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2016年12月

2016年12月31日 (土)

【天守閣】現存12天守(11)2009年10月 - 備中松山城(備中高梁城 岡山県高梁市)

 

  高梁市は岡山からJRの伯備線で米子方面に向かう途中にあります。

特急で35分、普通電車で50分少々の所要時間。

 

  車でのお城へのアクセスは、5合目の城見橋公園から8合目のふいご峠までのシャトルバス運行日には城見橋駐車場までしか入ることができず、シャトルバスに乗換えが必要。

ただし、運行日以外はふいご峠(8合目)まで車で登ることができます。

ふいご峠からは天守まで距離にして700m、20分ほど。

 

  徒歩旅行者については駅前からの乗り合いタクシーの利用がお勧めです。

私も当日は乗り合いタクシーを利用しました。

一人でも可ですが1日4往復で往き帰りとも予約が必要です。

片道420円。

シャトルバスと乗り合いタクシーの運行、料金についてはこちらのリンク先を参照して下さい(高梁市観光協会)。乗り合いタクシーの予約先電話番号も掲載されています。

 

  8合目のふいご峠駐車場。

  駐車できるスペースは10台ぐらいでしょうか。

  左手奥に休憩所とトイレが見えます。

  登城道は右手奥から。

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  松山城への遊歩道。

  城名が同じなので愛媛県松山市のお城を伊予松山城、こちらは備中松山城と呼称します。

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  中太鼓丸の櫓台石垣。

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  櫓台から眼下に見える高梁市市街地。

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  大手入り口からの石垣群。

  樹木の左の小さな石柱には大手門とありました。

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  右下の櫓台石垣の対となっている場所が大手門跡と見られます。

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  さらに上へ。

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  石段の左側は現存遺構の「三の平櫓東土塀」。

  国重要文化財に指定されている貴重な遺構です。

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  上から。

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  坂を登ると右側に三の丸の広場。

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  三の丸を後にしてさらに上に。

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  この坂を登りきると二の丸。

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  登りきると本丸の復元櫓群。

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  二の丸にはベンチが備わっていて、休憩には便利です。

  誰もがこの角度で撮影する場所。

  最近話題になっている雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台の情報についてはこちら

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  本丸へ入ります。

  本丸内と天守が有料。入館料は大人300円、小中学生150円。

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  松山城築城は13世紀、大松山に築かれたのが最初。

その後、14世紀に現在の天守がある小松山まで拡張されました。

戦国時代には三村氏が城主で、毛利から織田方についた三村元親は毛利氏と争い、天正3年(1575年)に落城、元親は自刃。

これにより松山城は毛利氏の領有するところと成ります。

 

  1600年の関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は周防・長門二国に減封され、松山城は小堀氏が城番を務めることに。

その後、元和3年(1617年)に池田長幸(いけだ ながよし)が6万3000石で入り備中松山藩が立藩されます。

池田長幸の父は池田輝政の弟の長吉であり、宗家の利隆流(光政流 岡山藩主)や忠雄流(光仲から鳥取藩主)と並ぶ長吉流の2代目。

しかし、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子無くして断絶改易。

さらに寛永19年(1642年)水谷勝隆が5万石で入るも3代目でやはり嗣子無く断絶(元禄6年(1693年))。

 

  その後幕府は検地を行い、元禄8年(1695年)になり、ようやく安藤重博が6万5000石で入部、安藤氏は2代で転封、替わりに石川氏が1代。

延享元年(1744年)その石川総慶が伊勢国亀山藩に転封され、入れ替わりに伊勢国亀山藩から板倉勝澄が5万石で入部。

その後は板倉氏が8代にわたり松山藩主を務め、明治に至ります。

 

  幕末の戊辰戦争では幕府側につき函館まで転戦、敗戦後2万石に減封等の厳しい措置を受けました。

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  天守から本丸内と外の二の丸。

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  天守内部。

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  天守に向かって右にある本丸東御門。

  脇の石段を上がり天守の後ろへ。

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  天守の後ろにある国重文の二重櫓。

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  これで本丸は出て、右側を奥に行きます。

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  先ほどの東御門を外から。

  少し振り返って。

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  搦め手門跡。

  右の石柱には搦手門曲輪とあります。

  ここから大松山の城跡へ行けるそうですが、道が崩れていました。

  石段を左へ。

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  後曲輪の石柱。

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  後曲輪からの二重櫓。

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  帰りの乗り合いタクシーは上りで女性一人が降り、下りは私ともう一人男の人の二人。

  二人とも駅前ではなく「石火矢町ふるさと村」の武家屋敷前で降ろしてもらいました。

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  撮影 2009/10/15

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2016年12月26日 (月)

【天守閣】現存12天守(10)2009年3月 - 国宝松江城(島根県松江市)

 

  現存天守12城の第10回目は島根県の松江城。

 

  松江を初めて訪れたのは随分昔の1993年。

当時、JRには均一周遊券という周遊切符があり、後にワイド周遊券やミニ周遊券等に改変されていきますが、山陰全体を大阪発着で2万円から3万円ぐらいで特急、急行など乗り放題という周遊券でした。

  大阪から福知山線経由の夜行急行「だいせん」で米子まで行き、米子からは特急、急行(たしか急行「さんべ」)、普通を乗り継ぎ萩を訪れ周遊のち萩で一泊。

あくる日は午前中萩を回り、東に取って返して、安来(やすぎ)市の清水寺、松江の松江城を訪れ、その後岡山城に寄り道をして大阪に帰ったという思い出があります。

今日の写真はその時の1993年の写真では無く2009年に訪れた2回目の松江。

 

  さて、松江城ですが、築いたのは堀尾氏。

1600年の関が原の戦いで戦功のあった遠江国浜松12万石の堀尾忠氏が隠居料としての越前国府中5万石を得ていた父の堀尾吉晴とともに改めて出雲・隠岐の二ヶ国24万石で月山富田城(がっさんとだじょう)に入部。

忠氏の死後、吉晴の後見の下、忠晴の時、慶長12年(1607年)に現在に見る松江城の築城を開始、吉晴が直前に没した慶長16年(1611年)に完成を見ます。

そして、寛永10年(1633年)には忠晴が嗣子無くして没し、ここに堀尾家は断絶し改易。

堀尾家改易後、寛永11年(1634年)若狭小浜藩から京極忠高が11万3000石から加増されて24万石で松江藩藩主に。

しかし忠高は寛永14年(1637年)に死去、末期養子に甥の高和を立てるも認められず改易。

しかし、京極家の功に報いるために高和は龍野藩6万石で再興、その後丸亀藩に移封されます。

丸亀城の記事でその事には少し触れました。

  京極家の改易後、寛永15年(1638年)に信濃国松本藩より18万6000石で松平直政(越前松平家)が移封されて松江藩主となります。

以降松平家10代で明治に至りました。

松平家7代目藩主の松平不昧公(ふまい こう 松平治郷)は藩財政の立て直しによる財政好転により、かねての趣味であった茶道をよく好み、その結果、松江は京都・奈良・金沢と並ぶ和菓子の名所となり、さらに不昧公の好みは松江に文化的な香りを残しました。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  旧三の丸に島根県庁が収まっています。

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  再建された三棟の櫓の内二階建ての方が南櫓、右側が中櫓。

  奥に天守が見えます。

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  西の方をお堀越しに。

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  大手門を入り、さらに中に入って石段を登り本丸へ向かう途中に見える天守閣。

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  本丸内へ。

  ここで入場料を払います。

  大人560円、小人(小・中学生)280円。

  松江城天守閣、小泉八雲記念館の2館と、小泉八雲旧居、武家屋敷のいずれか1館

  大人1000円、小人(小・中学生)500円。(2016年12月現在)

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  松江城天守。

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  天守内展示。

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  天守から入り口付近。

  遠くに宍道湖が見えます。

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  天守から左の石垣。

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  本丸の外、南側にある松江郷土館興雲閣。

  明治36年の建築で郷土資料の収集、保存がされています。

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  再び周辺地図。

  北西が搦め手でお堀を渡り北側には旧武家町の塩見縄手があります。

  塩見縄手は日本の道100選に選ばれており、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、武家屋敷等があります。

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  松江護国神社の前から遠くに赤い鳥居の城山稲荷神社。

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  搦め手門跡付近から稲荷橋。

  さらに向こうに見える新橋を渡り、右手が塩見縄手。

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  塩見縄手の道からお堀。

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  塩見縄手の道。

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  赤いバスは当時(2009年)のレイクラインバス。

  松江市内を観光するには松江市交通局の「ぐるっと松江レイクラインバス」が便利でお得。

  大人500円、小人250円。

  私も当日レイクラインバスを利用しました。

  運行頻度は20分毎。

 

松江市交通局ホームページ。

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  武家屋敷。

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  東の方からの塩見縄手。

  左手(南側)はお堀です。

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  「松江藩主松平家墓所」のある月照寺。

  松江観光の最後に寄ってみました。

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  広い境内に歴代藩主の墓所があります。

  またアジサイ寺としても有名とか。

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  撮影 2009/03/31

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2016年12月22日 (木)

【天守閣】現存12天守(9)2006年12月 - 高知城(高知県高知市)

 

  現存天守12城のうち第9回目は高知城。

 

  高知を初めて訪れたのは1997年の8月下旬でした。

そして2回目は2000年の8月初旬で、この時は時間の都合で高知城へは行かず、竹林寺の五重塔を訪れたのみで帰った記憶があります。

で、今日の記事での写真は3回目に訪れた2006年の12月暮れの写真で、デジタルでの写真。

2006年の旅行では夜行列車を利用してまず松山に着き、その後すぐに南に向かい、内子、伊予大洲、宇和島を経て高知県にその日のうちに入り高知市で一泊。

あくる日朝一番で高知城を訪れ、さらに土佐くろしお鉄道で安芸まで出かけ、安芸城跡や安芸の町を散策、そして、その日のうちに高松へ向かいフェリーの深夜便で関西に帰るという、多少無理筋の旅程でした。

これ以後には高知は訪れておらず、そろそろ訪れてみたいなあと考えています。

 

  さて、関ヶ原の戦いによる長宗我部氏改易に伴い山内一豊が掛川から土佐一国24万2000石で浦戸城に入ると、新たに慶長6年(1601年)から高知城の築城を始め、慶長16年(1611年)2代目の忠義の時代に現在の縄張りが完成しました。

享保12年(1727年)の高知城下の大火では追手門以外の城のほとんどが焼失、現在に残る高知城の建築はこれ以降に再建されたものであるそうです。

したがって現存の天守は焼失以降の延享4年(1747年)に再建されたもの。

高知城の建造物では天守を含む15棟が重要文化財に指定されています。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  追手門。重文指定。

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  城内にある板垣退助の像。

  我が岐阜市の岐阜公園にも板垣退助の像があります。

  かの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の由来である板垣退助遭難事件(岐阜遭難事件ともいう)は岐阜市で遊説中に暴漢に襲われた事件。

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  奥に詰門。

  石段を上がり右手へ行くと二の丸。

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  その石段から東に天守閣。

  朝なのでどうしても逆光となります。

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  本丸内に入って懐徳館(本丸御殿)と天守。

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  天守から三の丸の石垣修復工事を望んで。

  この工事はすでに2010年に完成を見ています。

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  暮れの12月28日という事で、大掃除で忙しい中での拝観となりました。

  拝観料(懐徳館(本丸御殿)と天守)は今年(平成26年、2014年)3月31日までは18歳以上400円、

  4月1日以降は18歳以上420円(2016年12月現在)となります。

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  御殿前の黒鉄門から外へ出て振り返ったところ。

  天守、懐徳館(本丸御殿)、黒鉄門、詰門いずれも重文指定。

  下の写真の塀も現存遺構で重文だそうです。

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  詰門前に戻り、追手門から出ました。

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  撮影 2006/12/28

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2016年12月19日 (月)

【天守閣】現存12天守(8)2005年8月ほか - 宇和島城(愛媛県宇和島市)

 

  現存天守12城の第8回目は伊予(愛媛県)の宇和島城。

 

  宇和島市は愛媛県でも南予といわれる南に位置する都市で、10世紀に乱を起こした藤原純友の根拠地であった日振島(ひぶりしま)が宇和島港から西に約28Kmの宇和海にあります。

初めて宇和島を訪れた際に、市内の喫茶店のマスターに日振島が港から近いと言われて、その時初めて宇和島は畿内からさすがに遠いと実感したものです。

 

  さて、宇和島城は文禄4年(1595年)に宇和郡7万石で入った藤堂高虎により大改修が加えられ(慶長元年(1596年))、慶長6年(1601年)に完成を見て宇和島城と名付けられ、高虎は今治へ移り宇和島城には城代が置かれました。

慶長13年(1608年)に伊勢津藩より移封されてきた富田信高が10万1900石(12万石とも)で藩主となりここに宇和島藩が成立しました。

その後、慶長18年(1613年)富田信高は改易、翌年の慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男(庶子)である伊達秀宗が10万石で入り、以後9代、明治まで宇和島の地を治めました。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  北から登り、急な階段状の道をとると、苔むした石垣の間を通ります。

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  撮影 1998/07/28

 

  二の丸から本丸への坂から見た天守閣。

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  意外に大きい天守閣。

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  天守から港の方向。

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  以上 撮影 2005/08/10

 

  宇和島駅、予讃線を西側に越えて北西にある和霊神社。

  主祭神は宇和島藩家老 山家公頼(やんべ きんより)。

  公頼は家老として善政を敷き領民に慕われるも、讒言により殺害されてしまいます(和霊騒動)。

  公頼を慕った領民は密かに公頼一族の霊を祀り、その後、公頼の無実が判明すると藩主秀宗は公頼を祀る神社を創建し山頼和霊神社としました(承応2年(1653年))。

  現在の場所に遷座されたのは享保20年(1735年)。

  例祭である和霊大祭では同時に「うわじま牛鬼まつり」が催されることで有名です。

  一時、私は全国の祭りに興味を抱いた時期があり、その時代に「うわじま牛鬼まつり」の事を知りました。

  その関係で和霊神社を思い出し訪れました。

  建築自体は空襲で焼失しており、現在の神社は昭和32年(1957年)の再建です。

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  以上 撮影 1998/07/28

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2016年12月16日 (金)

【天守閣】現存12天守(7)2010年9月 - 丸亀城(香川県丸亀市)「石垣の美」

 

  現存天守12城の第7回目は四国讃岐国の丸亀城。

 

  四国を旅行する際によく利用する神戸からのジャンボフェリーの深夜便は高松には朝の5時に到着します。

そして高松駅から四国の様々な目的地、また岡山方面へ出発するのですが、少し時間があれば丸亀のお城を覗いてみることもしばしばで、四国では高松城とともに頻繁に訪れているお城です。

 

 

  現在ある丸亀城の築城は生駒親正が慶長2年(1597年)に高松城の支城として築いたのが始まりで、慶長7年(1602年)にほぼ完成します。

当初は生駒家高松藩の支城であり、丸亀藩が成立したのは生駒家第4代藩主の高俊の時代にお家騒動(生駒騒動)が起き、その生駒家の改易後の寛永18年(1641年)に山崎家治が丸亀城に5万石で入ったのが始まりです。

山崎氏は丸亀城の改修を行い、この時始めて現在ある丸亀城の縄張りとなりました。

そして万治元年(1658年)山崎氏は3代で無嗣断絶の改易、後任には播州竜野から京極高和が6万石で入り、3代目の京極高或(きょうごく たかもち)の時分封し多度津藩1万石が成立、本藩である丸亀藩は5万1000石となります。

なお、現在の丸亀城天守は初代の高和(たかかず)治世の1660年(万治3年)に完成しました。

そして寛文12年(1672年)、2代目の京極高豊(きょうごく たかとよ)の時、播磨の2村と近江の所領の交換を願い出て幕府に許され、その近江の所領の京極氏歴代の菩提寺清滝寺を復興し徳源院と名付け、歴代京極家の墓を集め、三重塔を寄進し整備。

これが現在柏原(かしわばら 現米原市)の清滝の里にある徳源院で、個人的には岐阜から近場であることから季節ごとによく訪れるお寺です。

過去記事の柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(2) - 清瀧神社と徳源院庭園

同じく柏原宿と清瀧寺徳源院京極家墓所(旧柏原町 現米原市)(3) - 京極家墓所と徳源院三重塔の記事。

ちなみに、丸亀の京極家は近江源氏の末裔で、信長、秀吉、家康に仕えて再興した京極高次、高知兄弟のうちの高次流。

 

  駅前からは東方向にある商店街を南に抜けると丸亀城大手門前の道路に出ます。

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  手前から大手二の門、内側の方が大手一の門。

  そして上に天守閣。現存12城のうち最も小さい天守です。

  天守、二の門、一の門いずれも現存遺構で重文に指定されています。

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  山の名前から別名亀山城とも言われているので亀山公園。

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  大手二の門、内側から。

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  大手一の門。

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  大手から一挙に登る道。

  見返り坂と呼ばれています。

  急な登り道で、途中振り返りたくなることからこのように呼ばれているそうです。

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  丸亀城の特色は石垣。

  石垣の美は、特に遠く下から見るとよくわかります。

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  丸亀城からの讃岐富士はまた格別。

  特に朝日の昇る前後は美しく、大好きです。

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  本丸の天守閣。

  初めて丸亀城を訪れたのは1996年の夏。

  丸亀城だけを見るために当時住んでいた大阪から日帰りで出かけました。

  もちろん時間に余裕ができたことで高松城へも寄り道をしました。

  まだ高松駅が民衆駅の駅舎だった時代です。

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  本丸からは瀬戸内海が一望できます。

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  当然、瀬戸大橋も見えます。

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  下りはお城の裏口にあたる搦め手(からめて)から。

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  三の丸の井戸。

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  普段の時間は必ず逆光となる讃岐富士。

  したがって丸亀城からの讃岐富士は朝夕がお勧めです。

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  搦め手門跡。外は一般住宅です。

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  搦め手口から東方向のお堀。

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  搦め手門跡から城内の周回道路を左手(西側)に大手の方向へ行くと御殿表門があります。

  旧藩主居館の表門でこちらも現存遺構。

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  大手門方向から振り返って。

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  撮影 2010/09/09

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2016年12月13日 (火)

【天守閣】現存12天守(6)2011年4月 - 松山城(愛媛県松山市)

 

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

 

  現存天守12城の第6回目は愛媛県松山市の松山城。

 

  松山城は1602年(慶長7年)加藤嘉明が築城を開始。

ただ、Wikiや松山市のHPでも完成時がいつであったかは明示されていません。

1627年(寛永4年)加藤嘉明は松山城の完成前に会津若松へ20万石から40万石に加増され移封。

替わりに蒲生忠知が24万石で松山藩主として入部。

蒲生家は本藩である会津藩の蒲生忠郷が嗣子を残さず死去し改易。
しかし、母が徳川家康の娘という配慮から、上山藩主であった弟の忠知が蒲生家を継ぐことを許され松山藩へ転封されました。

しかし、1634年(寛永11年)その蒲生忠知も死去し、ここに蒲生家は断絶となります。

翌年の1635年(寛永12年)桑名から松平定行が15万石で入部、以後15代、松山藩主として続き明治に至ります。

松平定行は定勝系久松松平家の2代目。

久松松平家は徳川家康が母である於大の方の再嫁先の久松俊勝との間の異父弟3人に松平姓を与えたのが始まり。

家康の異父弟である久松松平家には松平康元、勝俊、定勝の三系統があり、三男の定勝系が最も栄え、定勝の6人の男子の内、次男定行は兄の早世により宗家を継ぎ伊予松山藩15万石、三男定綱は桑名藩11万石、五男定房が今治藩3万石とそれぞれの藩祖となり、ほぼ明治までそれぞれの藩を治めました。

他の男子は旗本として子孫に受け継がれ明治に至っています。

そして松山藩の久松松平宗家からは1000石の旗本が分家し、その子孫が元NHKのアナウンサーであった松平定知さん、というのは最近では皆さんもかなり周知の事実です。

過去記事の阿久比町(愛知県)の坂部城跡を訪ねる(3) - 坂部城跡(久松松平家の発祥地)はこちら。

 

  大街道(おおかいどう)電停もしくはバス停から北に行くと松山城ロープウェイ・リフトがあります。

  松山城天守観覧券  大人510円(小人(小学生) 150円)、往復券510円(小人260円)、片道券270円(小人130円)、総合券(観覧券+往復券)1020円(小人410円)。 (2016年12月現在)。

  ロープウェイ・リフト同額でどちらを選択しても良い。

  帰りは歩いて下りるも良しです。

  私の場合は往復券を購入して、帰りは大手門跡から黒門道を歩いて下まで下り、片道分がふいとなりました。

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  大手門跡。

  ここから黒門道を下り二の丸から三の丸(堀之内)へ行けます。

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  大手門跡の横から太鼓櫓。

  遠くに天守群のうちの小天守が見えます。

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  太鼓櫓下から戸無門(となしもん)。

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  戸無門から筒井門、太鼓門を経て本丸内に入ります。

  松山城天守と左が小天守。

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  ここからは入場料が必要です。

  入場料金は大人510円、小人(小学生)150円(2016年12月現在)です。

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  天守、小天守等の内部。

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  紫色の部分が重要文化財指定。

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  小天守から天守広場。

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  天守から艮門(うしとらもん)と艮門東続櫓。

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  天守から本丸内。

  桜は残念な状態でした。

  右、手前から馬具櫓、向こう太鼓櫓。

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  天守閣の前にある天神櫓。

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  再び本丸の広場へ出ました。

  元の道を戻り大手門跡へ。

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  大手門跡。

  このあたりで○○○さんという地元のお城好きの方と偶然言葉を交わし、この後黒門道を下りながら案内して頂きました。

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  黒門道を下ります。

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  二の丸の二之丸史跡庭園の外。

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  二之丸史跡庭園入り口。

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  二の丸から右上に登っている「登り石垣」。

  こちらの南側の登り石垣はほぼ完全に残っていますが、北側は一部分のみ残っているそうです。

  登り石垣は山腹からの敵の侵入を防ぐ石垣で、朝鮮出兵時に倭城築城の際に採られた防備手法。

  彦根城などにも見られるそうです(何度も訪れているが気づかなかった)。

  松山城では○○○さんの案内で教えて頂き、初めて気づきました。

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  三の丸(堀之内)から山麓の二の丸と山上右から太鼓櫓、馬具櫓、天守群。

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  天守群。

  手前右が小天守で天守はその後ろ。手前左は天守群のうちの南隅櫓です。

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  堀之内から出て帰途へ。

  そのまま歩いて大手町の伊予鉄道の平面交差の写真を撮り、その後松山駅へ向かい、17時過ぎの電車で松山を離れました。

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  撮影 2011/04/06

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2016年12月10日 (土)

【天守閣】現存12天守(5)2012年9月 - 弘前城(ひろさきじょう 青森県弘前市)

 

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

 

 

  現存天守12城の第5回目は青森県の弘前城です。

弘前城は元は大浦氏を称していた津軽氏の居城で、弘前藩初代藩主の津軽為信が関ヶ原の戦い(1600年)以後に築城を開始し(1603年)、2代目津軽信枚(つがる のぶひら)の代の1611年に完成しました。

当初は5層5階の天守が築かれるも寛永4年(1627年)に落雷で焼失。

その後、文化3年(1806年)に樺太、択捉の日本の拠点へのロシアの攻撃があり(文化露寇)、幕府は3000名の軍を蝦夷地に派遣し、津軽藩も100余名を派遣。

津軽藩兵は斜里郡に陣屋を設けるも、越冬の際に72名が死亡するという事件を引き起こします(津軽藩士殉難事件(つがるはんしじゅんなんじけん)1807年)。

この派兵で1808年(文化5年)に、それ以前に蝦夷地警備で7万石に加増されていた石高がさらに10万石に加増され、この際に3階櫓の築造を幕府に願い出て許されています。

これが現在にまで残る弘前城天守です(1811年に完成)。

さらに交代寄合の旗本であった黒石津軽家に6000石を分地し、ここに支藩である黒石藩1万石が成立(文化6年(1809年))。

 

  現在の弘前城には現存天守の他にも三棟の現存櫓、五棟の現存門が存在し、何れも国重文に指定されています。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  南側に位置する追手門から入り、北に向かって北門から城外に出る道順をとりました。

  追手門。
 

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  三の丸を北に向かいます。

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  やがてお堀を隔てた二の丸へ。

  お堀越しの右側にある二の丸辰巳櫓(たつみ やぐら)。

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  お堀越しの左側にある二の丸未申櫓(ひつじさる やぐら)。

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  三の丸から二の丸へ南内門を入ります。

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  本丸南東隅にある弘前城天守(御三階櫓とも)。

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  天守内から橋を見下ろして。

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  本丸内側からの天守。

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  本丸西から見える津軽富士(岩木山)。

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  北側から天守。

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  二の丸丑寅櫓(うしとら やぐら)。

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  二の丸東門。

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  三の丸東門。外から。

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  二の丸丑寅櫓(うしとら やぐら)。別方向から。

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  一番北にある北の郭北門(亀甲門)内側から。

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  北の郭北門(亀甲門)外側から。

  お堀を見ながら外に出ます。

  道路の反対側に現役の商家 石場家住宅があります。

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  撮影 2012/09/08

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2016年12月 8日 (木)

【天守閣】現存12天守(4)1999年7月 - 国宝松本城(長野県松本市)

 

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

  現存天守12城のうち4回目は信州松本市の国宝 松本城。

 

  戦国時代の16世紀初めに井川館(松本市)を拠点としていた信濃守護家小笠原氏は林城(松本市)を築城、その支城として深志城を築き、これが松本城の前身。

小笠原長棟(おがさわら ながむね)の時、分立していた小笠原氏を統一し、林城を拠点として小笠原氏の最盛期を迎えます。

しかし、子の長時の時に武田信玄に攻められ小笠原氏は没落、信玄は林城を破棄し深志城を拠点として松本平を支配します。

その後、天正10年(1582年)武田氏滅亡後、小笠原貞慶(おがさわら さだよし 長時の子)が徳川家康の家臣として旧領を回復して深志城を松本城と改名。

天正18年(1590年)北条氏滅亡後の家康の関東移封に伴い小笠原氏も移封。

後には石川数正、2代目康長。

康長の時関ヶ原の戦い(1600年)で康長は東軍側につき家康から本領安堵される。

しかし、大久保長安事件で改易。

後に再び小笠原家が8万石で入り小笠原秀政(小笠原貞慶の嫡男)、忠真と2代続き忠真が播磨明石藩へ加増移封。

そして、後には戸田(松平)家が7万石で2代、その後松平(越前)直政7万石、堀田正盛が10万石、寛永19年(1642年)水野家が7万石で入り6代、最後に再び戸田(松平)家が享保10年(1725年)に6万石で入り9代で明治を迎えました。

 

  天守の建造年にはいくつかの説がありますが、いずれにしても1600年前後、遅くても1615年説までのようです。

 

  いつもの余湖くんのホームページからの引用図。

Matumototyo

 

  南西側からの天守閣。

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  北西側から。

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  西から。

 

  この1999年の旅行は大変な強行軍で1日目に松本城、諏訪高島城、諏訪大社を訪れ上田で一泊。

  上田城は朝の内に寄り、さらに長野から北上し高田城を訪れ新潟から新発田へ、新発田で一泊。

  帰りは新発田城、長岡の模擬城(長岡城とは場所も城も別物)を訪れ、後は一挙に長野、松本、中津川、名古屋、岐阜まで帰るという強行軍でした(全行程普通列車)。

  そして、岐阜の実家から当時の住所である大阪へあくる日に帰るという、今ではもう体力的に無理だろうと言う大旅行でした。

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  黒門。

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  黒門から入りました。

  当時の拝観料は忘れました。

 

  現在(2016年12月)の松本城天守(本丸庭園内)観覧料(松本市立博物館との共通券)は大人610円(小、中学生300円)。

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  本丸庭園からの天守閣。

  天気があまり良くなくて残念でした。

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  残念ながら内部の写真はありません。

  内部を撮影したコンパクトカメラを紛失(盗難の疑いが強い)し、その後の旅行が気まずくなった苦い思い出があります。

  写真すべてがフィルムカメラによる撮影で、それをスキャンしてデジタル化しました。
  スキャンの過程で画質が落ちました。

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  撮影 1999/07/27

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2016年12月 5日 (月)

【天守閣】現存12天守(3)2010年4月 - 彦根城(滋賀県彦根市)

 

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

  慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の家臣である井伊直政は戦功として高崎12万石から18万石に加増され石田三成の居城であった佐和山城に入城します。

しかし、井伊直政は関ヶ原の戦いでの傷が元で死去(慶長7年(1602年))。

そして、嫡男直継の代に佐和山城に替わる彦根城の築城を開始し(慶長8年(1603年))、慶長11年(1606年)に完成します。

しかし直継は病弱で大坂の陣には弟の直孝を参陣させることとなり、これを理由に上野安中藩に3万石を分地という形で移封。

替わりに大坂の陣での活躍を認められた直孝が慶長20年(1615年)15万石で家督を継ぎ、第2代藩主となります(直継は彦根藩主としては認められなかった)。

以後、井伊家は16代にわたり(再封された藩主が二人存するために14代とも)明治まで移封もなく彦根藩藩主を務めます。

井伊家は譜代大名の筆頭格として大老を輩出し、幕末には日米修好通商条約の締結、安政の大獄を敢行し、その結果桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼(いい なおすけ)がいます。

 

  いつもの余湖くんのお城のページからの引用図。

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  彦根駅から見える彦根城天守閣。

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  駅前にある藩祖井伊直政の像。

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  駅前通を彦根城へ向かう途中、通りの左側にある石屋さんの石造り「ひこにゃん」。

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  二の丸佐和口多聞櫓と天守閣。

  訪れたのは桜の季節。

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  表門。

  かって表御殿が存した場所に彦根城博物館があります。

 

  彦根城&玄宮園入場券600円(小、中学生200円)、玄宮園のみは200円(小、中学生100円)、彦根城博物館500円(小、中学生250円)。

  彦根城(玄宮園含む)&彦根城博物館セット券1000円(小、中学生350円)。

                                   (2016年12月現在)

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  この日は表門からではなく、南に迂回して大手門から入りました。

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  この坂を登ります。

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  表門から石段を登っても、大手門から登っても、天秤櫓に架かる橋の下で合流します。

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  天秤櫓と橋。

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  国宝 彦根城天守閣。

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  搦め手の黒門の出入り口。

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  玄宮園からの天守閣。

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  同じく玄宮園から。

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  撮影 2010/04/08

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2016年12月 3日 (土)

所用ついでの駅撮り2016年12月 - 京都駅と綾部駅(京都府綾部市)

 

  体調を崩して2か月、久し振りに所用がてらのリハビリ旅行。

いつもの駅撮りで面白味も何もありません。

 

  京都駅にて。

  奈良線ホーム。息の長い103系と区間快速221系。

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  関空特急「はるか」281系待機中。

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  山陰線ホームの221系。

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  綾部駅にて。

  特急「きのさき3号」+特急「まいづる1号」287系7両編成。

  綾部駅で分割されて後ろ3両は舞鶴線を東舞鶴へ、前4両は福知山へ。

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  同じく綾部駅

  京都丹後鉄道・タンゴディスカバリー車両で運行される特急はしだて5号の到着。

  先頭は丹後の海車両。

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  撮影 2016/12/02

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2016年12月 1日 (木)

【天守閣】現存12天守(2)2008年1月 - 犬山城(愛知県犬山市)

 

 

  この記事は以前に掲載した既出の記事の再掲です。

現存天守についてのシリーズは以前に企画しており、そのまま当時のものを引き写しました(一部手を加えている)。

 

  現存天守12城の内の第2回目は愛知県犬山市の国宝犬山城。

  犬山城を巡る攻防は戦国時代に幾度も繰り広げられていますが、現在の地に城が築城されて以後の最初のハイライトは、織田信長が今川義元の尾張侵攻に勝利した後に犬山城主織田信清と戦った際の攻防戦で、結果は信長が犬山城を奪取して、ここに信長の尾張統一戦が最終的に完成します(永禄7年(1564年))。

ちなみに信清は信長の従兄弟にあたり、永禄元年(1558年)の浮野の戦い・岩倉城攻略(永禄2年(1559年))では信長方として尾張上四郡の守護代家であった織田伊勢守家を破りこれを追放しています。

信長はこれにより、先の天文24年(1555年)に尾張下四郡の守護代家の織田大和守家を滅ぼしたのに続き上四郡をも併せて尾張統一に成功します。

しかし、信長と信清との間での領地配分が定まらないまま今川義元の尾張侵攻があり(永禄3年(1560年)桶狭間の戦い等)、それが戦後に対立が再燃し、犬山城奪取と信清追放となりました。

 

  織田信長の美濃への侵攻はまず中美濃から東美濃への攻略から始まり、犬山城はその拠点となり、重要な位置を占めました。

犬山城を奪取した翌年には信長は小牧山城に居城を移し、永禄10年(1567年)には稲葉山城を落とし美濃を得ます。

そして、信長は地名を岐阜と改め岐阜城へと居城を移転(この時小牧山城は廃城)。

 

  以降の犬山城の攻防では天正12年(1584年)の羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)との小牧・長久手の戦いの前哨戦で美濃大垣城主であった池田恒興が犬山城を攻め信雄方から奪い取っています。

また、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))では、やはり前哨戦として岐阜城攻めと共に犬山城も東軍の標的とされるも開城という形で決着がつきました。

 

  慶長6年(1601年)徳川家康の四男松平忠吉が尾張国清洲城52万石に封ぜられると付家老に命ぜられた小笠原吉次が犬山城主。

そして、忠吉没すると慶長12年(1607年)徳川義直が甲斐25万石から47万2344石で尾張藩主として封ぜられ、付け家老として平岩親吉が犬山城に12万3000石で入り、義直が幼く駿府に在府のまま、平岩親吉が藩政を主導します。

しかし、慶長15年(1610年)に始まった名古屋城築城中の慶長16年(1611年)名古屋城二の丸御殿で平岩親吉は死去。

1616年(元和2年)藩主徳川義直が名古屋城に入った翌年、3万4000石の大名であった成瀬正成(なるせ まさなり)が家康に乞われ尾張藩付家老として3万5000石で犬山城主となり、以後明治まで9代にわたり犬山城主を務めました。

成瀬正成の治下元和3年(1617年)ごろに犬山城は現在の姿となった、ということです。

 

  春の犬山城。犬山橋から。

                                                                                          撮影 2012/03/20

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  5月の犬山城。犬山橋から。

                                                                                            撮影 2011/05/31

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  名鉄犬山駅にて。

  北尾張の名鉄のターミナル駅3面6線。

  犬山線、広見線、小牧線、各務原線等の車両が発着します。

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  駅舎。西口。

  バスは東口へ、明治村等へは東口バス乗り場へ。

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  古い町並みが残る市内。

  犬山城へは犬山駅、もしくは犬山遊園駅下車。いずれも徒歩で15分から20分ぐらい。

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  模擬門。

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  国宝犬山城天守閣。

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  天守閣から東に見える木曽川上流方向と犬山橋。

  左側が岐阜県各務原市(かかみははらし)、右側が愛知県犬山市。

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  以上 撮影 2008/01/06

 

  2月夕方の犬山城。

                                                                                              撮影 2013/02/13

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