御城番屋敷が建設されたのは幕末の文久三年(1863年)のことです。
そしてこの屋敷に住みついたのは戦国時代から勇猛で知られた横須賀党と呼ばれる武士団の子孫でした。
横須賀党は、現在の掛川市にある当時の武田勝頼方にあった高天神城を攻略すべく作られた横須賀城の城主の大須賀康高率いる武士団のことです。
大須賀氏率いるこの武士団は家康の家臣としてその後転戦しますが、1615年の大坂夏の陣の後、大須賀氏は世継ぎがいなくなり断絶となり、横須賀党は主家を失います。
しかし、この後横須賀党は家康の息子の徳川頼宣(よりのぶ)お付きとなり紀州に定着します。
ただ、現在でいう勤務地は紀州徳川家の付家老の安藤氏の紀伊田辺でした。
身分は紀州徳川家の直臣で安藤氏に対しては与力(力を貸す)という立場としての勤務です。
そして時代が下った安政二年(1855年)に「田辺与力」と呼ばれていたこの武士団に安藤氏の家臣にするという命令がでます。
これは紀州徳川家の直臣(直接の家臣)から陪臣(家臣の家臣)に格下げの意味ですから、これには抗議等しましたが受け入れられず、結局彼らはこれを潔しとせず、浪人の道を選びます。
その後、再仕官できるように運動をした結果、6年後に再び藩に戻ることができ、このときに松阪の城番となります。
こうして松阪の今に残る御城番屋敷に住まうことになったというのが経緯です。
そして、すぐに明治維新となり武士は廃業の憂き目となりますが、彼らは政府からの廃業保障として得たお金(歴史用語ですが忘れました)で「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」を作り様々な会社事業を行い、現在も合資会社「苗秀社」として活動を継続しています。
現在は直系の子孫11名で構成されているそうです。
旧参宮街道から、方向的には南西になりますか、駅とは反対側に入って行きますと小学校があります。
そこを右に見ていくとやがて武士屋敷の雰囲気の生垣が連なる殿町(旧・同心町)に出ます。

上の道を右に折れます。
そして少し左よりに行くと松阪工業高校前に。
道のかなたに松阪城の石垣と木の茂みが見えます。

高校の前を行き過ぎると松阪神社の鳥居の前に。

右手方向にすぐ御城番屋敷。
左右に長屋形式の屋敷が。現在は平成の大修理の真っ最中。

もうお城の石垣が近いです。
すぐお城の裏門です。
この右手には土蔵。
公開されている土蔵。
本居宣長旧宅あたりにあった米倉を明治初期に現在地に移したらしいとか。
土蔵に備え付けのパンフレットに書いてありました。
見学無料。
一室だけ入れます。
中には横須賀党から苗秀社までの歴史が写真と共にパネルになっています。

もう一度振り返ります。
右手一番手前の一戸は公開されていると聞いていましたがどうも工事中のようでした。

お城の石垣の上から。
雨が一時強くなった時間ですね。
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