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2016年12月 8日 (木)

【天守閣】現存12天守(4)1999年7月 - 国宝松本城(長野県松本市)

 

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

  現存天守12城のうち4回目は信州松本市の国宝 松本城。

 

  戦国時代の16世紀初めに井川館(松本市)を拠点としていた信濃守護家小笠原氏は林城(松本市)を築城、その支城として深志城を築き、これが松本城の前身。

小笠原長棟(おがさわら ながむね)の時、分立していた小笠原氏を統一し、林城を拠点として小笠原氏の最盛期を迎えます。

しかし、子の長時の時に武田信玄に攻められ小笠原氏は没落、信玄は林城を破棄し深志城を拠点として松本平を支配します。

その後、天正10年(1582年)武田氏滅亡後、小笠原貞慶(おがさわら さだよし 長時の子)が徳川家康の家臣として旧領を回復して深志城を松本城と改名。

天正18年(1590年)北条氏滅亡後の家康の関東移封に伴い小笠原氏も移封。

後には石川数正、2代目康長。

康長の時関ヶ原の戦い(1600年)で康長は東軍側につき家康から本領安堵される。

しかし、大久保長安事件で改易。

後に再び小笠原家が8万石で入り小笠原秀政(小笠原貞慶の嫡男)、忠真と2代続き忠真が播磨明石藩へ加増移封。

そして、後には戸田(松平)家が7万石で2代、その後松平(越前)直政7万石、堀田正盛が10万石、寛永19年(1642年)水野家が7万石で入り6代、最後に再び戸田(松平)家が享保10年(1725年)に6万石で入り9代で明治を迎えました。

 

  天守の建造年にはいくつかの説がありますが、いずれにしても1600年前後、遅くても1615年説までのようです。

 

  いつもの余湖くんのホームページからの引用図。

Matumototyo

 

  南西側からの天守閣。

Img263

 

  北西側から。

Img271

 

  西から。

 

  この1999年の旅行は大変な強行軍で1日目に松本城、諏訪高島城、諏訪大社を訪れ上田で一泊。

  上田城は朝の内に寄り、さらに長野から北上し高田城を訪れ新潟から新発田へ、新発田で一泊。

  帰りは新発田城、長岡の模擬城(長岡城とは場所も城も別物)を訪れ、後は一挙に長野、松本、中津川、名古屋、岐阜まで帰るという強行軍でした(全行程普通列車)。

  そして、岐阜の実家から当時の住所である大阪へあくる日に帰るという、今ではもう体力的に無理だろうと言う大旅行でした。

Img273

 

  黒門。

Img269

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  黒門から入りました。

  当時の拝観料は忘れました。

 

  現在(2016年12月)の松本城天守(本丸庭園内)観覧料(松本市立博物館との共通券)は大人610円(小、中学生300円)。

Img277

 

  本丸庭園からの天守閣。

  天気があまり良くなくて残念でした。

Img276

Img284

 

  残念ながら内部の写真はありません。

  内部を撮影したコンパクトカメラを紛失(盗難の疑いが強い)し、その後の旅行が気まずくなった苦い思い出があります。

  写真すべてがフィルムカメラによる撮影で、それをスキャンしてデジタル化しました。
  スキャンの過程で画質が落ちました。

Img288

  撮影 1999/07/27

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