2016年5月 7日 (土)

河内飛鳥(大阪府)を歩く2016年5月(4) - 河内源氏三代(源頼信、源頼義、源義家)の墓所(2)源義家と源頼信の墓

 

  通法寺跡の門前から左へ昔ながらの通りを行くこと200mぐらいで竹藪のある丘陵に至ります。

ここの急な坂道を息を切らしながら登り切ると、上は一定の広さのある平地で、そこに円丘の形をした源義家の墓があります。

 

  道なりに行けばたどり着けます。

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  イノシシに注意と書いてあったので、おっかなびっくり。

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  源氏三代の墓

 

  源氏三代の墓(源頼信(みなもとのよりのぶ)・頼義(よりよし)・義家(よしいえ)は、河内源氏の里、通法寺付近にある。

頼信は、河内守(かわちのかみ)に任官後この地に邸宅を構え、数々の戦乱を平定し、余生をここで過ごしたが、永承3年(1048年)に死去しその遺言により通法寺の「巽」の方角に葬られた。

頼義の墓は通法寺旧本堂址にあり、永保2年(1082年)79才で死去し、遺言により本堂の床下に葬られたが、後に現在の位置に移された。

義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘である。

嘉承元年(1106年)7月、京の邸宅で死去し、ここに葬られたという。

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  やっと登り切ると右手に円丘、左手には一列にお墓が並んでいます。

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  反対側が正面。

  源義家の墓。

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  中は窺えません。

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  源義家の墓 みなもとのよしいえ のはか


  源義家は父頼義、母平直方の女(むすめ)の長男として生まれた。

七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。

永保三年(1083)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。
この功績から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。

また、永徳二年(1098)武将で、はじめて院への昇殿(殿上人(てんじょうびと))を許された。

晩年、康和三年(1101)七月、次男対馬守義親(よしちか)が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106)六月に事件をおこすなど、義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。

最後は嘉承元年(1106)七月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。

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  奥に進むと板橋があります。

  そこから下りる道がありますが、構わず奥に進みます。

  帰りはこの道を下ります。

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  源頼信の墓。

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  源 頼信の墓  みなもとのよりのぶ の はか

 

  源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原通兼や道長に仕えた。

特に長元元年(1028)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。 この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁として確固たる地位を築いた。

また、上野、常陸、石見、伊勢、美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。

その時、河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。

長久四年(1043)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された。

永承三年(1048)、八十一歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られた。

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  南に向かうと府道32号線に出ます。

  ここから府道を東へ向かいます。

  太井川橋(たいがわばし)の交差点。

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  撮影 2016/05/02

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2016年5月 5日 (木)

河内飛鳥(大阪府)を歩く2016年5月(3) - 河内源氏三代(源頼信、源頼義、源義家)の墓所(1)源頼義の墓

 

  後の鎌倉幕府に繋がる源氏が河内源氏です。

源氏は臣籍降下の際に名乗る氏の一つで、多くの天皇の治世に多くの皇族が臣籍降下し源氏を名乗りました。

河内源氏はそのうちの一つである清和源氏の一つの氏です。

清和源氏では他には一時勢力を争った摂津源氏もそのうちの一つで、河内源氏は子孫から鎌倉将軍を輩出したことから武家棟梁の家柄とされています。

清和天皇の子孫からは新田氏、足利氏、武田氏、佐竹氏、細川氏、今川氏、土岐氏、南部氏など多くの武家が輩出しています。

源氏についての概略のみ述べましたが、平氏(例えば桓武平氏など)についても同じく臣籍降下から武家となっていった人々もいます。

 

  壺井八幡宮から真南への道路。

  壺井八幡宮から真南への道路を行くと、途中に源頼義の墓はこちらと左を指した案内板があります。

  その通り、川べりの住宅地を道なりに歩いて行くと通法寺跡の門前に出ました。

  壺井八幡宮から10分ぐらいです。

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  河内源氏の菩提寺であった通法寺跡。

  明治元年に廃仏毀釈により廃寺とされたのは残念。

  境内に河内源氏2代目の源頼義の墓があります。

  墓標や柵は明治末のものだそうで、石灯籠は元禄年間に柳沢吉保らから寄進されたもの(Wiki参照)だそうです。

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  大正時代(大正八年)に建てられたと思われる通法寺址の碑が門前にあります。

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  源頼義(みなもと の よりよし)の墓所。

 

  父の頼信とともに平忠常の乱(長元3年(1030年))の追討に加わり抜群の活躍をすると、それが縁で、相模守在任中に平忠常の乱鎮定に失敗した平直方は娘を源頼義に嫁がせ、鎌倉の邸宅、所領、郎党などを譲ります(Wikiなど改変)。

ちなみにこの二人の間には八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光が生まれています。

源頼義は歴史教科書的には前九年の役(1051年 - 1062年)の活躍の方が有名です。

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  源頼義(みなもとのよりよし)の墓

 

  源頼義は父頼信、母修理命婦(しゅりのみょうぶ)の長男として生まれた。

平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていた。

永承六年(1051)「俘囚の長」である安倍頼良(あべのよりよし のち頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。

一旦は頼時を従わせたが、その後頼時とその子貞任(さだとう)がふたたたび謀反を起こしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年(1062)ようやく乱を平定した(前九年の役)。

また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。

永保二年(1075)七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。

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  墓標。

  明治末のもの。

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  通法寺址門前。

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  撮影 2016/05/02

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2015年9月12日 (土)

夏の終わりに角館、松前を訪れる 2015年(8) - 武家屋敷通りの角館(かくのだて)を散策(6)天寧寺の芦名家墓所

 

  石黒家屋敷から武家屋敷通りの北端まで行くと角館城跡(古城山)が見えます。

 

  戦国時代に角館を治めていたのは角館城を居城とした戸沢氏です。

戸沢氏は西の安東氏や南の小野寺氏と争いながら盛安の時に最盛期を築き、秀吉の小田原征伐にはいち早く参陣。

この後、盛安は小田原の陣で没するも光盛が跡を継ぎ無事角館の本領安堵を得て豊臣大名として存続。

関ヶ原の戦いの際には東軍に参加するも消極的な態度に終始し、戦後戸沢氏は減封の上常陸松岡藩へ転封。(ちなみに、のち山形の最上氏改易に伴い新庄藩(山形県新庄市)6万石で入封、維新まで11代、新庄藩主として存続しました)。

そして戸沢氏を含む転封、改易の諸将の代わりに常陸から佐竹義宣が久保田藩(秋田)に入り角館へは所預(ところあずかり)として弟の芦名盛重(義勝と改名 義広→盛重→義勝)を配しました。

義勝は現在ある角館の町並みの整備に着手し、一方、角館城は元和元年(1615年)の一国一城令に伴い元和6年(1620年)に廃城としました。

角館散策マップ PDFファイル。

 

  古城山。

  芦名義勝は慶長7年(1602年)に1万6千石で角館城に入り、従前の城山北側の城下町を現在の南側に新しく整備しました。

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  旧石黒(恵)家。

  昭和10年に建設の住居。

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  武家屋敷通りの東側、花場山の山麓の道路を南へ歩きます。

  山麓の近くにある大村美術館。

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  途中から東西方向となる山麓の道路を歩いて行くと北側に天寧寺(てんねいじ)があります。

  もともとは会津若松の天寧寺が本寺で、山号、寺号を譲り受けてこの地に創建し芦名氏の菩提寺としました。

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  本堂。

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  本堂向かって左横の墓地へ石段をあがってさらに右上に芦名家墓地があります。

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  殉死した盛俊の下男(草履取り (姓名不詳))の墓。

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  芦名家墓碑

 

  義勝(最後の会津芦名氏当主芦名義広、豊臣大名としての常陸江戸崎城主芦名盛重、初代角館芦名氏)。

  盛俊(義勝の子、第2代角館芦名氏)。

  盛泰(義勝の子、盛俊の兄、義勝の兄である初代久保田藩主佐竹義宣の養子となるも夭逝)。

  千鶴丸(せんつるまる 盛俊の子、第3代角館芦名氏、享年4歳)。

 

  千鶴丸の早世で芦名氏は断絶。

  岩橋又右ェ門、宮崎主殿之助は盛俊の死に際して殉死した家臣。

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  花が供えられているのが義勝の墓碑。

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  これで角館を離れます。

 

  最後に芦名義勝について。

芦名氏は戦国時代には会津の黒川城(現会津若松 福島県)を本拠とした中世以来の名族で芦名盛氏の代に最盛期を迎えるも世継ぎが次々と亡くなり佐竹義重の次男である義広(義勝)を養子として迎えます。

しかし芦名家中がまとまらないまま伊達政宗と摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい 天正17年(1589年))を迎えこれに大敗。

義広(義勝)は黒川城を捨て常陸の父の元に落ち延びます(会津芦名氏の滅亡)。

その後、豊臣大名として常陸の龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に4万5,000石を与えられ復活(盛重と名乗った時代)。

しかし関ヶ原の戦いでは兄の佐竹義宣と共に西軍につき義宣は秋田に転封(久保田藩)、義広(義勝)は改易となり兄に随従し秋田へ赴き家臣として角館1万6千石を与えられます。

これが角館芦名氏となります。

 

 所預(ところあずかり)について。

 

  久保田藩では一国一城令の例外として本城の久保田城以外にも大館城、横手城が持ち城として認められ、それぞれ城代として大館城には佐竹西家、横手城には戸村氏が入りました。

また角館(城)には所預(ところあずかり)として芦名氏、のち佐竹北家、

湯沢(城)には所預として佐竹南家、

檜山(城)には所預として多賀谷氏、

十二所(城)には所預として茂木氏、

院内(城)には所預として大山氏が入り、

これらの城代、所預が藩内の地方支配を行い治めました。

所預とは城代とともに藩内領主のような地位にあったものと言えるでしょう。

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  撮影 2015/08/29

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2015年3月 6日 (金)

山崎の宝積寺(ほうしゃくじ 京都府乙訓郡大山崎町)を訪ねる(1) - 観音寺(山崎聖天)へ

 

  山崎の宝積寺(ほうしゃくじ)は別名宝寺(たからでら)と呼ばれています。

地元の人に「宝積寺は どちらの方向ですか?」と尋ねても答えは得られず「宝寺」と言い直すとすぐに教えて頂けます。

宝積寺は秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い(1582年(天正10年))」で有名な「天王山」の山腹にあります。

初めて訪れたのは2000年代の初めで、山崎への関心は宝積寺の三重塔と「山崎の戦い」の後大阪城築城まで秀吉が根拠地とした宝寺城跡の存在でした。

秀吉と城跡に関する資料や解説が無いかと大山崎歴史資料館を訪れましたが、展示内容は大山崎油座等の中世商業の中心地である大山崎の役割や山崎の戦い、妙喜庵などに重点が置かれ、合戦後の宝寺城と秀吉に関する記述は私の見た限りありませんでした。

もちろん大山崎の油座などの中世経済や交通の要衝としての大山崎に関してはそれはそれで興味深いものでしたが、もう少し宝寺城や秀吉(山崎の戦い以外)に言及があってもと思い資料館を後にした思い出があります。

 

  宝寺(たからでら)のいわれは「聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名がある」(Wiki引用)そうです。

 

  山崎駅前から線路にそって京都方向に歩いて行くと踏み切りがあります。

線路を挟んで反対側の上り坂を登ると宝積寺に至り、境内を経て天王山へ登る登山口があります。

 

  山崎駅に到着したのは9時過ぎ。

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  JR山崎駅。

  近くには阪急電車京都本線の大山崎駅があります。

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  駅前広場に面してある妙喜庵(みょうきあん)。

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  明応年間に(1492~1500)に俳人であり連歌師であった山崎宗鑑が隠居所として建立したと伝えられる(下の案内板より)。

  拝観は予約制で予め申し込みが必要。

  大山崎歴史資料館に「待庵と利休」という形で一コーナーが設けられています。

  茶室と待庵が国宝、書院が重文に指定されている貴重な文化財です。

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  山崎駅付近の地図。これからは桜が見どころです。

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  いつもの「余湖くんのお城のページ」からの引用図。

  これを見ると宝積寺まで登ったのならもう少し頑張って上まで行ったらよかった。

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  駅から線路に沿って京都方面へ。

  JR山崎駅を振り返って。

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  踏み切りを渡ると天王山の登り口。

  宝積寺はこの上にあり宝積寺の中を通りさらに登る事になります。

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  踏み切り。

  渡り終えて京都側からJR山崎駅方向を

  右上に登って行くと宝積寺。境内からさらに登って天王山に行けます。

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  登り口あたりが山崎宗鑑が隠棲した庵の跡(冷泉庵)。

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  句碑には「うつつきて ねぶとに鳴や郭公」。

  「郭公」は「ほととぎす」と読みます。

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  宝積寺は後にし線路沿いを京都方面に歩きます。

  途中に山崎院跡の碑。

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  奈良時代の高僧行基が神亀二年(725年)大山崎に至り淀川に山崎橋を架橋、その後橋を管理し行基の教えを広める道場として天平三年(731年)に山崎院を建立しました(下の案内板より)。

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  やがてこんなところに。

  天王山への別の登り口。

  ここから山崎聖天(観音寺)へ。

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  撮影 2015/03/05

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2015年2月 6日 (金)

九鬼氏の波切(なきり)城址と大王﨑灯台を訪ねる(1) - 仙遊寺(波切九鬼氏5代の五輪塔)

 

  去年(2014年)の暮れも押し迫った12月29日に三重県志摩半島にある波切(なきり)九鬼氏の波切城址と波切九鬼氏5代の五輪塔のある仙遊寺を訪れました。

すぐ近くには大王﨑灯台がありそちらも合わせて訪れました。

 

  近鉄名古屋駅を特急で8時過ぎに出発、最寄りのバスが出ている鵜方駅(うがたえき)に10時過ぎに到着。

40分ほどの待ち合わせで御座行きのバスに乗車し19分で大王崎灯台バス停に到着し下車。

バス停は波切港の横にあり、右手から漁港の最奥部を向こう側に歩いて行くと仙遊寺があります。

そこから南に坂を登ると海が見渡せる防波堤沿いの道に至ります。

 

  鵜方駅(うがたえき)。

  近鉄志摩線の駅。鳥羽からさらに南にあり、終点の賢島まではすぐ。

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  駅前には三重交通のバス乗り場があります。

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  御座港(ござこう)行きバス。

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  大王崎灯台バス停に到着。

  バスは西に方向を変え英虞湾を望む御座港まで40分以上の道のり。

  御座港からは対岸の賢島港への高速船が運行されています。

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  波切港は北東に向かって開いています。

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  港の最奥部。

  山影から大王崎灯台が覗いています。

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  港の最奥部の反対側、東側に仙遊寺があります。

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  入って左手に木戸があります。

  お寺の方でしょうか、私に気付いてここを開けて下さいました。

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  木戸を入って左側に波切九鬼氏5代の五輪塔があります。

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  【説明板全文】

16世紀初期、尾鷲市九鬼の城主隆長の弟隆良が、波切郷士の川面道三を頼って波切へやって来て道三の娘婿となり、波切村の主に推戴されました。

そして大王崎灯台の辺りに城を築き、次第に勢力を伸ばしました。

三代目隆次・四代目泰隆は、加茂田城にまで進出しました。

そして嘉隆の時には織田信長・豊臣秀吉に従い志摩を手中に収め、鳥羽城を構築し九鬼水軍として名を広めました。

しかしこの嘉隆、出自不詳。

寛政系譜では、波切九鬼の五代目定隆の子として系図を作ったので世間ではそれを用いておりますが、史実ではありません。

当仙遊寺では隆次が開基であり、五基の五輪塔が安置されています。

その中で隆次と泰隆の塔には法名命日が明記されています。

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  右から定隆(5代)泰隆(4代)隆次(3代)隆基(2代)隆良(初代)。

  この情報は他のブログからの引用で当地では明確に書かれていません。

  ただ、説明板にもあるように隆次と泰隆の五輪塔には法名と命日が刻まれています。

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  庭の奥から。

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  一旦外に出て道を奥へ。

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  九鬼氏の家紋七曜。

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  入口右手の祠。

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  波切港(なきりこう)を振り返って。

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  南に坂があります。

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  太平洋と大王﨑灯台。

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  撮影 2014/12/29

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2015年1月29日 (木)

新年旅行 2015年1月(13) - 明石城(兵庫県明石市)(1)

 

  明石藩は元和3年(1617年)播磨一国を領有していた池田家が鳥取に転封され姫路藩15万石、明石藩10万石、龍野藩5万石、赤穂藩3万5千石、平福藩2万5千石、山崎藩3万8千石他中小藩に分割されたことにより立藩されました。

明石藩は信濃松本藩から転封された小笠原忠真が10万石で船上城(ふなげじょう)に入ると船上城(ふなげじょう)を廃城とし新たに明石城を築城。

以後、明石藩は藩主家が小笠原家1代、松平(戸田)家が7万石で2代、大久保家が7万石で1代、松平(藤井)家が7万石(→6万5千石)で2代、本多家が6万石で1代と推移し、天和2年(1682年)に松平(越前)家が6万石(→8万石(10万石格))で入部してやっと安定し当家が10代続き明治に至ります。

現存する巽櫓(たつみやぐら)・坤櫓(ひつじさるやぐら)を中心に本丸、稲荷曲輪、二の丸、東の丸、三の丸がよく残っており、今回はじっくりと歩いてみました。

 

  JRの明石駅から見える左から本丸の坤櫓(ひつじさるやぐら)、巽櫓(たつみやぐら)。

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  南側にはJRと並行して山陽電車の明石駅があります。

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  明石公園全体図。

  左が北。

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  明石城の主郭部分。

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  駅北には東西にお堀が残っています。

  東の方。

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  西の方。

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  大手虎口の枡形。

  ここから公園内に入ります。

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  同じく。

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  天気が悪くなってしまいましたが、桜の時期に訪れた際には良かった思い出があります。

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  坤櫓(ひつじさるやぐら  未申櫓とも書きます)。

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  巽櫓(たつみやぐら)。

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  1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では大きな被害を受けました。

  修復が成ったのは1999年(平成11年)でした。

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  石垣に新しい部分が見えるのは修復時に積み直された石垣と考えてよいのでしょう。

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  坤櫓(ひつじさるやぐら)真下から見上げて。

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  突き当りの石垣が天守台。

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  登って来た登城道。

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  撮影 2015/01/07

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2015年1月17日 (土)

新年旅行 2015年1月(8) - 高松、坂出付近の雨中旅行(1)丸亀港太助灯篭、瀬戸大橋記念公園、坂出市塩業資料館

 

  新年旅行3日目は四国香川県の丸亀市から始まりました。

この日は朝からあいにくの雨でしたが、高松在住の友人の案内を頂いて車による旅行であったため、インドアの博物館、資料館中心の旅行としてなんとかしのぐことができました。

 

  手始めに丸亀駅から歩いて5分ぐらいの距離にある丸亀港の太助灯籠を訪れました。

以前、岡山県の児島(現倉敷市)の塩田王である野崎家を訪れた際の記事で下津井電鉄の設立の理由、原因等について書いたことがあります。

江戸時代から本州、四国の間の金刀比羅参拝の最短ルートとして賑わったのが下津井~丸亀ルートでした。

しかし、明治中期から末期にかけて岡山~宇野~高松のルートが開通し倉敷~下津井~丸亀のルートから前者に人、モノの流れが変わり、これに丸亀、児島、下津井の豪商、豪農、廻船問屋等が流れを元に戻すべく新しい鉄道を敷設し対抗しようとしました。

これが後の下津井電鉄です。

しかし結果的には国鉄の宇高連絡船に人、モノの流れは奪われ下津井~丸亀ルートは元の賑わいを取りもどすことはできませんでした。

その江戸時代から明治時代の賑わいを彷彿とさせる遺構として残るのが太助灯篭です。

 

  太助灯篭と瀬山登の像。

  瀬山登は丸亀藩家臣で丸亀うちわを藩の産業として育成、丸亀港を整備し、金刀比羅参拝客に丸亀うちわを土産として販促して丸亀うちわの名を全国的に広めることに貢献しました。

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  金毘羅講灯篭。(全文)

丸亀は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。
金毘羅講寄進のこの青銅灯篭は 、天保九年(1838年)の製作で、五・二八メートル、蓮    華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人、栢屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、
江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が金でできた信仰と、航路標識をかねたもので、
江戸講中の代表八十両の最高額寄付者の名をとどめて、一名「太助灯篭」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸に二基、福島湛甫に二基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。
金毘羅街道の「一の灯篭」である。
                 丸亀市教育委員会

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  太助灯篭付近から「みなと公園」。

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  「みなと公園」から。

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  丸亀から車で坂出市の瀬戸大橋記念公園へ。

  瀬戸大橋と瀬戸大橋タワー。

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  左のゾーンの海に面した白い部分が「香川県立東山魁夷せとうち美術館」。

  ここに入館。

  一般(大学生含む)300円。特別展は510円~610円。

  写真はありません。

 

  瀬戸大橋記念公園への公共交通のアクセスは坂出駅からのコミュニティバスがあります。

  坂出市営バス 時刻表、運賃表。

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  その後「坂出市塩業資料館」へ。

  大人200円、高校・大学生150円、小・中学生 無料、幼稚園以下 無料。

  塩業は瀬戸内での大きな産業でした。

  讃岐の塩づくりの歴史、道具展示を中心に塩づくりのいろいろな様や塩とくらしに関する展示が三つのゾーンに分けて展示されています。。

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  久米通賢(くめみちかた)。

  江戸時代の讃岐(現 香川県)の人。

  大坂で暦学・数学等を学び、1806年(文化3年)高松藩の測量方に採用され、讃岐国最古の実測地図を作成。

  のち塩田開発を藩に進言し採用され塩田開発に従事。「塩田の父」とも。

  また兵法、オランダ流砲術も学んだ。(以上Wiki等参照)。

  香川県の偉人の一人とされています。

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  塩田の絵図。

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  展示の一部。

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  撮影 2015/01/06

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2014年11月26日 (水)

晩秋の会津若松(福島県)を訪れる 2014年11月(9) - 飯盛山(白虎隊自刃の地)

 

  白虎隊は会津戦争(1868年)で会津藩が組織した少年による部隊で、16才から17才で構成されていました。

白虎隊は全部で343名からなり、飯盛山で自刃したのは戸ノ口原の戦いに投入された二番隊のうちの20人。

飯盛山まで落ち延びた20人は会津若松城を望み、その様子から落城したと誤認し自刃したとされています(生き残った飯沼の資料では城は焼け落ちていないことを知りつつ自刃したという。会津若松城はそれ以後1か月ほど持ちこたえています。)。

そして自刃した20人の内ただ一人蘇生し、維新後を1931年まで生きた飯沼貞吉が晩年になって飯盛山での白虎隊の出来事を明らかにし、白虎隊の悲劇的な結末が世の中に知られるようになり、それ が現在まで語り継がれています。

 

  飯盛山登り口。

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  石段の横には有料エスカレーターが設置されていました。

  大人250円。

  私はもちろん石段を登りました。

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  中間地点。

  エスカレーターの中間地点からは150円。

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  登りきると広場に。

  左手に白虎隊十九士の墓、右手に下りた場所が自刃の地。

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  右手に下りた場所が白虎隊自刃の地。

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  ここから会津若松城が望めます。

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  ポールの向こう側に鶴ヶ城(会津若松城)が見えます。

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  広場の左手に白虎隊十九士の墓があります。

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  白虎隊十九士の墓。

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  少し石段を下りた場所から右手に「さざえ堂」へ。

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  さざえ堂。

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  「さざえ堂は1706年に建てられたといわれる高さ16.5m、回廊の付いた六角三層の仏堂です。正面から螺旋状に右回りで上り、頂上の太鼓橋を越えると左回りの下りスロープになっていて背面出口に通じます。このような構造は木造建築として非常に珍しく、世界唯一の貴重な建物です。」

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  さざえ堂内部。2003年の写真。

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  さざえ堂から下に下ります。

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  山の中腹にもかかわらず豊富な水量の水路。

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  下まで下りると駐車場があるという事で途中から石段に戻ります。

 

  この後バス停から駅に戻り会津若松での観光は終りとしました。

  時間的な制約から多くの見どころを行き損ねましたが、十分に会津若山の秋を堪能しました。

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  会津若松駅に戻ってきました。

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  会津若松駅にて。

  郡山行き普通電車719系4両編成。

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  撮影 2014/11/08

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2014年11月21日 (金)

晩秋の会津若松(福島県)を訪れる 2014年11月(8) - 会津武家屋敷から飯盛山へ

                      

 

  会津若松の基礎を築いた蒲生氏郷の墓を訪ねて後、墓所の前の国道118号線を横切り、さらに118号線の一本西の通りのバス停に向かいました。

そして、バス停で「まちなか周遊バス」を拾い会津武家屋敷に向かいます。

乗車バス停の「野口英世青春館前」バス停から鶴ヶ城、御薬園を経て会津武家屋敷までは所要20分。

会津武家屋敷は会津藩家老西郷頼母の屋敷や福島県重要文化財の旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などからなる屋外博物館です(会津若松観光ナビ参照)。

 

  国道118号線から脇に入ると蒲生氏郷墓所があります。

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  こんな距離にあります。

  「まちなか周遊バス」は118号線を通らずもう一本西の通り。

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  会津武家屋敷の前で下車。

  私の乗車してきたバスは当バス停で折り返し「飯盛山下」バス停経由で駅に向かいます。

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  「まちなか周遊バス」の内「ハイカラさん」。

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  会津武家屋敷入口。

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  この看板を見て時間がかかりそうだなあと思案。

  値段的にも(大人850円)おざなりに見学するのでは勿体無い。

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  思案中にやってきた「まちなか周遊バス」のうち「あかべぇ」。

  「ハイカラさん」とは逆回りの周遊バスです。

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  駐車場と東山温泉方向。

  こちらの方には松平家墓所もあります。

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  30分ほど待って東山温泉で折り返してやって来た「ハイカラさん」で飯盛山へ向かう事に。

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  会津武家屋敷から6分。

  「飯盛山下」バス停で下車。

  左のバス時刻表は一般路線バスのもの。

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  飯盛山登り口。

  戊辰戦争の際、白虎隊が自刃した飯盛山。

  白虎隊十九士の墓が山の上にあります。

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  撮影 2014/11/08

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2014年11月19日 (水)

晩秋の会津若松(福島県)を訪れる 2014年11月(7) - 蒲生氏郷(がもううじさと)墓所

 

 

  会津若松市役所から方角的には北にあたる史跡「甲賀町口門跡」を訪れて、ここから石垣の脇を西に向かうと蒲生氏郷の墓所があります。

蒲生氏郷は1590年に会津に入部すると城地の黒川を若松と改称し、近世城郭としての会津若松城と城下町を整備した、言わば会津若松の生みの親ともいうべき武将です。

そして会津若松城を別名鶴ヶ城と呼びますが、これは蒲生家の家紋である舞鶴が由来となっているそうです。

 

  蒲生氏郷は織田信長、豊臣秀吉に仕えて重用された武将で、初陣の伊勢北畠氏との戦い(1568年)以後多くの戦いに参加し、1595年に京都(伏見)において40歳で没しました(関ヶ原の戦いが1600年)。

跡を継いだ子の秀行の廟も鶴ヶ城の南西にありますが、残念ながらさすがにそちらを訪れることはできませんでした。

秀行の母は織田信長の次女である冬姫で、信長の氏郷に対する信任ぶりがうかがえます。

 

  史跡「甲賀町口門跡」の石垣の北側を裏手へ向かいます。

  振り返って。

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  蒲生氏郷の墓所の裏手に出ました。

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  入口は西側にあります。

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  蒲生氏郷の墓(五輪塔)。

  興徳寺の寺内にあります。

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  蒲生氏郷顕彰碑。

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  地名の「若松」は氏郷の「出身地である日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来する(wikiより)」そうです。

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  本墓は京都大徳寺にあり、子の秀行が分骨したと伝えられています。

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  氏郷の辞世の歌碑。

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  後ろから。

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  門の前はアーケード街の国道118号線。

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  撮影 2014/11/08

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