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2016年11月

2016年11月28日 (月)

【天守閣】現存12天守(1)2012年4月 - 丸岡城(福井県坂井市丸岡町)

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

 

  丸岡城が築城されたのは1576年(天正4年)、築城主は柴田勝家の甥である柴田勝豊。

本能寺の変(1582年(天正10年))後の清洲会議で勝豊は近江長浜へ移り、以後城主は変遷し、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))の後に越前一国の福井藩67万石を家康の次男の結城秀康(越前松平家)が立藩、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6000石で入ります。

慶長12年(1607年)秀康の死で嫡男松平忠直が越前を相続。

しかし、1612年(慶長17年)の越前騒動により今村盛次は連座し失脚。

幕府は旗本であった本多成重(ほんだ なりしげ)を松平忠直の附家老とし丸岡城に4万石で入れ、成重は忠直をよく補佐します。

しかし、忠直は大坂の陣(1614年、1615年)での武功を将軍に認められなかったことに不満を持ち、幕府へ反抗的態度を示すようになり、その結果、元和9年(1623年)忠直は乱行を理由に大分へ配流。

後任には越後高田藩の藩主であった弟の松平忠昌(結城秀康の次男)が50万石で福井藩主となります。

この忠昌の福井藩相続では越前国の内に四つの藩が新たに設けられ、本多成重(ほんだ なりしげ)は寛永元年(1624年)に丸岡藩4万7000石の大名として新たに取り立てられ、ここに丸岡藩が成立します。

 

  ちなみに本多成重(ほんだ なりしげ)の父は鬼作左(おにさくざ)と称された本多重次(ほんだ しげつぐ)。

三河時代から家康に仕え、主に行政面で活躍し、法にたいして厳格であったためにこのように呼称されました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いの際に陣中から妻に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙が日本一短い手紙として有名となりました。

幼名が「お仙」こと仙千代であった嫡子本多成重(なりしげ)が丸岡藩初代藩主という縁で平成5年(1993年)から丸岡町(現坂井市丸岡町)では「日本で1番短い手紙」を募集しています。

 

  丸岡城へは車かバスの利用が便利。

  バスは福井駅前から京福バス丸岡線 「丸岡バスターミナル」、「丸岡城」下車。

  所要は約35分。運賃大人640円。1時間に3本運行されています。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  現地の丸岡城の概要図。

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  「日本一短い手紙」より名付けられた「一筆啓上茶屋」。

  付近には飲食店は見当たらず(私が見た限りですが)、お城見物の拠点。

  駐車場も広く取られています。

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  訪れたのは桜の季節。

  朝早くの到着でお城も茶屋も閉まってました。

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  建物は歴史民俗資料館。

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  丸岡城天守閣。

  1934年(昭和9年)には国宝(旧法による)に指定。

  しかし、1948年(昭和23年)の福井地震で倒壊。

  1955年には元通りに組みなおし修復。

  その前、1950年に国重文に指定。現在も国重文。

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  天守の石造りのしゃちほこ。

  地震により損壊しています。

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  屋根の瓦も石造り。

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  天守閣最上階の内部。

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  鬼瓦(おにがわら)も石造り。

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  急な階段。

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  本多家第4代目の藩主 本多重益(ほんだ しげます)の時、本人の藩主としての素養や家臣の争いなどで改易(元禄8年(1695年))。

  元禄8年(1695年)越後糸魚川藩から有馬清純(ありま きよすみ)が5万石で入封。

  有馬清純(ありま きよすみ)は、いわゆる肥前有馬氏の系統で、戦国時代には島原半島を領有していたキリシタン大名有馬晴信の曾孫にあたります。

  丸岡藩は本多家が4万3000石で4代、有馬家5万石で8代続き明治維新となります。

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  撮影 2012/04/15

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2016年11月24日 (木)

【塔】 (五重塔、三重塔、多宝塔他)を巡る(86)2016年7月 - 安楽寿院(あんらくじゅいん 京都市伏見区)の多宝塔

 

  安楽寿院(あんらくじゅいん)は「鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする」寺院です。

南に近衛天皇陵、北に鳥羽天皇陵と隣接しています。

このあたりは11世紀に造営が始まった広大な鳥羽離宮のうち東殿と言われる部分。

鳥羽離宮は院政の中心的位置を占める地として11世紀から造営が始まりました。

そしてこの地で歴代の上皇によって政(まつりごと)が執り行われました。

 

  安楽寿院は近鉄、地下鉄相互乗り入れの駅、竹田駅から南に数分歩いた場所にあります。

 

  京都駅からは近鉄で竹田駅に向かいます。

  竹田駅は急行停車駅。

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  竹田駅にて地下鉄車両。

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  近衛天皇陵駐車場。

  建物には管理人さんがいらっしゃいました。

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  正式には近衛天皇安楽寿院南陵。

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  天皇陵としては珍しい、廟が多宝塔。

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  宮内庁管轄なので国宝、重文の区分外。

  一般的な多宝塔であれば重文か、国宝か?

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  北側にある安楽寿院は人気もなく静寂に包まれていました。

  大師堂。

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  竹田駅から南西の部分に存在した鳥羽離宮跡の図。

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  北には鳥羽天皇安楽寿院陵があります。

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  撮影 2016/07/15

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2016年11月18日 (金)

【塔】 (五重塔、三重塔、多宝塔他)を巡る(85)2016年7月 - 宝塔寺(京都市伏見区)の多宝塔

 

  この日の散策は人気の伏見稲荷大社から若冲の石峰寺を巡って多宝塔のある宝塔寺を訪れました。

宝塔寺は日蓮宗の寺院で本堂、総門の四脚門、多宝塔が重文に指定されています。

 

  JRのいなり駅から出発した散策も帰りは京阪電車の深草駅から。

東福寺でJRに乗り換えて京都駅に戻ってきました。

 

  人気の伏見稲荷大社と比べると両寺ともひっそりとした趣で、特に宝塔寺では一人の参拝客も見かけませんでした。

 

  米原駅にて。

  大垣からのシャトルきっぷを利用。

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  伏見稲荷大社から石峰寺を経て門前に来ました。

  総門(四脚門)は室町時代の建立で重文。

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  両側に塔頭が並びます。

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  仁王門。

  1711年(宝永8年)の再建。

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  本堂。

  慶長13年(1608年)の建立で重文。

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  お目当ての多宝塔。

  レンズが曇っていたらしく一貫して中央部が濁っている。

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  多宝塔も室町時代の建立と推測され重文。

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  本堂前から仁王門。

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  京都駅に戻ってきました。

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  撮影 2016/07/02

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2016年11月16日 (水)

【塔】 (五重塔、三重塔、多宝塔他)を巡る(84)2016年5月 - 叡福寺(えいふくじ 大阪府南河内郡太子町 )の多宝塔

 

  叡福寺には聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながぼ〉)があります。

近つ飛鳥から源氏三代の墓を巡って叡福寺まで近鉄上ノ太子駅から歩いてきましたが、最終目的地が叡福寺で、当地を最後に、帰りはバスで上ノ太子駅に戻りました。

 

  境内の前に駐車場があります。

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  石段を登って南大門へ。

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  聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながぼ〉)。

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  二天門を入って聖徳太子御廟。

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  多宝塔。

  承応元年(1652年)の再建で重要文化財。

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  叡福寺図。

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  バス停の時刻表。

  喜志~上ノ太子、喜志~喜志間のバスが運行されています。

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  近鉄南大阪線上ノ太子駅。

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  古市行き普通。

  私は二上山方向への電車に乗車します。

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  撮影 2016/05/02

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2016年11月14日 (月)

【塔】 (五重塔、三重塔、多宝塔他)を巡る(83)2016年4月 - 円隆寺(京都府舞鶴市)の多宝塔

 

  所用の際に立ち寄った舞鶴ですが、西舞鶴駅からすぐ近くに多宝塔があると聞いて訪れました。

西舞鶴と言えば田辺城ですが、こんなにすぐ近くに古刹があるとは迂闊でした。

江戸時代には藩主家の牧野氏の保護を受け栄えましたが、現在の建物は万治2年(1659年)と享保17年(1732年)の火災以後の再建によるものだそうです。

 

  西舞鶴駅駅前。

  駅の西側。

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  駅から真っ直ぐ西へ行くとすぐに総門が見えてきます。

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  総門。

  宝暦3年(1753年)の建築。

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  以下が京都府指定文化財となっています。

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  本堂。

  天明6年(1786年)の建築。

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  鎮守堂。

  元文2年(1737年)の建築。

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  多宝塔。

  独特の雰囲気を醸し出しています。

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  多宝塔は宝暦元年(1751年)の建築。

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  北から回り込み引き返しました。

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  撮影 2016/04/23

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2016年11月11日 (金)

【天守閣】木造復元天守(5)2012年4月 - 伊予大洲城(愛媛県大洲市)

 

  四国愛媛県松山市から伊予大洲に向かう場合、内子線経由の短絡線と伊予灘に面した伊予長浜経由があります。

特急などの優等列車は内子経由を利用しますが、伊予長浜経由の路線は1時間に1本の普通のみの列車しか運行されず、ゆっくりと列車の旅を思う存分満喫できる路線です。

 

  大洲城は文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。

その後、元和3年(1617年)に加藤貞泰が6万石で入封すると明治まで13代にわたり加藤氏が治めました。

 

  伊予長浜駅にて。

  十数分の停車時間中に車外に出てみました。

  ここからは海を離れ肱川(ひじかわ)沿いを伊予大洲まで遡ります。

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  伊予大洲駅に到着。

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  伊予大洲駅。

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  大洲の町は駅から歩いて肱川の向こう側。

  徒歩15分ぐらいで河岸に出ます。

  川越しに伊予大洲城が見えます。

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  こちら側の桜はまだ若木みたいですね。

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  肱川(ひじかわ)の橋梁をのんびりと普通列車が行きます。

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  こちらは特急「宇和海」。

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  「おはなはん通り」。

  大洲の観光は大洲城だけではありません。

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  三の丸南隅櫓、高欄櫓と天守と台所櫓。

  天守を除いて現存遺構で重要文化財。

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  天守と高欄櫓。

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  手前が台所櫓、天守と左に高欄櫓。

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  苧綿櫓(おわたやぐら)。

  これも現存遺構で重要文化財。

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  櫓内。

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  天守内。

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  天守は平成16年(2004年)に復元されました。

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  撮影 2012/04/07

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2016年11月 9日 (水)

【天守閣】木造復元天守(4)2015年8月 - 白石城(しろいしじょう 宮城県白石市)

 

  肥後の八代城ととともによく一国一城令の例外として数えられるのが白石城。

白石城は仙台藩の支城として代々片倉氏が居城としました。

 

  角館と念願の松前城を訪れた後、いわばおまけ的な感じで訪れたのが白石城でした。

初めてでも無く、他に武家屋敷が残っていることもよく知っていますが、今回は雨と言うこともあり、お城だけを確認してみて回りました(震災後初めてであった)。

震災直後には白壁などが剥がれたという情報を得ていましたが、この時点では震災を感じさせるものは一切ありませんでした。

 

  白石駅前。

  駅前から北へ向かいます。

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  丘陵の上に築かれた平山城。

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  元来この地にあったという「二ノ丸大手二ノ門」。

  現在は移築されている。

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  外からの大櫓(三階櫓)。

  天守の代替とも言うべき。

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  平成7年(1995年)に木造で復元されました。

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  本来は本丸は御殿で埋まっていました。

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  鐘楼。

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  石段の屋根もこの様であったそうです。

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  大櫓の内部。

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  本丸は現在は広々とした公園となっています。

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  撮影 2015/08/31

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2016年11月 5日 (土)

【天守閣】木造復元天守(3)2012年8月 - 新発田城(しばたじょう 新潟県新発田市)

 

  丹羽長秀に仕えていた溝口秀勝は長秀の若狭支配時代に信長の直臣となります。

信長の死後は秀吉に仕え、丹羽長秀の後を受けて北陸支配を統括した堀秀政の与力となり大聖寺城主に(4万4000石)。

越後を支配していた上杉景勝が慶長3年(1598年)120万石で会津へ移封されると、北陸を支配していた諸将がそのまま横すべりで越後に入り、溝口秀勝も新発田に6万石で領地替えとなります。

関ヶ原の戦いでは東軍に与し本領安堵。そのまま12代で明治に至りました。

 

  駅から城址まで徒歩で25分ぐらい。健脚な人には問題ありませんが微妙な距離です。

  1時間に1本のコミュニティバスがあります。

  あやめバス路線図と時刻表。

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  駅前通り。

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  城址は微妙な距離にあります。

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  本丸の三分の二ぐらいが陸自の新発田駐屯地。

 

  まず目にするのが旧二の丸隅櫓。

  寛文8年(1668年)の大火後に再建され、現場所に移築されました。

  国の重要文化財。

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  享保17年(1732年)に再建された現存する本丸表門。

  国の重要文化財。

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  溝口氏の家紋である溝口菱。

  五階菱(ごかいびし)、掻摺菱(かきずりびし)ともいう。

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  溝口秀勝公。

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  三階櫓。天守の代替とも言うべき櫓。

  平成16年(2004年)に本丸辰巳櫓と共に、木造で復元されました。

  陸自の敷地にあるため拝観はできません。

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  本丸表門。

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  本丸辰巳櫓と本丸表門。

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  本丸辰巳櫓。

  木造で復元。

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  撮影 2012/08/22

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