わせたが、その後頼時とその子貞任(さだとう)がふたたたび謀反を起こしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年(1062)ようやく乱を平定した(前九年の役)。

また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。

永保二年(1075)七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。

Dsc05608

 

  墓標。

  明治末のもの。

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  通法寺址門前。

Dsc05610

  撮影 2016/05/02

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